先日、娘の小学校で突然『折り紙禁止』のお知らせがありました。
どうやら、授業中に折り紙をしていた子がいたから、とのこと。ついでに『蛍光ペンで遊んでいた子もいたから』という理由で、蛍光ペンも禁止に。
……なるほど、全部モノのせい。とってもシンプル。ある意味、気持ちいいほど。でも、ちょっと待ってください。
- 授業がその子に合っていなかった可能性は?
- その子の背景や、今の状況はどうだったんでしょう?
- そして何より、『折り紙が楽しみだった子どもたちの気持ち』は?
小さな紙一枚の禁止が、実はけっこう大きな問いを投げかけている気がします。
今回はそんな『折り紙禁止』から見える、大人たちの“ちょっとした見落とし”について、考えてみました。
授業中に折り紙をする子ども、何が問題なんだろう?

- 折り紙をした理由は?わかりすぎてる?わからなすぎてる?
- 『授業中に折り紙=悪』とする短絡的な視点の危うさ
① 折り紙をした理由は?わかりすぎてる?わからなすぎてる?
『授業中に折り紙してました』
——うん、たしかにそれだけ聞けば、『集中しなさい!』と言いたくなる気持ち、わかります。
でもちょっと想像してみてください。
もしかするとその子、すでに中学受験の準備で中学校レベルの問題に取り組んでいて、小学校の授業は『チュートリアル』感覚だったのかもしれない。あまりに簡単で、手持ち無沙汰に。気づけば指先は、机の中から折り紙を取り出していた——。
逆に、授業が難しすぎて何が何だかわからなくなっていたケースも。先生の言葉が頭の上をスルーしていく中で、時間が止まったように感じられたのかも。そんなとき、目の前にあった折り紙は、“現実逃避”ならぬ“小さな避難所”だったのかもしれない。
つまり、折り紙をしていた=悪い子!ではなく、『その子にとって、今の授業はどうだったんだろう?』という問いかけこそ、必要だったのでは?とも考えられる案件。
私たち大人が、背景を想像もせずに、『見えた行動』だけで判断してしまうと、子どもたちの内側にある本当の声や、問題の本質が見えてくることはないです。
それがどう影響してくるかというと、問題の本質が見えないのだから、自分の人生でおこりうる問題の本質も見えづらいということになっていきます。すべてはイコールで成り立つ世界。1+1=2。

……まあ、純粋に『ツルの完成が目前で止まれなかった』という可能性もゼロではないかもしれないけど。
② 『授業中に折り紙=悪』とする短絡的な視点の危うさ
授業中に折り紙をしていた。
——はい、アウト!『授業妨害』レッドカード!即・指導案件!
……となりがちですが、ここで一歩立ち止まってみたいのです。その折り紙、本当に“悪の道具”だったのでしょうか?
もちろん、授業は真面目に受けるべし、集中してほしいという思いもわかります。でも『折り紙をした=悪い子』とスパッと切ってしまうのは、ちょっと“反射的”すぎる気もする。
なんというか、『折り紙折ってる!→怒る!→禁止!』というテンポの良すぎる対応。どこかで聞いたことあるような…これはもしや、現場の“あるあるテンプレ”?
そしてそのテンプレが発動すると、たどり着く結末はおなじみの——



はい、じゃあ折り紙は全校で禁止。
……うん、わかります。対応としてはとてもスリム、とてもスマート。
でもそのとき、“授業の側”への問いかけは置いてきぼりになっていない?
- その子にとって、授業の内容は適切だった?
- 飽きてしまうほど簡単だった?
- ついていけずに、気持ちが離れてしまっていた?
- 授業の仕方に問題は?つまらないのかもしれない可能性は?
- その子だけじゃなくて、折り紙していなかったほかの生徒も実は我慢している可能性は?
そんな視点が抜けてしまうと、折り紙だけが“悪役”にされてしまい、ちょっとした子どものサインが、モノと一緒に回収・廃棄されて行く。
要は、『子どもが折り紙に手を伸ばした理由』と同時に、『大人が“折り紙禁止”にした理由』も、少し見直してみてもいいのかも、という話です。



そもそも、折り紙を禁止して解決するなら、世界平和も紙一枚でいける気がします。
『禁止』という教育現場の構造を見てみる


ある日、誰かが授業中に折り紙をしていた。——よし、それじゃ全員、折り紙禁止ね!
一見、『全員同じルールだから公平』に見えるこの対応。
でも実際は、“問題の核心から目をそらす”ためのショートカットだったりします。
- その子はどうして折り紙をしていたのか?
- 授業が合っていなかった?気持ちが不安定だった?
- そもそも、教師側の設計に改善点はなかったのか?
……といった問いをすっ飛ばして、『じゃあ禁止ね!』で片付けることで、子どもの背景も、授業のあり方も、すべて“なかったこと”にできるんです。



あら、とっても便利。
しかもそのとき、静かに授業を受けていた子たちにも、まさかの連帯責任。



え、ちゃんとやってたのに?なんで私まで?
という心のモヤモヤを胸にしまいながら、『ルールだからね』と受け入れる——。
こうしてひとつ、またひとつ育つ、“考えるより従う”空気。
もちろん、ルールや秩序は大切だと思う。でも、それが『怒られないための行動』を探す訓練になってしまったら、本末転倒だとも思える。



折り紙を禁止したところで、集中力が増すわけでも、成績が爆上がりするわけでもない事実も存在するから。
むしろ、子どもたちは『どうしたら怒られずに済むか?』という回避スキルばかり磨かれる。
回避スキル抜群児童爆誕。
折り紙、蛍光ペンは持ってこない、積み木、マッキーペン、絵具、ねん土持ち込み児童爆誕。そして更なる職員会議の末、新校則爆誕、次はクーピー、クレヨン、マジック持ち込み児童爆誕。そして更なる職員会議の末、新々校則爆誕。
巻物の校則手帳爆誕


そしてそのうち、問題を共有するよりも、バレないように隠す技術ばかり上達。気づけば隠し事の名手へ。



将来の職業は何?
詐欺師爆誕


対話がないところに、育つのは信頼じゃなくて、“静かな諦め”だったりする。
授業をしっかり受けるのは大前提。でも、『どうしてその子は今、それができなかったのか?』そこに目を向けずに、『とりあえず禁止』で幕を引くのは、教育としてちょっともったいない気がするのです。
全体に罰を与えることで、“問題を見ない”という選択
授業中に、誰かが折り紙をしていた。
すると即、『よし、全員折り紙禁止!』の大号令。
一見、『みんなに適用するルールだからフェア』と思えるこの方法。
でも実は、問題の本質に向き合わずに済む、都合のいいショートカットになっているかもしれません。
- だって、折り紙をしていたその子に、何があったのか?
- 授業が合っていなかった?気持ちが落ち着いていなかった?
- そうした背景を探る前に、『じゃ、禁止で』とバッサリ切れば、
- その子の状態も、授業の設計も、丸ごと“見なかったこと”にできます。
そしてそのとき、きちんと授業を受けていた他の子たちは、もれなく巻き添え。
こうして『一人の行動で全体が損をする』というルール運用が続くと、学校全体の空気がだんだんと“縮こまっていく”ような雰囲気になっていきます。
折り紙を取り上げたとして、子どもが急に学習意欲に目覚めるの?急に漢字ドリルが楽しくなるの?たぶん、ならないんですよね。だとすると、禁止することで、授業をまじめに受けている風に見えるようになる。
このことに何の意味があるのか?と考えるんですよ。何のための禁止のルール?
授業をきちんと聞かない子への罰則、子どものためのルールではなくて、先生のためのルール。先生と折り紙って何の関係があるんだろう?先生のためのルールで生徒を従わせる。何のために?
ルールは大事。でも、ルールを使って“考えなくていい仕組み”を作ってしまうことには、私たち大人の側にも、ちょっと注意が必要かもしれないとも考える。
授業が合っていない子どもたちへの視点はあるか?


- 『成績上位には家庭から問題集を』『理解が追いつかない子には基礎へ』
- 本来必要なのは、“禁止”じゃなく“対応”のはず
① 『成績上位には家庭から問題集を』『理解が追いつかない子には基礎へ』
授業が合っていない——この問題、実は“両方向”に存在しますよね。
『簡単すぎて退屈…』な子もいれば、『難しすぎて全然わからない…』と感じている子もいる。
でもどちらも共通しているのは、“今の状態では学びに入り込めていない”ということ。
だったら、ちょっとだけ工夫してみてもいいのでは?という提案もある。
たとえば、理解が進んでいる子には、家庭から持参した発展的な問題集で、先生の見守りのもと、少しレベルの高い課題にチャレンジしてもらう。
逆に、内容がまだピンと来ていない子には、別の時間や形で、基礎的な内容をしっかり確認できるような機会を用意する。
もちろん、現場からはこんな声が聞こえてきそうです。



理想はそうだけど、現実は人も時間も足りてないんですよ〜!
はい、わかります。その通りです。
でも、『折り紙禁止!』という判断をする前に、“もう少し子どもに合わせたやり方があったかも?”という検討の余白くらいは、残してもよかったのではないでしょうか。
たとえば、『成績に応じてこういう選択肢があります』と家庭と共有するだけでも、子どもたちにとっては“自分の状況を見てもらえている”という安心にもつながると思うんですよね。
その話し合いがもつれたら、その子だけ折り紙禁止にすればよかったんじゃないの?とも思う。
完璧なサポートができなくてもいい。
『禁止』で静かにさせる前に、『配慮しようとしてくれている』こと自体が、子どもにはちゃんと伝わるし、それが信頼につながる。
“対応できないから禁止”ではなく、“完璧じゃなくても、対応しようとする姿勢を見せる”。
それだけでも、折り紙を折る手が自然と止まることって、あるんじゃないですかね。
② 本来必要なのは、“禁止”じゃなく“対応”のはず
『禁止すれば楽になる』
……その気持ち、正直ちょっとわかります。
日々、たくさんの子どもたちと向き合いながら、あちこちに潜む火種を察知して、トラブルが大きくなる前に先手を打つ。
そんな現場の大変さは、想像以上だとも思う。
だから、『とりあえず禁止してしまおう』という判断が出てくるのも、責められるべきものではないのかもしれない。
でも——『禁止』って、“一番ラクな正論”でもありますよね。
『授業中に折り紙はよくない』
うん、たしかにそう。



でも、『正しいことを正しいと言う』って、実は一番簡単な行動。何より、反論されにくいし、説明も要らない。だから“使いやすい”。すごい楽。
ただ、それを振りかざすことで見落としてしまうものもあります。
- たとえば、折り紙をしていた子に、どんな理由があったのか。
- 授業が簡単すぎたのか、気持ちが落ち着いていなかったのか。
- その子に必要なものは何だったのか。
そうした問いを深める前に、『はい、禁止!』で済ませれば、問題の根っこは見えないまま、静けさだけは残る。
しかも、『禁止』は火種を消そうとしているようでいて、実は“火を消すチャンスごと封じてしまう”行為でもあるでしょうし。
子どもが折り紙を通して見せていた小さなサインや、そこに反応して何か関わろうとした先生やクラスメイトの芽まで、『禁止だからダメ』で一律に切り取ってしまう。
火種と一緒に、火消しの力まで奪ってしまう。
それは、思った以上に大きな損失かもしれない事実。
本当に必要なのは、『この子が“今ここ”で学べるようにするには、どんな工夫が必要なんだろう?』という問いを、あきらめずに持ち続けることかとも思える。
ルールは必要。
でも、“対応できないから禁止”ではなく、“完璧じゃなくても向き合おうとする”ことこそが、教育の姿勢であってほしい。
禁止は確かに、便利で静か。
でも、静かさの中に、見落とした声がなかったか——そこに目を向けることが、長い目で見ればいちばん“火を消す”力になるはずなんですよ。
折り紙禁止で見落とされた“もうひとつの犠牲”


- 真面目に授業を受けていた子が失ったもの
- 楽しみを奪われた子どもの気持ちを誰が守るのか
① 真面目に授業を受けていた子が失ったもの
授業中に折り紙をしていた子がいた——そこからすべてが始まりました。
でも、実際に“がっかり”したのは、その子だけではなかったはずです。
むしろ、何もしていなかった子たちにまで、じわじわと“静かなダメージ”が広がっていきました。
- たとえば、授業が終わったら友だちと折り紙をするのが日課だった子。
- 休み時間に新しいキャラクターを折っては見せ合っていた子。
- そんな日々の楽しみも、『今日から禁止ね』のひと言で、あっけなく封印。



えっ、私、ちゃんと授業受けてたのに…
……そう思った子、絶対にいたはずです。
今回の対応は、『悪いことをした子が罰を受ける』ではなく、『誰かが怒られたから、全員が我慢する』というかたちで進んでしまいました。
しかも、そのプロセスにはよくある“順序逆転”も含まれていたかもしれません。
『なぜ禁止なのか?』より先に『禁止』が先に来てしまう。
- 説明より決定が先。
- 納得より指示が先。
- そして、何もしていない子どもたちが、静かに折り紙をランドセルにしまう。
ルールとしては、確かに成立しているのかもしれません。でも、“気持ち”のほうは?
- 真面目に過ごしていた子たちが抱えたモヤモヤ。
- 『え、がんばっても報われないんだ…?』という小さな違和感。
- その声を、誰かが拾えていただろうか?
禁止で守れるのは秩序。でも、信頼を育てるには、もう少し“気持ちに目を向ける”工夫が必要なんじゃないかとも思う。
② 楽しみを奪われた子どもの気持ちを誰が守るのか
折り紙って、子どもたちにとっては、それが“ことばのいらない表現”であり、リラックスの時間であり、お友だちとのコミュニケーション手段だったりします。
だから、今回の『折り紙禁止』で失われたのは、紙じゃなくて、その時間そのものだったのかもしれません。
たとえば、小さな手で丁寧に折った作品を、ちょっと誇らしげに見せに来るあの瞬間。
色の組み合わせを工夫したり、新しい折り方にチャレンジしたり。
そういった一つひとつが、『私らしさ』や『わたしの今』を表す手段だったりする。
それが、『授業中に問題があったから』という理由で、あっさりと禁止になる。
しかも、『折り紙って子どもにとってどんな意味があるんだろう?』という視点が、そこには含まれていない。
秩序を守ること、全体の環境を整えることも、大切な仕事。
でも同時に、ルールを決めるときに、
- 『誰が傷つくか?』
- 『何が失われるか?』
……そんな視点も、そっと横に置いておいてほしい。
問題行動を起こした子の影に、何もしていないけれど、『楽しみを突然奪われた子』が、静かにがっかりしているかもしれない。
そしてその子の『悲しい』が、ちゃんと届いていないとしたら——その見落としはどこに?
教育における“思考放棄”をやめるために


一律処罰ではなく、背景に目を向ける姿勢を
教育の現場で何か問題が起きたとき、『ルールを強化する』『禁止する』という対応は、たしかに手早く、そして“わかりやすい”。
でも、教育というのは、『わかりにくいことに、どう向き合うか』を問われる仕事でもあると思うんですよね。
たとえば、授業中に折り紙をしていた子がいた。
その行動だけを見れば、『ダメなこと』と一括りにされるかもしれません。
でも、その子にとっては、『授業が退屈だった』『集中がうまくできなかった』『ちょっと不安だった』——そんな理由が、もしかしたら背景にあったのかもしれない。
- 『なぜそうしたのか?』
- 『どうすればその子が学びに向かえるのか?』
こうした問いに耳を傾けることこそが、教育の入り口だとも思うんです。
もちろん、それには時間もかかるし、手間もかかる。一人ひとりに向き合うなんて、きれいごとに聞こえるかもしれない。
でも、そこをあきらめてしまったら、教育はただの“ルール順守マシン”になってしまう。子どもはAIじゃないし。
『なぜ?』を聞く力、『どうすれば?』を考える力。それを大人が手放さずにいることが、子どもたちの未来にとって、大事じゃないかとも思う。
まとめ
もちろん、先生たちが日々どれだけ多くのことに向き合っているかも、わかっているつもりではいます。わかっているというと語弊もあると思う。
子どもたち一人ひとりを見ながら、保護者対応、会議、教材準備、記録、行事…その合間に『トラブルの火種を消す』判断を求められる毎日。
だからこそ、すべてに“完璧な対応”はできないことも、私たち保護者の側は理解していたい。
それでも——たった一枚の折り紙が教えてくれたこと。
学校という場所、教育という営みは、本来こんな場所であってほしいと思う。
- 価値の転換が起こる場所
それまでの『当たり前』が揺さぶられて、『え、これって本当に正しいの?』と問い直せる場所。たとえば『100点を取ること』より、『問いを立てること』の方が面白いと気づけるような、そんな出会いがある場所。 - 異なる視座に触れて、自分の位置を確認できる場所
自分とはまったく違う考え方に出会って、『ああ、自分はここに立っていたんだ』と知る。“他者”を通じて、“自分”を発見できる場所。 - 成長と失敗が許容される、対話の場
失敗してもいい。むしろ、失敗こそが学びの入口。『ダメだったね』で終わるのではなく、『どうしてそうなった?』を一緒に考えられる、そんな空間。
けれどもし、今の教育現場が『正解』と『順応』を刷り込む装置のようになってしまっているとしたら——それに違和感を覚えるのは、わたしだけじゃないとも思うんですよ。
『これはおかしい』と感じたその直感は、あなたの感受性が過剰なんじゃない。
それは、現場が少しずつ思考を止めてしまっているサインかもしれない。たった一枚の折り紙が、何が大切か、どこに立ち返るべきか。
その小さな紙が、問いかけてくれてたんですよね。だから、娘にも、子どもたちにも問い続けて欲しいと思う。お願いだから、これに慣れないで。
歌詞が、好きなんですよ↓ こういうの、問うててほしいんですよ。
そうだ うれしいんだ
いきる よろこび
たとえ
むねのきずがいたんでも
なんのために うまれて
なにをして いきるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
いまをいきる ことで
あつい こころ もえる
だから きみは いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
いきる よろこび
たとえ
むねのきずがいたんでも
ああ アンパンマン
やさしい きみは
いけ!
みんなのゆめ まもるため
なにがきみの しあわせ
なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
わすれないで ゆめを
こぼさないで なみだ
だから きみは とぶんだ
どこまでも
そうだ おそれないで
みんなのために
あいと ゆうきだけが
ともだちさ
ああ アンパンマン
やさしい きみは
いけ! みんなのゆめ
まもるため
ときは はやく すぎる
ひかるほしは きえる
だから きみは いくんだ
ほほえんで
そうだ うれしいんだ
いきる よろこび
たとえ どんなてきが
あいてでも
ああ アンパンマン
やさしい きみは
いけ! みんなのゆめ
まもるため
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