
わたし、どこ?
え?ここにいるだろって?いやいや、そうじゃなくて。
“本当のわたし”みたいなやつですよ。心のどこかに、こっそり住んでるはずの本体。
見つけたら人生変わる的なやつ。SNSとかでも『自分探しの旅』とか、よく見るじゃないですか。どこに旅行ってるか知らないけど。
でも、いざ探しても、なかなか見つからない、見つけ方がわからない。
そんなもんじゃないですか?
そこに仏教の『無我(むが)』とか『空(くう)』とかが入ってくるわけです。



むが….くう….?仏教?難しい話入ってきたなーーだる….
と思うかもしれないけれど、これ分かってないと、人生で結構致命傷だと思う。空じゃなくて『空洞』になっちゃうリスク、『空』のつもりが、ただの都合のいい人になる。嫌でしょう?
これ、そんな、難しくないんですよ。
『自分なんてないよ』
『ただ在ればいいんだよ』
って言われても、何!?
そんな仏教ワードを、ちょっとだけ真面目に、でも深刻になりすぎずに。『空』と『空洞』、『ただ在る』って何なの?って話を、今日は一緒に考えてみませんか?



多分、この見解で合ってると思うから。
途中で迷ったら『戻る』ボタン押してもいいし、ちょっと笑ってもらえたら、それで十分です。
仏教の『ただ在る』って、どういうこと?


- 自分がない?無我って、欲を無くせってこと?
- 仏教の三毒って?
- 『空(くう)』と『無我(むが)』
① 自分がない?無我って、欲を無くせってこと?
わたし正直、『無我』って最初、『欲をなくせ』って意味だと思ってたんですよ。雰囲気で。
煩悩を断ち切って、悟って、山ごもって仙人になれってこと?くらいの感覚。
で、『ラーメン食べたい』とか『褒められたい』とか思っちゃったら負け、みたいな。
でも仏教が言ってる『無我』って、そういう“禁欲アスリート”みたいな話じゃなくて、もっと身近で大切な話。
『無我』=『我(ガ)が無い』
ってのは、『あなたという存在は、固定された実体じゃないよ』ってこと。
つまり、『これが私だ!』って思ってるその正体、実は毎日の経験や人との関係の中で、ふにゃふにゃと形を変える流動体なのよ、って話。
たとえば、『怒らない私』でいたかったのに、急にキレ散らかして『誰だコイツ』ってなる日、ありますよね?
──(あるよね?)



それでいいの。むしろ、『それしかない』の。
『無我』って、感情をなくすことでもなければ、欲望ゼロにすることでもない。“執着してカッチカチに固めない”ってだけなんです。
無我は、『今ここにいる私』は、昨日とも明日とも違っていいし、揺れてもいいんだよっていう、実はものすごく優しい思想なんですよ。
だから、『わたし、ラーメン大好きなんですけど!』って言っていいの。ただ、『ラーメンのある人生だけが幸せ!』って思い込まなければ、それで仏教的にはOKなんだと思う。
欲無くせ!ということじゃない。
ちなみに、話題は逸れるけど、仏教って『欲を持つな』なんて一言も言ってないんですよ。
② 仏教の三毒って?
ラーメン食べたい。褒められたい。認められたい。
あるでしょ、そういうの。あって当然。
でも問題は、“欲がある”ことじゃなくて、“欲に使われてる自分”に気づいてないこと。仏教が手放そうとしてるのは、まさにその状態だと思う。
これが『三毒(貪・瞋・痴)』の正体。
- 貪(とん):『もっともっと』と執着して、自分の選択すら他人の目に明け渡す(他人の目に左右される)。
- 瞋(じん):怒りに飲まれて、破壊的な行動をとり、自分の本音すら見えなくなる。
- 痴(ち):知らないことに気づかず、全部人のせいにして、学びを止める。
つまり三毒って、『感情を持つな』じゃなくて『自覚なく感情に乗っ取られてる状態を手放せ』ってことですよね?
仏教の核心は、『気づいてるか?』でしょ?
だから無我も空も、欲も感情も、あっていい。
でもそこに気づきがあるか?使われてないか?──それが全て。



例えば、渇望からくる承認欲求なのに、それにも気づかず自分を正当化しPTA会長に拘る。そういうやつ。
- 無明(むみょう)=知らないまま選ぶ状態 → 三毒(気づかないまま会長になりたいと思う)
- 智慧(ちえ)=知っていながら選ぶ状態 → これを主体性とも言う(承認欲求があることを自覚しつつ、会長という任務を全うする)
なぜ、PTA会長にこだわるのか?
その根底にあるのが、
- 承認されたい
- 人より上に見られたい
- 誰かに必要とされたい
- 『正しさ』や『貢献』で自分の価値を感じたい
といった承認欲求であるなら、それ自体は問題ではなくて、でも、それを無自覚のまま、
- 子どもたちのためだから
- 責任感があるから
- わたしにしかできないから
といった“大義の仮面”をかぶせて、自分を見失うと、行動に乖離がでるの想像できるでしょう?自分の承認欲求に気づいたうえで、PTA会長になるなら、なんら問題ないんですよ。
『承認されたい』『価値を感じたい』という気持ちは、誰にでもある。問題なのはその欲求じゃなくて、それに無自覚であること、あるいは他人や大義の名のもとに偽装することです。
たとえば
- 『子どものため』と言いながら、内心では『目立ちたい』『認められたい』という感情が渦巻いている。
- でもその“本音”を見ようとせず、“善意”として行動する。
- すると他人にも『当然これくらいやってよ』と無意識に期待や圧をかけてしまう。
結果、歪みが生じます。自分も疲弊し、他者との関係もぎくしゃくする。
だから大事なのは『わたし、正直、注目されたいからやってる部分もある』とちゃんと気づき、引き受けること。その上で行動する人は、ずっとしなやかで自由。注目されたいからやる、という欲を正当化していたりしたら、それはもう論外。会長としての仕事できないから、バズのパフォーマンスになる。
こういったズレが起こると、組織全体が“空気”に引っ張られる。全員でトイ・ストーリーになったりする。
誰もが顔色を伺い、行動が内向きにねじれる。結果、パフォーマンスになり、本来届けたいはずの“子どもたちのため”から遠ざかる。
だから、



私は承認されたいという気持ちを自覚している。それを利用してPTA会長としての仕事を全うする。
こう言える人なら、欲が動機であっても、行動は純度が高くなれるんです。逆に、正しさの仮面をかぶって無自覚でいる人ほど、周囲を巻き込み、傷つける。
承認欲求を悪者にしなくていい。むしろ、それに気づき、誠実であることに意味があると思う。



自分の“欲”を恥じる必要なんてない。それにちゃんと向き合って、使いこなすことが、自分を知るってことだと思う。じゃないと自分、知れないでしょ。じゃないと、整合性が取れないのよ。
③ 『空(くう)』と『無我(むが)』
無我(むが) は、自分という存在の捉え方。『私とは何か?』という問いへの答え
→ “私”は固定された実体ではなく、関係性や経験で成り立つ流動的なもの
空(くう) は、世界そのものの見方。『世界とはどうなっているか?』という問いへの答え
→ すべての現象は関係性の中で生まれ、独立した実体を持たない
項目 | 無我(むが) | 空(くう) |
---|---|---|
意味 | 『固定された“わたし”などない』=自我は関係や経験で流動する | 『固定された実体など存在しない』=すべては関係性の中で成り立っている |
主語(焦点) | 自己・個人の成り立ち | 世界・現象の成り立ち |
基本思想 | 『わたし』は常に変化している=執着すべき実体がない | すべてのモノ・コトは条件(縁)で生まれ消える=実体が空(から)である |
例 | 『ありがとう』と言われた瞬間に自分の意味が立ち上がる | 自分も相手もその関係性の中で意味づけされているだけ |
間違えやすい解釈 | 『わたしなんていない』と消そうとする | 『無意味で虚しい』とネガティブに捉える |
本質 | 自分に執着せず、柔らかく在る | 世界や他者との関係性を通して、常に変化し続けることを受け入れる |
つまり… | 『わたしは流動体』 『関係で意味を持つ』 | 『真実は人それぞれ』 『見たまま感じたままがリアル』 |
『空』って聞くと、『なんもない』とか『虚無感』とか、ちょっと寂しい感じがしません?
でも、仏教でいう『空』って、そうじゃないんです。
簡単に言えば、『すべては関係でできてるよ』っていう見方。
たとえば、『ありがとう』って言われた瞬間、あなたの存在は誰かの中で意味を持つ。
その関係性の中で、“わたし”が立ち上がる。
つまり、あなたは『空』。
空洞じゃない。空(くう)。
『わたし』って、じつは固定されたものじゃない。人との関係や経験で、日々変わっていく流動体みたいなもの。
で、現実のあれこれも、けっきょくはあなたがどう感じたかで決まる。誰かにとって嘘でも、あなたが『これは本当』と思えば、それがあなたの真実。
逆もしかり。



真実なんて、結構どうでもいいのかもしれない。ていうか、どうだっていい。そこには何もないから。わたしはそう思う。
見たまま、感じたまま。それが、あなたの“リアル”。
『空』って、そういうあいまいで自由な世界なんだと思う。そのリアル、どう描く?
でもそれ、現代人には難しくない?って話


- 空じゃなくて『空洞』になっちゃうリスク
- 『空』のつもりが、ただの都合のいい人に…
① 空じゃなくて『空洞』になっちゃうリスク
最近、『感情ってどう出すの?』ってなってる人、意外と多くないですか?
怒らない。泣かない。意見も言わない。でも、いい人。
……それ、ただの“空洞”かもしれない。
『空(くう)』じゃなくて、実は中身スッカスカの空洞。



本来の『空』は自由でしなやか。でも『空洞』は、誰かの期待とか『こうあらねば』でぎゅうぎゅうに詰められた、呼吸できない穴ですよ。息苦しい。
人の顔色ばかり見て、自分の“感受”を感じなくなると、やがて『わたし』って何?ってなる。…これ、結構こわいルートです。
しかも、その“殻”で人と向き合っていたら、当然ながら、相手には“自分”が届くことはない。何も届かない。自分という存在が。
どういう状態か?
いちばん自分を傷つく位置に置いてる自覚がない。
“気づけない無明”の状態とも言える。
思いもしないような言葉を投げられ、そしてまた、誰かの期待でぎゅうぎゅうに詰めて行くことを繰り返すようになる。だからこそ、自分の“感受”に立ち返ることが、生きてるってことなんだと思う。
② 『空』のつもりが、ただの都合のいい人に…
なんでもかんでもスルーしてると、“便利な人”ポジションにされがち。
- あの人、怒らないから何言っても平気
- あの人、頼めばいつでもOKしてくれる
- あの人、断らないし、空気読んでくれる
…って、だんだん『感情のない便利屋』みたいに扱われてしまう。
まるで都合のいい幽霊。
そしてある日、モヤっと思うわけです。



あの人のせいで…!
でもそれ、本当に“あの人のせい”なの?
──違う違う。



それ、自分が『他人が主役の人生』を生きてるからなんですよ。自分はいつも脇役で、都合よく台本に沿って動いてる。そりゃ主役は、言いたいこと言ってくるに決まってる。
だから、感情に沿って言葉にして表現するってとても大事なことで。それできるの人だけだから。
それ無くしちゃったら動物となんら変わらなくて。そう思いません?何のための言葉なの?
ちょっと脱線しますけど、この間、いつも見ないテレビをふと見てたんですよ。綺麗な景色を目の前に、男性と女性の方が。。





ヤバい!まじでヤバイ。ヤバーい!ヤバいやつー!



ヤバイね、ほんとヤバい。ヤバい。
まぁ、映像があるから、伝わるものもあったけど。



何この〇カップル、何この語彙力、何この会話。
と思って。あんな普段テレビ見ないわたしが、たまたまつけた5分でコレ。



いや、いいよ、それも。全然いいのよ。わたしも使うし。よく言うから『ヤバい!』。その後の言葉は?どうヤバいの?お前らが一番ヤバいと思って。使ってもいいんだけど、やっぱどう感じたか言えないのは、どうかと思う。映ってますよ?TVショーに。
『感動で鳥肌が立った』とか、『涙が出そう』とか、『一瞬、言葉を失った』とか『エメラルドグリーンがすごく綺麗』…色々あるじゃん。そういうのを聞きたかったよ。
普段あんま気にならないんだけど、さすがに気になった。TVショーだから。だって、TVから『ヤバい』しか聞こえないんですよ?
本来の『空』って、関係性の中で“わたし”を選び直せる自由があるということ。でも、何も選ばずに、ただスルーし続けるだけだと、それはもう“無我”でも“悟り”でもなく、ただの透明人間。
『どうせ私なんて』じゃなくて、『私はここにいる』と言える場所を、自分で選び直す。あなたが主役の人生、を歩かないと。
そのためには、自分の感情をちゃんと拾わないといけないんです。
『うれしい』『むかつく』『モヤっとした』──そういう声を置き去りにしてたら、主役には戻れない。そして何でそう思ったのか?自分が分かっておくことに、意味がある。
それが、自分が主役の脚本を書くってことになる。
じゃあ、ほんとの“ただ在る”って何なの?


- 自分を知るって、そんなに崇高じゃなくていい
- ただ在る』って、逃げじゃない。めっちゃ向き合いです
① 自分を知るって、そんなに崇高じゃなくていい
『自己理解』とか聞くと、なんか修行僧みたいに崇高でストイックなイメージありません?
でも、実際はもっと身近でいいんです。
『何が嬉しかった?』『何にムカついた?』『何で泣いた?』
──このあたり、思い出せますか?
その答えが、“あなたの輪郭”。
たとえば…
- 『むかついた』のは、無視されたと感じたから?
- 『モヤっとした』のは、自分が我慢しすぎたから?
- 『うれしかった』のは、自分の価値を認めてもらえたから?
そこが見えてると、自分の“感情の地図”が描けてくる。迷っても『ここに戻ればいい』ってわかる。
逆にこれを見ないままだと、他人が書いた地図で自分が彷徨う羽目になる。
そして気がつくと『誰の人生?』ってなる。
喜怒哀楽って、人生のマーカーみたいなものですよ。
反応があるってことは、『ちゃんと生きてる』って証拠。
そういう自分を雑に扱わず、『へぇ、わたしってこんなとこで泣くのかー、あれって、悲しかったんだー』って眺めてあげるだけでいいんですよ。そこで十分“自己理解”です。
②『ただ在る』って、逃げじゃない。めっちゃ向き合いです
『仏教の“ただ在る”って、意味わからん』──はい、最初はだいたいみんなそう思います。
でも実はこれ、めちゃくちゃ深い“向き合い”の姿勢なんです。
たとえば──
- 他人の目線
- 『こうあるべき』っていう空気
- 『それが普通でしょ?』という圧力
そういうの、いったんぜんぶ脇に置く。
(それをしてる人はよく愚痴るし、不満が多いはずですよ。)
その上で、『それでも私はこう選ぶ』っていう意思があるか?意思がないから他責になるでしょ?不満がでるでしょ?
- 好きか嫌いか
- 距離をとるか、関わるか
- 黙るか、話すか
──その一つ一つに『わたしの意志』が通っているか。
それが、『ただ在る』のコア。
ただしこれは、『人の意見を全部無視して自己中に生きようぜ!』ってことじゃない。
人の意見、全部無視しろって話じゃない。ちゃんと相手のことも想像して…それでも『私はこっち』って、自分で選べるかどうか。
ここが、他人軸で生きてきた人にはめちゃくちゃ難しいポイントらしい。



しかも、自分の感情を理解していないままやると、もうそこは感情のジャングル。“誰の人生?”って叫びながら、思考の樹海で遭難確定。
でも逆に、自分の選択にちゃんと向き合えると、人生がものすごくクリアになる。
『ただ在る』って、実はそのくらい“ガチ”な生き方なんです。他人軸の人には強烈に難しいんですよ。ここに、自分の感情の理解がないと、もうすごい樹海の森になる。優に想像つきますよね?
空と空洞の、地味だけどデカい違い


同じ『からっぽ』に見えるけど、『空(くう)』と『空洞』はぜんっぜん違います。
『空』は呼吸できる、『空洞』は酸欠になる
たとえば、『空』は風通しがいい部屋みたいなもの。ガランとしてるけど、光も風も入る。つまり、自由で、呼吸ができる場所。
一方で『空洞』は、何かが抜け落ちてぽっかり開いた穴。そのままだと不安だから、つい他人の期待や『いい人像』で埋めようとしちゃう。
でもその『埋められた自分』、ちゃんと息してますか?
気づいたら、自分の感情や願いが見えなくなってて、『わたしって誰?』状態。それ、もう酸欠だよ。
空は、関係性の中で変化していいよって許してくれる。空洞は、埋めないと落ち着かないから、だんだん“自分”を明け渡していっちゃう。
見た目が似てても、内側は真逆。



ちゃんと呼吸できてる?
まとめ
最近よく聞きませんか、『自分探し』ってやつ。でも正直、自分ってそんな簡単に見つかります?見つかるならAmazonで売っててほしいくらい。
現代って、物も情報も便利グッズも全部あるけど、『本当のわたし』が一番見えづらい時代だと思う。なんでって?欲が多すぎて、よそ見ばっかりしてるからです。あっちの成功法則、こっちのSNS映え、他人の成功、そして『今どきの正解』。
誰の人生なんだよって。
正しいことを正しいと叫び、間違っていることを間違っていると叫ぶ。



簡単だな。それって誰の正しさなの?誰の間違ってるなの?
その相手の異質さは、あなたに迷惑をかけることなの?その叫び、誰のための叫び?
本当は、『わたしは何に泣く?何に怒る?何が好き?』ってことが、自分を知る手がかり。でもそれを忘れて、他人の期待に塗られた“空洞のわたし”を演じ続けると、そりゃあ息切れしますって。窒息しますって。
だからもう、自分の声を聞いてみたい、そう思って、生きてきました。そうすると、完璧な答えは出ないけど、『それっぽい自分』には会えた。関係性の中で輪郭を持った“今の私”。
わたしは、誠実であろうとするけれど、どこかポンコツな人間でした。課題の分離をしすぎて、感情を置いてきてしまうこともあるらしい。でもその“置き方”も、ちゃんと考え抜いたうえでの選択だったりする。そういう一面もある。
まぁ、伝わらないことが多いから、誤解も多い、けど、それが私なんだから仕方ない。とは思うものの、対相手もいるから、やっぱりこれは気づきになるんだと思う。
まだ答えがでない。迷うこともあるし、『どこまで歩けばいいの?』と思うこともあるけど、それでも──まだ歩く。



行けるところまで。



今日、自分のどんな“反応”を見つけようか。
それだけでも、“ただ在る”への一歩だと思います。
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