小学4年生の国語教科書、手元に上巻がなくて全体の流れを正確には追えないのだけど、おそらくこんな構成になっているのではないかと思う。
メモ程度に整理しておきたい。
全体を通して感じるのは、「伝える」という軸が一貫して貫かれているということ。
上巻では、空想や写真、文章などの“世界”を子どもに見せ、「どう見えるか」「どう伝えられるか」を考える他者目線の学びが中心にある。アップとルーズのような題材もその流れにある。
そしてその後、新聞づくりやポップ制作など、実際に“伝える”活動へと展開していく。そこから下巻へ進み、より深い「伝わらなさ」や「伝え方の難しさ」を扱う。
いかんせん教科書が手元にない(4年下巻しかない 笑)ので細部は確かめられないけれど、構造としては、世界を見せて、気づかせて、伝えさせる。
そんな流れで設計されているように思える。
教科書全体の流れ

- 上巻 ― 「素材を通じて気づきを得る」段階
- 下巻 ― 「伝えにくさを読み取り、自分の言葉で書く」段階
- 全体構造のまとめ
① 上巻 ― 「素材を通じて気づきを得る」段階
- 世界を見せ、さまざまな素材(空想・写真・文章など)を提示するフェーズ。
- 「自分が何を感じ、どこに気づいたのか」を言語化・整理する訓練。
- “素材 → 気づき” の往復を通して、読み取る力・構造化する前段階、素材を正しく抜く力を育てる。
上巻では、まず「世界を見る」ことから始まっていて、色々な見え方がある空想の世界があることを学んだ後に、写真や映像を通して、現実へとシフトさせている。
そこで、実際に「自分が何を感じ、どこに気づいたのか」を言葉にすることを問われている。
感じたことをただ受け取るのではなく、見え方の違いや、受け取り方の違いを言葉にして整理し、まとめる。まとめたもの(新聞やポップ)が、他者に伝わりやすいものになっているかどうかを考える。
この「素材 → 気づき」の往復が、読み取る力と構造化する力を育てる核になっていく。
つまり上巻は、“見えたものをどう受け取り、どう整理するか”を徹底的に練習するフェーズに見える。
② 下巻 ― 「伝えにくさを読み取り、自分の言葉で書く」段階
- 上巻で身につけた「気づき・整理」を基盤に、より複雑な題材へ。
- 「伝わらない」「伝えるのが難しい」状況を通して、他者理解を深める。
- 文章を抜き出して再構成し、要約・書き換え・書き出しを行い構造化を学ぶ。
- 最終的には「自分を知り」「自分の言葉で伝える」フェーズへ到達。
下巻では、上巻で身につけた「気づき」と「整理」の力を土台に、より複雑で深い題材へと進む。
テーマは、「伝わらない」「伝えるのが難しい」という人間的な葛藤。誰かの思いや行動を読み解きながら、なぜそれがうまく届かなかったのか、どうすれば伝えられたのか――その構造を考えることで、他者への理解をいっそう深めていく。
学びの中心にあるのは、感じたことを自分の言葉にして相手に伝える力を養うために、文章を抜き出して再構成したりしている。
要約したり、書き換えたり、自分の言葉で書き出したりしながら、「伝え方」を学んでいくと同時に、「伝わらなさ」や「伝わりやすさ」も学ぶことができる。
最終的に子どもたちは、「伝わらない」をどうすれば相手に「伝わる」ようにできるのかを通して、「伝えたい・伝わらない他者を理解し、伝えたい自分を知り、相互理解」という段階にたどり着く。
そこでは、表現そのものが自己理解の手段となり、読むことと書くことが一つに結ばれていく。
③ 全体構造のまとめ
- 素材提示(上巻)
↓ - 気づき・整理
↓ - 読解・伝達の難しさ(下巻)
↓ - 書く・表現する・自分と向き合う
→ 「感じる」から「伝える」へ、そして「自分を知る」へとつながる一連の流れ。
わたしの構造予想
もっと言うなら、『友情のかべ新聞』の最後に「ボク」が、
ボク二人が協力してかべ新聞を作ったら、どんなものが出来上がるんだろう。
って言ってるんだけど、これこそ次の学年の題材になってないのかな。5年生の教科書ないから分からないけれど。



この次に大事なことは、伝えたいことだけを伝えるのではなくて、相手の知りたいことを伝える。これも大事なんだよね。要するにニーズマッチ。こんな授業5年生にある?他者が知りたいと思っている情報を纏めるだとか、他者を意識して書く・伝える、こんな授業。流れが合ってるんだったら、こうなってる可能性がある。なってないんだったら、あなたの国語の教科書の構造化、合ってる?読解ミスない?
ミスがないんだったら、わたしの推測は違ってる可能性。どうだろう。流れを掴みたいけど、今のところはここまで。
あとひとつ行けるとしたら、小学6年生では、そのニーズの探り方がある可能性。ニーズを探るのがいっちばん難しいんだよ。国語じゃなくても他の教科「社会」とか、そっちである可能性もあるしね。
書いてて、こんなことで締めくくるのはどうかと思うけど、持論。
けど、5、6年の国語で相手のニーズに沿った伝え方を学んで、社会でニーズを探るってのはありそうかな?ニーズを読むって、時代を読まないといけないから、難易度高い。見通し力もいるしね。
ニーズが分からないと、自分の価値を世の中に提供することができないでしょ。「伝えたいことを伝える」のではなくて、「相手が知りたいことを届ける」ためには、相手のニーズを理解する力がいる。
- 相手のニーズを理解するとは?例えばこのブログで説明してみる
- ここから、ちょっとだけ脱線している。
① 相手のニーズを理解するとは?例えばこのブログで説明してみる
例えば、このブログで言えば、



国語の構造化を人に伝えたい!
と思ったとするじゃない。
だけど、構造化を知りたいという人はいないと思うのよ。わたしみたいな変な人じゃない限り。それがなぜ必要か?というのが分かっていても、価値提供の仕方が分からないと、ゴミになる可能性。
けど、可能性っていうのは、全員にあるのよ。みーんな気が付かないんだから。ゴミにするのよ、自分で。
そこで視点を変えてみる。
じゃぁ、子どもの読解力を上げたいという人はいるでしょう?そしたらそこでマッチがある。
落とし込みが足りないと、



物語の構造化とは….
こうなるんだって。
誰も興味持たない。相手は子どもの読解力を上げたいと思っているんだけど、物語の構造化を説明されるわけよね。あと、国語の構造化の説明だとか。
そうではなくて、相手の要求である「子どもの読解力を向上させたい」に対して、結果論としては「物語の構造化」に行きつくんだとしても、それを相手が果たして“価値”と思えるかどうか?大事なのはここかと思う。
ここで脱線してマーケティング論になると、利益が出なくなる。子どもの読解力を向上させる内容に変換して伝えることができただけで、利益が出る。¥0が初めて価値になる(そこに需要があれば、の話)。「国語の構造化」にはお金払いたくないでしょ。けど、「子どもの読解力を向上させる方法」ならお金払うと思うから。その説明が難しいんだよね。相手の前に置いた情報を相手が受け取ってくれるものになっているかどうか?
マーケティング論だけど、ここが分からないと、人間関係でも苦労することは多くなる。当たり前だ。人が欲しいと思うものが分からないんだから。アレと同じだよ。参観日で「子どもが発表しない、どうしたら発表するようになるか」と相談した親に、「読書をしましょう」って答えるヤツ。筋道は合っていても、落ちない。
ゴールは同じなのに、説明が違うだけでピントがズレる。
だから「子どもの読解力を向上させたい」という要求に、相手が納得して情報を受け取ることができるかどうか?ここまで指導案としてあるとしたら、とても秀逸だと思われる。
もっと先に行くなら、他との差の付け方も大事になってくる。どの情報に価値を感じるか?そこで1番にならないといけない。同じ価値を提供している人と「差」をつけないと、受け取ってもらえないから。その「差」の付け方も、多岐に分かれる。諸々説明したけれど、難易度高いと思うから、ここまで教科書にあるかどうかも分からない。大事ではあるけれどね。
更に先に行くと、



誰の意見が一番良いと思いましたか?
という先生の投げかけに対して、「〇〇さんです!」とすると、くだらない競争社会が成り立ってくる。そうではなくて、そこを、



〇〇さんの意見です。なぜかというと、自分が知りたいと思っていた〇〇の情報を、分かりやすく上手にまとめてくれていたからです。特に〇〇のところを、箇条書きに綺麗にまとめてくれていて、分かりやすく感じました。
を言わせる授業でないといけないと思うし、この生徒の意見すら価値になる。こういう生徒がいるかどうかは、知らない。いないのだとしたら、こういうところの訓練をしているのが「国語」だと思ってる。積み木バラバラだったら、そりゃそんな力つかないって。4年生で伝える学習が入ってきているのだとしたら、6年生ではこれくらいはデフォルトになっとかないとおかしいと思う。
恐らくだけど、1人いる?いない?これくらいじゃないのかな。
ニーズに沿って、読解力向上に向けてのアプローチ方法を考えることができたら、それは“価値”になる。



逆もしかりで、「子どもの読解力を向上させたい」という要求に対して、「物語の構造化」を提供しようとする脳の回路ができるかどうか?ここも大事で、いっちばん出来ないところ。
みんな、ここができないんだって。自分で持ってるのに、提供する回路ができないの。で、ゴミになって眠るの。
この辺りまで、導きがあるかどうか。難易度で表したら10のうち1,000くらいじゃない?10,000かもしれない。ほんとに難しい。
で、もっと言うと、この「物語の構造化」を提供しようとする動機そのものは、自分の信念に基づいたものじゃないと、続かないのよね。そこに自覚的でないといけない。短期的にそうするのか、長期的視野でそうしたいのか?信念に基づいていたら長期的視野でOK。基づいていないのなら、短期的視野でOK。短期か長期かの判断は時代を読む必要もある。
まぁ、こういう具体的なマーケティング的な価値提供よりも、そういう道筋を自分で考えられる力が大事なんだと思う。どういう価値を提供することができるだろうか?ここを考えられるといいよね。圧倒的他者目線だもの。
こういう風に教育できていたら、AIが入って時代が変わろうと、どってことないじゃない。時代に翻弄されずに、生きることができるでしょ。人を構造的に教育していくと、こういう風になるのではないのかな。生き方の持論ね。
情報でも何でもいいじゃない。そういう教育になってる?知らないけど。



時代に沿った教科書がきちんと制作されているのだとしたら、そうなってるんじゃないかなっていう持論。SNSフォロワー10,000の時代は過ぎて、100の濃いフォロワーの時代だし。
もちろん、ぜーんぜん違う可能性もあるよ。笑
何度も言うけど、小学4年教科書(下巻)しかないのよ。ググってもよく分かんないし。
なんでそんなことが言えるのかって、普段からそれしか考えてないからじゃないかな。このブログも、私物化しちゃったけど、他者目線だし。必要な情報を届けられるか?求められているものは何か?は、一応考えてるよ。
じゃないと、日記になる。そんなもの、誰も興味ないでしょ。ブログは、私は、私は、の人には書けない。そこをいかに押さえて書くか?だから、他者目線は矯正(強制)される。押さえすぎずに、こういう蛇足も書くけど。
まぁ、そこは温度だよね。
他者目線って、学習してる、今学んでるって意識がないと、余裕で脱線すると思う。自分の思考を文字(言葉)に起こすと、起こそうとすると、自分がでる。要するに感情がでるんだよ。お題があっても逸れるのよ。愚痴の書き方ひとつ、難しいんだよね。線路に沿って文章を書くって、意外に難しい。わたしもよく脱線してるけど(ニーチェとかね)、それは自覚的です、ごめんなさい。
「ねぇ聞いて、ねぇ聞いて」
こうなるから。うざいのなんのってないでしょ。
学級通信でもさ、伝えたいことを明確にしとかないと、学生時代の思い出とか書くでしょ。あったのよ、一年の頃。驚くじゃない、保護者はよ。
第三者がいる、という目線。意識しないとできないのが、他者目線だと思う。
じゃないと、



10までの足し算カードをみていると、大学時代に必死に英単語を覚えていた私を思い出します。とても懐かしい思い出です。



知らねーよ。
平気でこうなるんだって。思考は人格を作ると思えばね。なかなか、厄介だよね。意識しないと難しい。だって、みんなが自分に興味があると思ってるこの思考回路が怖くない?わたしだけ?ドン引くって。
で、こういう人が周りにいるとして、人生どうなってるか見てみたらどうかと思う。一目瞭然でしょう。そういう目線で他者を見たことある?
あぁいうところができていないということは…から洞察に入るとすぐなのよ。結果が分かるの。1+1=2になってるの分かる?
ただ単に、学生時代の思い出くらい書いたっていいじゃない!じゃないのよ。そこはどうでもいいの。「何のために、誰のために、それをしているのか?」というのはハンドルだから。見たら、ハンドルの無い人生がどうなるか、分かりやすいと思うよ。どうなってる?その人。
小さいことだけど、その小さなことからの波及先まで見ると、どういう世界がその人の世界かが分かる。だから、ハンドル無いとさ、そうとう辛くなるじゃない。どこ向かってるか分からなくなって、通りすがる人々に、



ねぇ、聞いて、わたしってね!っ
て話をしていくけど、



うるさい!っ
て言われるから、怒り出すのよ。こういう言葉じゃなくても、類似した態度、言葉。そして、ハンドルないまま、ずっと走るの。で、通りすがる人々にずっと怒って、叫んでずっと悩む図になる。
② ここから、ちょっとだけ脱線している。
伝え方ひとつ間違うだけで、歪む人間関係もあるじゃない。レベルの低い伝え方するヤツもいるよねぇ。ほんっとくだらない。



ねぇ、聞いて、俺ってね!っ



こうなるだけだよ。どういう言葉もこうなるの、想定の範囲内なのかな?誰だとお思いか?だと、返事は「気づいてるよー。」こうなるな。こうじゃなかったら、次元2だろう。どういうレベルだ。どういうレベルだって言ってるけど、わたしレベルじゃないと、気づかないからな。甘えんじゃねーよ。言ってやるよ。
うるさい!っ。
ほーら言われた、ざまぁみろ、このポンコツが。
想定の範囲内かな?
だから、教育って大事だと、そう思う。



伝えたいことを書いて満足している人の多くは、読者が自分に興味を持っていると無意識に思っているけど、読者には関係ないのよ。そこを自覚しない限り、書いた文章は「ただの報告」で終わるでしょ。これこそが真の蛇足よ。
逸れるにしても、そこは愚痴でも情報じゃないといけないんだってね。
何かしらの「得」がないといけないから。それは、おもしろさでも何でもいい。それが「価値」。
あなたの伝えたその情報は、「価値」があるのかしら。



あと、ペチャパイはペチャパイだ。どうにもならないだろう。自覚的だし、気にもしてない。別に全然怒ってないよ。笑 超絶に優しいからなー。誉め言葉だと思ってるし、おしゃれの一部だと思っている。その方が洋服似合うし、むしろ、そうありたい。見ろ、この自尊心の塊。
お前とはワケが違うんだよ。基準は世間の常識じゃなくて、わたしの常識。わたしの常識とは「洋服が似合うラインかどうか?」だ。トータルバランスだよ。そこまで気にしたことあるー??身長と体重を加味して、上着の長さ54cmが最低限、ここまで意識したことあるー??そう、変人なんだよ。
だけど、伝え方は大事だよな。



あなたは、バストが小さいですよ。
伝え方と言っても、こうじゃないからな、ポンコツ。ゲシュタルトの背景側だぞ。
そこには誠実さが全く感じられない。全くな。わたしが一番重要視しているところだ。
この記事見たら分かるだろ。ちなみに、小学4年生で習うところらしいが、お前いくつだ?何やってたんだ、小学校で。布団持ってきて、寝てたのか?え?教えられてない?わたしもだけど、わたしは教科書読んで気づいたけど、どうかしたの?あ、ごめん、悪気はないんだけど、構造化して事実を抜いたらこうなったけど何か?
伝えるレベルを問われるよ、逆にな。「伝える=次元2」これくらいの判定になるよ。だとすると、内容も「2」の方になるのかな。どういう人格を想定しているんだ。次元2だとすると、ギャーギャー怒る系だ。このレベルよな。そっちじゃないと、祈るよ。なるわけがない。怒りの転換するとでも?しねーよ。転換する「怒り」すらねーよ。
あと、わたし「存在確認」なんてしたこともねーよ。
あと、いい加減にしたらどうだ。
伝えるというよりも、歪んだ伝え方自体が、そっちの方が人としての底を見せられるんだよね。どうなって欲しいか分からないけれど、これは人としての尊厳を放棄し、相手からも奪っていると思うものね。わたし次元になるとよ。



その支配構造よ。分かってくれる。その「分かってくれる」というレベルが、伝言の内容や意図に気づくかどうか?で止まるのだろうな。悪いが、その数手先まで読まれていることに気づけ。
読んでいるのは、お前の無意識層だ。本人は「顕在くん」で話てるから、腹立つこともあるんだろうけど、わたしがお話してるのは「無意識さん」だからね。衝突もあるだろうけど、けど、それが縁起としては正しいんだよ。歪みが無いからな。
分かってくれている…そう、全貌をな。こうなるんだよ。
今度からはバンバン弾こうと思ってる。この辺りの許容が広すぎたんだろう。つまるところ、人理解。「理解はするけど、沿わない。」これやってたはずなのに、理解が過ぎて沿い過ぎたんだろう。
せめて自覚的であるには、対話じゃないと無理なんだよ。読みのレベルで、数十手先上回るから。今、分かるかな?この意図が。崖があるの分かってて進めるわけがないだろう。せめて、「崖じゃない?」こう聞ける余白がないと、無理だよ。なぜ進まないんだ!進めないんだよ。崖だから。崖なのを両者自覚しないと意味がないのよ。
自覚が無い場合は、本人の決断を見るよ。そこがないと、自覚も決断も無いことになるだろう。そういう目線だよ。わたしはね。
お前看板持ってるんだって。


分かるかな。看板持ってる自覚がないから、じゃぁせめて、決断は?こうなってたのは当然だろ。
伝えるとは、相手の存在を尊重したうえで、真実を置くことであって、そこを欠くと、どれほど正しい内容も“ノイズ”にしかならないよ。
「誠実さの欠如」に対する怒りしかわかないことに、気づけと思うよ。相手に「ノイズ」を伝えているという事実にね。何が残るんだ。その存在確認に。
もうひとつ。逆立場で、わたしがコレ(怒らせる行動)をしたとしようよ。そしたらお前は気づけないと思うよ。その差に気づけ。わたしは気づけるけど、お前は気づけない。圧倒的な「差」だよ。わたしが気づくから、同じ位置にいるように見えるだろ。逆だったら、気づかないんだって。わたしはしないけどね。誰かにされているとしたら?あなた、ソレに気づけてるのかしら。
気づく側が常にバランスを取っているからこそ、関係が平等に見えるだけだって。
わたしでも、意識するところだって。そこには感謝が出るからね。気づけているだろうか?相手の配慮に、やさしさに。こうやって人と接するものね。もしかしたら、気づけていない可能性もある。だから、気づきたいんだよ。人の配慮や、優しさにね。そういう意識ではいるよ。例えそれが「投影」であったとしても、行動レベルで感謝をしたいだとか、色々だ。
アンテナの「精度」が違ってるんだって。あと、他者尊重のレベルだよな。お前ゼロだろ?じゃないと、言えないよ。「髪はピンクがいい」。誰の模倣かな?わたし、ピンクは好まないのでね。願いは叶っているのではないのか?「知識さえあれば、それでいい」。知らないとでも?ご存知だよ、色々ね。だから、わたしは尊重していた。尊重しているよ。知らないふりをしてね。知らないふりに甘んじるなよ。「空」じゃない、発言と行動レベルだから事実しか抜かない。お前が思ってるより、全部筒抜けだと思うよ。報告じゃない、全部洞察だ。人読みレベル異常値なんだよ。
伝書バトは、言葉や行動の意味合いまではわたしレベルで接続できない。だから、抜き取って聞く。そこは聞いた情報だから「空」になる。事実だとしても「空」だ。その事実であろう「空」を「空」とし、知らないふりをする。それが今までのわたしだよ。どの道、舐めるんじゃないよ。伝え方ひとつで次元は分かれるよね。
あと、ニーチェの「永劫回帰」どんだけ繰り返すんだよ。お前の手法は、次元5以上には通じないよ。一応、伝えておく。行動に起こして、アドバイスをもらって気づくレベル。こっちはひとりなんだよ。環境に慣れると、呑まれるよねぇ。そういう状況にも。全部ひとりで洞察したらどうだ?それが責任になるよ。
こういう生活も1年過ぎるよな。この1年で、わたしの洞察レベルは1年前と比べて数倍だと思うよね。ひとりで全部考えて結論だしてきてるんだから。「差」はつく一方だよ。嫌でも鍛えられる。
まぁ、感謝はしてるよ。そして、慢心もしない。こうやって、伝えたいことを文字に起こすのは、「空」は「空」でも、霧を晴らすためだ。鮮明になるだろ。
本題に戻る。
「読者の存在を想定すること=他者意識=社会性の原点」じゃないのかな。
これも持論だけどね。
まとめ
4年生の国語の構造は、単なる読解や作文ではなくて、「感じる」「伝える」「理解する」という一連の思考の流れを体験させる構造になっているのではないのかな。
上巻では、空想・写真・文章などのさまざまな素材を通して、「自分は何を感じ、どこに気づいたのか」を言語化・整理する訓練を積む。
ここで育つのは、読み取る力と構造化の前段階、正しく素材抜きする力。
見えたものをどう受け取り、どう整理すれば相手に伝わるのか?
“素材→気づき” の往復を通して、「伝えるために考える」基礎を築く。
下巻では、その力をもとに、「伝わらない」「伝えるのが難しい」状況を扱う。登場人物の気持ちや出来事の背景を読み解きながら、なぜうまく届かないのか、どうすれば伝えられるのかを考える。
特に、『友情のかべ新聞』では、構造化そのものが問われている。
要約・再構成・書き換えといった作業を通して、「伝える技術」と「伝わらなさの理解」の両方を学ぶ。
最終的に子どもたちは、
伝えたい・伝わらない他者を理解し、自分の伝えたいことを知る。要するに相互理解。
という地点にたどり着く。
そこでは、「読むこと」と「書くこと」が一つになり、表現そのものが自己理解の手段となっていくと推理する。
これを一連ではなくて、目的もなくバラバラに教えていたとしたら、崩壊するだろう。ポップやリーフレットを作った記憶。それだけが残る可能性が大きい。
他者目線に立って、他者を理解しながら、自分の伝えたいことを伝えるということは生きる上でとても大切な訓練だと思う。



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