私が私を守るために伝えた『嫌い』の正体を説明してみる

この言葉を、私は親に言ったことがなくて、でも、あるとき、言える相手が現れた。それは、相手を攻撃したかったからではなくて、ずっと胸の奥で凍りついていた言葉が、ようやく言葉にできたから。

伝えた人には、それなりに原因があったんだけど、その原因とコレとは別問題で、そこのところをかろうじて理解してくれるレベルの人だったので、つまるところ、そこを利用して伝えた。何をされたかというと、心理操作の世界に案内されて、腹が立ったから門を叩き壊して入門しなかった。

半沢直樹の世界でもある。本人と大和田常務だ。大体こんな感じだろう、してたやり取りは。もちろん、わたしが半沢直樹側だ、誠実だったからな。

以前、親の着ぐるみを着た自分という記事を書いたんだけど、自分の中に自分の物として落とし込むには、説明が足りなすぎた可能性もある。

この記事は、そんな感情の“構造”を解き明かしていく記録です。

怒り、嫌悪、拒絶──それらは本当に“わたし”のものか?そして、わたしはどこから始まるのか?

『嫌い』の正体を暴くとき、本当のわたしが、ようやく始まる。

目次

親の影をまとった自分──その着ぐるみの正体とは?

気づけば私は、親にそっくりだった。

いや、もっと正確に言うなら、“親の着ぐるみを着た私”。

見た目は私、中身が親、本当のわたしはどこ?

出会う人は変わるのに、湧き上がる嫌悪感はいつも同じ…..

確実に、『別の人なのに、同じ中身』に反応してる自分がいる。

この世界は何?目の前の人は、この間の人と外見は違うのに同じに見える…..

今回は、この“着ぐるみ構造”をひもといていく。着ぐるみのファスナー、どこかにある。

  • 親のような相手? いいえ、『親の着ぐるみを着た自分』です
  • 『嫌い』という感覚は、守るためのアラート
  • その声は、ほんとうに“わたしの声”か?

① 親のような相手? いいえ、『親の着ぐるみを着た自分』です

まるで親みたいに、否定的で、感情の扱いが雑で、でもなぜか出会う相手。

ある日気づく。

自分もじゃない……?

つまり──

親の着ぐるみを着てるのは、あっちじゃなくて、こっち。で、こっちが寄せてる。

選んでるつもりが、着てる自分が反応してただけってパターン。

② 『嫌い』という感覚は、守るためのアラート

わたしの場合は、相手の器量を見極めて(見極められてなかったらごめん)、自覚的に発言した言葉だ。

けど、自覚的でない場合、相手の何に自分が反応してるのか鈍感になっていく。

この『嫌い』という感情は、実はすごく大事な“緊急アラート”だ。

  • 『これ以上近づくな』
  • 『自分の境界線を守れ』
  • 『その世界に取り込まれるな』

…そんなメッセージを送ってくれている。

ただし、ここで大事なのは 『アラートの原因がどこから来てるか』 を見極めること。嫌悪感は大きく分けて2種類ある。

相手由来のアラート
 → 本当に相手が自分の境界を壊そうとしているときに出る『防衛反応』
 → この場合は、はっきり『NO』を出すのが正解

自分由来のアラート
 → 過去の経験やトラウマ、未処理の課題から来る『過剰反応』
 → たとえば、親から否定されて育った人が、大人になってちょっと指摘されただけでも『攻撃された!』と感じるケース

だから『嫌い』は、正しいか間違いかじゃなくて、“まず受け取って、次に解釈する” 感情だと思ってる。

わたし自身、もう着ぐるみを脱いでるから、嫌悪感そのものはアラートにはならなかった。でもアラートじゃないからこそ、冷静に『これは私の課題?それとも相手の課題?』と見分けて、感情を整理できる。そして必要なときには相手に言葉を放つ。

でもね、ここでまた社会的な問題が出てくる。

言葉にした瞬間に『攻撃的』『自分勝手』『配慮不足』とラベルを貼られることが多い。

境界線を伝えただけなのに。

そのときに『やっぱり私が悪いのかも…』と自己不一致に落ち込むか、『これは境界線の表現』と自己一致のままでいられるか、その差が人生を大きく変えていく。まぁ、言い方がきつい時代もあったのは認めるけどね。

わたしは、あなたが嫌いです。あなたも私のこと嫌いだと思うので、それで大丈夫です。お互い干渉するの止めませんか?そっちの方が合理的じゃありません?(投影ではありません、自覚的です。)

ショックだ何だ、色々言われた。反省している(今はね)。

③ その声は、ほんとうに“わたしの声”か?

怒ってる。泣いてる。黙ってる。拒んでる。

でもその感情、“ほんとに私の声”?

『だからダメなんだよ』
『そういうとこが悪いの』
『ちゃんとやらなきゃ』
『なんで一番じゃないの?』
『あの子にはできるのに、あなたはなぜできないの?私恥ずかしい』
『あなたのこういう所は、嫌だわ、だって…』

こういう言葉たちは、ただの愚痴じゃない。

子どもの脳内に、“正しさのテンプレート”としてインストールされる。

そして、こうやって劣等感が埋め込まれていく。

上で説明した『自分由来のアラート』は特に要注意でもある。

というのも、

  • 本当は相手が悪意を持ってないのに、過去の経験(親に否定された記憶とか、いじめられた記憶とか)が反応して『攻撃された!』と錯覚する。
  • その結果、相手を不必要に敵扱いしたり、自分を責めすぎたりして、人間関係を壊しちゃう。
  • しかも怖いのは、この反応って無意識だから『自分のほうに原因があるかも』と気づきにくい。

心理学的に言えば、これが投影。だからこそ “気づいて解く” ことが必要になる。

具体的には、

  1. 一拍おく:『この感情は“相手の言葉”に反応?それとも“過去の自分の記憶”に?』と自問する。
  2. 分けてみる:『相手が実際にやった事実』と『私が感じたこと』を分ける。
  3. 自分由来だったらケアする:『これは昔の私の痛みが反応しただけだな』と気づけば、相手を責めなくて済む。

わたしは、伝えたけどね。けど、責められたわけじゃないって分かってくれる人だったから。じゃないと、できないでしょ。自分由来を相手由来として処理した話だ。自覚的で高度なテクニックだよ。

つまり、自分由来のアラートって『危険信号』じゃなくて『未解決の宿題を知らせるベル』でもある。だから放置しちゃうと、人間関係でも仕事でも同じパターンを繰り返す。

  • 相手由来 → NOを出して境界線を守る。
  • 自分由来 → 自分の課題としてケアする。

両方に気づけることが『自己一致』なんだと思う。

自覚的であれば、嫌悪は強さになる

  • 『嫌い』は感情的なアラート、抑えなくていい
  • 無自覚に攻撃しなければ、それは境界線の表現
  • 親とは違う生き方

① 『嫌い』は感情的なアラート、抑えなくていい

『嫌い』という感情を持つと、どうしてもネガティブなものとして扱われがち。優しい人ほど『嫌ってはいけない』『受け入れなきゃ』と自分を責めてしまうでしょ。

でも実際には、『嫌い』は大事なアラートでもある。

  • これは私に合わない
  • ここは踏み込んではいけない

そう知らせてくれる信号。

生理的に合わない食べ物が体を守ってくれるように、感情的な嫌悪もまた、自分を守るセンサー。だから抑え込む必要はなくて、むしろ正しく扱えば、人生のガイド役にすらなる。

② 無自覚に攻撃しなければ、それは境界線の表現

ただし、嫌悪をそのまま相手にぶつければ、ただの攻撃になってしまう。自分由来からくる嫌悪感。

あぁ、さっきの私のはぶつけたんじゃない、境界線を伝えたつもりだったけど揉めた図だ。

あなたが間違っている!

お前が悪い!

こういう言い方では、何も生まれない。

けれど、自覚的に扱えば、

『ここから先は違う』
『これは私の領域ではない』

という線引きになる。

それは相手を否定することではなくて、自分の輪郭をはっきりと描くことになる。

つまり『嫌悪』を境界線として使うと、攻撃性は自己の主張へと変わる。そして不思議なことに、この『線を引く力』を身につけると、むしろ人間関係は安定していく。

相手に迎合しすぎて疲れることも、逆に侵入されて壊れることも少なくなる。嫌悪は壊すための感情ではなく、守るための道具として使えばいい。せっかくアラート鳴ってんだもん。従えばいいだけだ。無視して行動するからややこしくなっていく。

③ 親とは違う生き方

植えられたものは、消えない。けれど、“それに支配されるかどうか”は変えられる。

親や環境(学校など)から植え込まれた価値観や感情のクセは、完全に消すことはできません。

例えば、学校から、

先生

スリッパを並べたら先生に報告してください。

素直な生徒

先生!並べました!

先生

偉いですね!皆さん!〇〇さんが、スリッパを並べてくれました。拍手をしましょう!

こういうのも、残念ながら抜けなくなる。植えられたものは、序盤でどうにかしないと育つ。情報が入って我が子に確認したら、日頃の教えが作用して植えられていなかった。抜く必要も無かったから、お友達だけ確認しておいた。大丈夫だった。原理原則を説明した上で、様々な処世術を伝えておいた。他は知らないが、聞く限り根付いている者もいた。これは育つだろうな。知ったことではない。それもその者の学びのひとつなんだろ。全員で学べばいいだけの話だ。

それも縁起と見る。そうでしょう?

宇宙

そうだね。

行動の意味は自分で選ぶことが大事だし、処世術は“使うもの“であって飲み込むものじゃないとも教えている。当然だ。

現代の子育てでは、これくらいの気づきがないとやっていけない。知っとかないと、すぐやられる。処世術なんて、もっと後からでもいいと思うでしょ。うちなんて、4歳のころから教え始めた。教えざるを得なかったというのが本音だ。

些細な教育的演出の裏にある構造を見抜ける目がないと、知らず知らずに根付いてしまう。

これがクセになると、

  • 行動=評価のため
  • 自分の満足<他者からの承認
  • 『誰かに見てもらわないと意味がない』

という外的承認依存の芽になる。

内発的に生きる力を守るのが親の大事な役割だ。

親で言えば、子どものころに『嫌うな』『泣くな』『怒るな』と教えられれば、今でも胸の奥でその声が響く。感情の否定は本人の存在すら否定することになる。

『否定されたらどうしよう』という恐怖は、簡単に手放せるものではない。

けれど、それに支配されるかどうかは、自分で選べる。『親がそうだったから』『昔そう言われてたから』、この延長線上に生きなくてもいい。

相手の行動がトリガーとなって嫌悪が現れる、これが投影。過去に植えられた感情を知らせるサイレンのようなものだから、そのサイレンに振り回されるか、逆に『もう同じ道は歩まない』と自覚する合図にするかで、未来はまったく違うものになる。

だから私は、嫌悪を恐れない。あって当然のものだと思ってる。

それはもはや弱さでも汚さでもなく、私を守り、未来へ進ませるサイン。

植えられた劣等感が育ち『自分になる』まで

わたしなんて、どうせダメ人間だし。

それ、本当に“あなた自身”の言葉だろうか?

気づけばすっかり馴染んで、当たり前になってるその感覚。でも、もともとは他者の声だった可能性が高い。

とくに親。

子どもにとって、親の言葉は“世界のルール”そのもの。

つまり、『お前はダメだ』と言われれば、『わたしはダメなんだ』と思い込むしかない構造がある。

ここでは、その思い込みがどうやって“自分の一部”になってしまうか、そして、それをどう解体していくのかに触れていこうと思う。

  • 親の言葉は、子どもにとって環境の“真理”
  • 否定された感情が自己概念と癒着する構造
  • 『自分はダメだ』の信じ込みを解体する力とは?

① 親の言葉は、子どもにとって環境の“真理”

『だからダメなんだよ』
『そういうとこが悪いの』
『ちゃんとやらなきゃ』
『なんで一番じゃないの?』
『あの子にはできるのに、あなたはなぜできないの?私恥ずかしい』
『あなたのこういうところは、嫌だわ、だって…』

親に言われたこういう言葉、思い出せる?

子どもにとって、親の言葉は“意見”じゃなくて、自然界の法則レベルの『真理』として受け取られる。

雷が鳴ったら怖い、雨が降ったら濡れる、親が『お前は変だ、変わってる、ズレてる!』と言ったら、『変な自分が事実』になる

論理じゃない。説明でもない。

もっと根源的な、『空気と同化するくらいの自然な刷り込み』。

それが、劣等感の“原型”として、知らないうちに心に沈殿していくから。

② 否定された感情が自己概念と癒着する構造

例えば、子どもが泣いたとき、親にこう言われたとする。

そんなことで泣くな!!
わがまま言うな!!
うるさい!!

これってつまり、『その感情はダメ』と言われているということになる。

で、子どもはこう変換していく。

感情を出す私はダメ→ 感情を持つ私はダメ→ 私そのものがダメ。

そのときのその感情がダメだと思うんじゃなくて、“感情を持っている自分”が、ダメだと感じてしまう

例えば、他者と親のコミュニケーションの姿。

下げ系

あのぅ….すみません….

↑これは、弱さと無力さを埋めるのよね。

威圧系

これさぁ!!どうなってるわけぇ!!!

自慢系

うちの子はぁ、〇〇の大会で優勝して~成績が学年トップでぇ~全校リレーでぇ~….

全部劣等感としてガンッガン埋め込まれていく。

当然だ。何をしているかの自覚は必要だって。肯定感ゼロ。そして自分の不足を埋める図な。聞いてて痛々しいだけだって。絶対関わらない層。下2名は恥知らず、恥さらしだろ。

こうして、否定された感情が“自分そのもの”と癒着していくし、親の自己肯定感の低さからくる、下げ・威圧・自慢ぜーんぶ余裕で埋め込まれて行く。で、一生抜けないの。

大人になっても、『素直になれない』『怒れない』『悲しめない』『子どもが嫌い』『自信がない』、こういう人の多くが、この構造の中で感情と自己を分ける力を失って投影していく。ややこしいのは、え?怒ってるけど?っていうヤツね。そう、何に怒ってるのか分かっているようで、わたしから見たらぜーんぜんよ。

③ 『自分はダメだ』の信じ込みを解体する力とは?

ここがいちばん肝心なところ。

『自分はダメだ』と思ってる人に、

いやそんなことないよ!

って言っても、響かない。

だって、それは、その人の中の事実だから。根付いてる。

この“事実のような思い込み”を変えるには、外からの言葉じゃなく、内からの再構築が必要になる。これが結構骨折れる。

たとえば、常に自分に、こう問いかけてみる。

どう思ったの?どう感じたの?なぜそう感じたの?

こうやって、自分を理解して行こうとする思考が大事。

自分の感情を取り戻し、その奥にあった『ほんとうは言いたかったこと』を見つけ出す。

その過程で、そこから、“本当のわたし”の輪郭が、ようやく見えてくる。

『罵倒したくなる自分』の正体を見抜く

怒ってる。ムカついてる。相手の態度が許せない。

そう思ったとき、わたしは昔のわたしに会いに行く必要がある。

なぜなら、“罵倒したくなる感情”の奥には、たいてい自分がかつて罵倒された記憶が、すっと立っているからだ。

どうしてあの人はわかってくれないの?
なぜそんな言い方をされなくちゃいけないの?
…わたし(俺)のせいにしないで。

今の怒りって表面上は目の前の相手に向いてるけど、実際は子どもの頃の自分が抱えたままの怒りが再生されているケースがとても多い。

  • 親に否定されたときの悔しさ
  • 理不尽に怒られたときのやるせなさ
  • 受け止めてもらえなかった寂しさ

そういう『当時言えなかった感情』が、似た状況や似た雰囲気の相手に出会った瞬間に“今ここ”に噴き出すんだって。だから、強烈にムカついたり、怒りのトーンがズレてるときほど、実際には『今の自分』じゃなくて『昔の私』が前に出てきてる。

つまり、その怒りは “相手に向いてるように見えるけど、本当は過去の自分が叫んでる”証拠だな。

ここで気づいてあげられると、今の相手に過剰にぶつけずに済む。

今、他者に感じている怒りは、もしかしたら、ずっと言えなかったあのときの言葉の可能性。

  • その怒りは、誰に向けられていた?
  • 過去に受けた罵倒が、他者に再演されるとき
  • 『他人への嫌悪』の中にいる、本当の“わたし”

① その怒りは、誰に向けられていた?

目の前の相手が悪い!…….ように見える。

だけど、怒りのトーンがどこか過剰だったり、ズレていたりすることってない?

それは、現在の相手じゃなくて、過去の“誰か”に言えなかった怒りが、時間を超えて噴き出してる証拠だ。

わたしにとって、それは親だった。

  • 口答えすれば『黙れ』
  • 泣けば『泣くな』
  • 正直になれば『反抗的だ』

その時、心の中に押し込めた怒りが、まるで火山のマグマのように、別の誰かに向かって吹き出す。

怒ってる相手が、ほんとうに“目の前の人”なのか、ちょっと立ち止まってみてもいい。

だからわたしはいつも、目の前の人には、目の前の人の事情があるから、その人の感情と行動を分けて受け取る。もっと違う目線で言うなら、何の関係もない他者に自分が脅かされる理由もない。それでも、状況を理解することはできる。勝手にしたらいい。そんな感じかな。相手の情動を認識しながらも、そこに飲み込まれない

② 過去に受けた罵倒が、他者に再演されるとき

ある種の怒りは、ただの感情ではなく“構造”として起こる。

その人の言動が、どこかで『昔の罵倒の再生』になっているとき、わたしたちは『今ここ』にいるのに、『あの頃』に戻ってしまう。

そして、こうなる。

  • 『許せない』→ でも本当は、『認めてもらえなかった、認めてもらいたい』
  • 『嫌い』→ でも本当は、『愛されたかった』
  • 『あなたなんか!』→ でも本当は、『理解してほしい』

罵倒は、自分を守るための切り札になってしまうけど、本当の願いは、もっと奥にある“分かってほしかった”という声だろう。

罵倒したくなるとき、感情そのものは『防衛反応』。でも、それをキャッチして『本当は何を望んでたの?』と掘り下げると、自分の奥に隠れてた未完了のニーズが見える。

『罵倒したくなる感情=自分が生き延びるために必要だったツール』でもある。なら、仕方ないじゃない。それは良しとして、気づいた今から選び直せばいいだけだ。

③ 『他人への嫌悪』の中にいる、本当の“わたし”

『こんな人、ほんと無理』
『レベルが低い』
『あなたみたいな人、ほんと嫌い』

そう思ったときこそ、チャンスかもしれない。

なぜなら、その嫌悪の奥に、本当の“わたし”が潜んでるから。

嫌悪って、自己防衛のアラートでもあるけど、同時に『ここに触れられると、自分が揺らぐ』という“核”の在処でもある。

その感情の在処は?

そうやって言われた自分と、そう言っていた親の投影の可能性。そしたら、そこから選び直せばいいだけだ。

克服していない者は、教えることができない

人は、自分が乗り越えていないものを、他人に“教える”ことはできない。

それをしてしまうと、『教える』ではなく、『ぶつける』になるからだ。

たとえば、親が自分の中の“無力感”や“自己否定”を克服しないまま、子どもに『自信を持て』『努力しなさい』と言ってしまうとき、その言葉には、未解決の怒りや焦りがにじむ。

すると子どもは、言葉よりも“その温度”を受け取ってしまうから、感情に潰される。

つまり、克服してないまま差し出される教育は、子どもにとっては“支配”や“罵倒”にしか見えないんだよ。

  • 親は“自己未解決”のまま教育に入る
  • 支配・操作・罵倒という感情的教育
  • 『言ってること』は正しくても、『伝わらない理由』

① 親は“自己未解決”のまま教育に入る

親自身が、自分の傷や劣等感を未処理のまま持ち続けていると、それを『子育て』という形で無意識に子どもに乗せてくる。

  • 『ちゃんとしなさい』
  • 『そんなことで泣くな』
  • 『人に迷惑をかけるな』

教育や子育てでよくあるのが『親が子どもに言ってることが、自分自身に言いたいこと』ってケース。
→ たとえば『ちゃんとしなさい』は、『私はちゃんとできてないと思ってる』から出てくる。

だから本当に子どもに“伝わる教育”をするには、まず先に親自身が『自分の痛みをどう扱うか』『自分の未解決をどうケアするか』をやらないといけない。

じゃないと、教育しているように見えて、実際は他者目線による“自分の課題”を子どもにやらせてる構造になる。

② 支配・操作・罵倒という感情的教育

言葉はきれいでも、感情の温度が支配的であれば、それは教育ではなく“押しつけ”に変わる。

  • 『あなたのためを思って』→ 実は『自分の期待どおりに動いてほしい』
  • 『失敗しないように』→ 実は『自分が失敗を恐れている』

親自身の『不安』や『恥』の感情が消化されていないと、子どもにとっては“罵倒”や“過干渉”という暴力になる。そして『不安』や『恥』を植えられる。

そしてそれは、子どもが自分の感情を押し殺してでも、『親の機嫌を取ることが安全』だと学ぶきっかけになってしまう。

このロジックよな。

③『言ってること』は正しくても、『伝わらない理由』

親の言葉が、内容としては間違っていなくても、子どもに届かないのは、“その温度”に問題があるからだ。

たとえば、同じ『頑張って』でも、

  • 自分の努力で乗り越えた人が言えば、希望になる
  • 自分の苦しさを未処理のまま投げると、脅しになる

子どもは、言葉の意味じゃなくて、“声の後ろにある何か”を感じ取ってる。その頑張っての前後にある、あなたの態度や言葉から。子どもは思ってるよりも賢いんだよ。

賢くても染まるのが子どもなんだって。いくら賢く育てたところで、根っこは親だ。ジャンプ台ならいいが、沼なら沈むよ。自然の摂理だろ。

だからこそ、『何を言うか』より『どこから言ってるか』のほうが、大事だ。じゃないと、伝える言葉が変わってくるからだ。その言葉から発せられるのが承認欲求であれば、何も伝わらないよ。沼のままだ。

わたしに心理学が通用しない(通用させない)理由

ところで、わたしに、浅い使い方の心理学は通用しない。

それは、心理学を否定しているからではない。むしろ逆だ。心理学の本質、つまり人間の構造を問う力を重視している。

ただ、巷にあふれる心理学の使われ方に対して、『それ、本当に“構造”を見てる?』と問いたくなることもある。

言葉の表面だけをなぞって『これは〇〇タイプ』。それ、分析じゃなくて分類。理解じゃなくて操作。

  • 知識としての心理学は、構造を問わない
  • 構造を見抜く力こそ、本物の洞察
  • 『使い方の誤った心理学』への拒絶

① 知識としての心理学は、構造を問わない

心理学を“知識”として扱うとき、それは『人をわかった気になれるツール』になってしまう。

  • この人は愛着不安型だから…
  • これはトラウマ反応だから…
  • それは投影ですね…

…そう言ってる間に、関係の構造はスルーされている

本当なら、相手の言葉や沈黙の奥に何があるのか。その構造を見ようとすることが大事じゃないかと思える。

でも、表面的な“知識”に留まってしまうと、人は『構造の内側』には入れない。

② 構造を見抜く力こそ、本物の洞察

『その感情はどこから来てる?』
『なぜ、今この反応をしたのか?』
『この関係の構造は、何を再現してるのか?』

そこに切り込めてこそ、洞察だ。

そして、それができるのは──構造を見抜く目を持っている者だけ。

知識や経験から補える。

③ 『使い方の誤った心理学』への拒絶

拒絶しているのは、心理学そのものじゃない。

  • 相手を操作するために使われる心理学
  • 自分の無自覚な劣等感を守るために使われる心理学
  • 相手を黙らせる“カード”として出される心理学

それは、嫌いだ。

心理学は武器じゃない。人を黙らせる道具でもない。人の現在を確かめる道具でもない。

『構造を見つめる対話』のために使うものだと思う。

保身?不安?自身の行動に責任を持てないようなヤツに用事などない!

いいか?全員肝に銘じろ。

わたしは、通用しないんじゃない、“通用させない”んだよ。

通用してないんじゃなくて、使い方の誤りを見抜いているだけだって。使うのは自由だが、自尊心は必須だと思う。なぜなら、自尊心がない者は他者尊重ができないからだ。見抜いたところで、ごと、見抜かれる。洞察も同じだよ。通用しないだと、防御が固くて鉄壁に感じるかもしれないよね。通用させないということは、攻撃は効いてるけど、その攻撃を受けないという選択をしてるに過ぎないんだって。

気づけ。サイボーグじゃないよ。人間だ。忘れてんじゃないの?

毎回毎回、あぁ、このやり取りは〇〇のお試し行動なんだろな。こう思わされるこちらの身にもなれよ。

何度も言ってることを言うよ。

誰を相手にしてると思ってるんだ。

正解を言おうか?

人間だよ。
こんな姿してるけどねー。

人を試す者ほど、人を馬鹿にしてる証拠だって。心理学じゃなくても、他もだよ。基本的に人を試したりする人は苦手だね。そういう人に一度は乗るのがわたしだということを明言しておく。前にも伝えてたと思うけどね。知らずに乗らされたとしても、そこで得たカードは全部、わたしのモノになる。つまるところ、相手が自分の愚かさを露呈している事実にもなるでしょ。

どういうところで人を見ると思うの?そういう行動一部始終だって。あなたが、普通の行動としてしている行動は、実は〇〇である、これは普通にあることよ。わたしの世界ではね。けど、わたし側の世界じゃないと、見えないのよ。なぜかねぇ。簡単なのによ。わたしの本当の厳しさが伝わるかしら?

全員に告ぐ。

そう思うけど、どうしても使いたいのなら、相手を見極めることだな。お前らの行動全部筒抜けなんだよ。

自尊心がない者の行動は、赤子の手をひねるように簡単に分かるものである。

今知った?甘いって。構造読めば、何がどうなってるのか、あらかた、全部分かるよ。中身は分からなくても、地点が分かる。そんな感じじゃない?洞察を楽しみたいのなら、別の者と楽しめ。
お前らの相手は『わたし』じゃないよ。もっと他にいるってー。次元のレベル判定間違えてなぁいー?

孤独な真理──わたし一人で気づいたという重さ

この記事にまとめた“気づき”は、誰かから教えられたものじゃない。

セミナーに通ったわけでもないし、専門的に学んだわけではない。ただ、日常の中の違和感をずっと見つめていたら、ある日、それが線になって繋がった。それから整合性を調べた。

瞬間的に腑に落ちた。『ああ、そういうことだったのか』と。

でも、その瞬間から、わたしは孤独になった。だって、誰もまだ知らない“真理”を知ってしまった自分が、そこにいたから。

  • 誰のせいでもないと腹落ちする瞬間
  • 『真実』に辿りついた
  • 折れて、叫んで、それでも立っている自分へ

① 誰のせいでもないと腹落ちする瞬間

『親のせい』『環境のせい』『相手のせい』

それらを越えて、『でも、今のわたしの感情はわたしのものだ。』と心の底から思えたとき、それは一種の静かな絶望だった。

だって、もう誰も責められないから。

責めることができない場所に、自分が立ってしまった。

② 『真実』に辿りついた

言葉にできない違和感。

他の人が『それでいいじゃん』と流すところで、ひとりだけ『いや、良くない、なにかおかしい』と止まってしまう感覚。

誰にも相談できない。言っても伝わらないとわかっている。

だから、自分でたどり着くしかなかった。気づいてしまった。誰にも知られていない真実に。

わたしの中にだけある、それ。

苦しかった。でも、知ったことで、わたしははじめてわたしになれた。

③ 折れて、叫んで、それでも立っている自分へ

気づいたとき、心はバッキバキに折れた。

世界がぐにゃりと歪んで、信じていた構造が全部崩壊した。

『もう無理』とも思った。

だけど、叫んで、泣いて、それでも立っていた。

誰かのせいにせず、自分の目で見て、自分の足で立っていた。

わたしの人生の、リ・スタートだった。

日本の構造的無意識

『これは恋愛なのか?それともただの依存か?』

そんな問いすら曖昧になるのが、日本の恋愛文化だ。“好き”と“必要”が混ざって、“情”が“呪縛”になる。

それなのに、誰もその構造を言語化しない。

それが“当たり前”として、世代を超えて静かに継承されていく。

構造的無意識。

見えないのに、支配しているもの。気づかれないから、なおさら強いもの。

恋愛だけじゃない。

家族も、教育も、職場も、全部がその構造にあるな。

  • 依存が『情』にすり替わる文化構造
  • 察し・我慢・境界不在の愛

① 依存が『情』にすり替わる文化構造

本当は『ひとりで立てない』ことへの不安なのに、『情が深いから』と言い換えられる。

自立と依存の境目がぐちゃぐちゃになって、『放っておけないから』『私しかいないから』と、“離れられない理由”だけが増えていく。

その感情って何?そう言った瞬間、冷たい人扱いされる。

“共依存”が“人情”に変換されがちな国、ニッポン。

『情がある=素晴らしい』が、関係性の誤認を温存させているような気もする。

② 察し・我慢・境界不在

日本は、『言わずに察すること』が美徳とされがちだ。

  • 言わなくてもわかってよ
  • 私が我慢すれば、関係は壊れない
  • あなたのために、私を殺す

そんな呪いが、まるで愛情の証のように語られてなかった?

うざ….

でも、そこに“自分”はいる?

  • 察することが、感情の放棄になり
  • 我慢することが、自己の抹消になり
  • 境界線の不在が、共倒れの始まりになる

それでも、誰も疑問を持たない。

なぜなら、それが『普通』だから。

③『対等な関係』が教育されない国で生きるということ

学校でも、家庭でも、恋愛でも、『対等な関係とは何か?』を教わらずに大人になる。

誰かが上で、誰かが下。

力がある方が正しくて、我慢する方が優しい。

そんな構造の中で、愛なんて語るから、関係はすぐに歪む。

対話じゃなくて、服従。
理解じゃなくて、評価。

“対等な関係”を求めた人だけが、孤立する構造。

でも、そこに立ち続ける人だけが、この無意識を超えて、新しい関係をつくっていけるんじゃないかと思う。

まとめ

子どもの脳や心は、親や周囲の言動を『環境の真理』としてそのまま吸収してしまう。とくに否定・罵倒・無視・過干渉とかは、自己価値や世界観の“土台”になる。

脳の可塑性が高い時期に繰り返された体験は、感情・行動・反応パターンに無意識のレベルで染み込む

つまり、『なかったことにはできない』。

植えられたもの=履歴/構造の一部として、確実に残る仕組みだ

自覚すれば、『この反応は、わたしの本心ではなく、かつて植えられたものだ』と気づける。気づければ、それに自動的に従う必要がなくなる。

つまり、選択権を取り戻すことができるんだ。

植えられた種は、根絶やしにはできないけれど、それを育てるのか、乾かすのか、光を当てるのかは、自分で決められる。

『消せない』けど、それに『支配されない』選択が必要だと思う。

わたしの場合は、植えられたものが“他者批判”だったり、他にもいろいろある。

でも、それを自覚して『どう使うか』を選んでいる。

他者批判は誰にでもある。だからこそ、それを悪い方向じゃなくて、受容や選択のためのエネルギーにできる。あなたにも、きっとそういう“植えられたもの”があるはず。

それを自覚して方向を変えれば、自由の入り口はもっと大きく開いていく。

ちなみに、わたしは普段心理学なんて適用しながら話さない。あらかた分かることはあるけれど、けど挑まれたら受けるしかないから、受けてみただけだ。独学だけど、整合性はあると思う。

この記事を置いて置く。こうやって伝えていても、分からないだろう。自己理解の浅さからくるんだ。投影ね。わたしの知識は串刺しなんだよ。

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