視点が増えた日、わたしがゼロになる※視点という次元、境界という武器

前記事が長くなりすぎたので、またまたこちらへ移動。

さぁ、脳内をとことん教えないと。そろそろ疲れてきたかな。それはそれで大丈夫だよ。素直な反応だ。それでいい。

あなたの視点、おかしいわよ。

あなたの視点がおかしいでしょ。

どちらも、実は同じ穴のムジナ。互いに視点の狭さを責め合いながら、自分の正しさを盲信している——そんな対話の不毛さに、ある日わたしは気づく。

親から、

全部あなたが悪い。

と言われ続けた幼少期。それを鵜呑みにした私が辿った道は、他責と自己正当化の泥沼だった。罵倒はしない。でも“静かに突いて壊す”ことには長けていた。正しさという名の刃を手に、自分の正義を貫いた先で見たのは、誰も救われない世界。

  • 人は、どこまで自分を疑えるか?
  • そして、どこから他者を信じられるか?

この問いが、私の再構築の旅の始まりになる。

目次

わたしの場合

わたしは、親から、

全部、あなたが悪い。理解が足りない。

そう言われてたから、そう信じ込んでたんだよ。大人が言うから、そうかもと思うじゃない。

けど、受け切らなくて、相手を咎める。わたしにも、他責だらけの時代があった。罵倒はしないけど、正当性を持って静かに突いて壊しに行くという図だった。相手にとってみたら、驚異よね。存在が嫌にもなるだろう。この正当が刃になる。相手も受け切らない。

自分だけが正しいと思わないで!
あなたは、変わらないといけない!

書くと簡単だけど、もっともっと複雑だったよ。浅く説明すると、正当性はこちら側にあるのよ。ここで言う正当性は、物事の原理原則のことよ。とても苦しかったんだって。そこで強いられた他者理解だ。分からない者の理解。

そこから、分かろうとしない私と、分かろうとしない親の図に気づいた。親と同じことを人にしてる自分に気づく。あんなに嫌だと思ってた人が自分だった。よくそんなに他責で、人の責任ばっかりにしてられるよね!?と思ってた。分かってもらえなくて辛かった。けど、その辛さを抱えていたのは自分だけじゃないと気づかされる。歯向かって、相手に突きつけに行ってた自分を責めまくった。分かってもらえないの中身も違う。腹立たしい。けど、同じ、自分が傷ついたくらい、わたしもまた傷つけているという事実があった。

これが正しいでしょ!なんで分からないの!という言葉すら、他責でしょ。つまるところ、『なんで分からないの!』は、他者を責めてるようでいて、視点の違いを知らないだけでしょ。

視点がひとつしか存在しないと思ってるから、こうなるのよね。分かるかしら。

会話にするとこうなるよ。

あなたの視点、おかしいわよ。

あなたの視点がおかしいでしょ。

互いに、視点の足りなさを相手の責任にしてるでしょ。

わたしは、人を傷つけないように生きていたつもりで、それが自負だったのよ。それがただの自己満足であり、空虚だということに気づいた。全ては自分のためである。

こんな風に複雑さを解体していったら、絶望しか残らなかった。わたしが持っている正当性は、わたしだけのものであり、自分のしていた行動は全て自分のための行動である。この理解が苦しかった。

視点が増えたんだ。あの人にも、この人にも無数に存在する世界がある。仏教の空。

そりゃ崩壊もするさ。そこから、自分も弱いことに気づく。ボロボロだ。正当性を主張する意味がなくなった。自分の脆さ・弱さを受け入れるしかなくなった。

そっからだよ。これをどうやって理解して行ったらいいか、構築の旅が始まったんだ。話すと長い。

  • 正しさとは何か?
  • 親とは何だ?
  • 子どもの権利は?
  • 仏教とは?
  • 強さとは?弱さとは?
  • 他者のための行動とは?
  • 自分の欲求は?
  • 理解とは?
  • 辛さとは?その辛さは誰のものだ?
  • どこまでわたしが理解すればいいのか?
  • 気づいてしまった側の責務は?

全部の疑問を自分で解いていった。そして、今がある。そりゃ、自然に哲学とか心理学にもたどり着くさ。

ゲシュタルト崩壊後、自責に変えた。感情理解をして、感情の出所を探って、その責任の所在を問うということを繰り返していた。相手を理解するというか、その前に、伝える内容の正当性があるかどうかの確認だ。そうすれば、善悪は関係なくなる。本質を問うことができるから、争わなくて済む。その作業が課題の分離になっていたんだと思う。これがアドラー心理学に該当するのは、少し後に知った。

課題の分離をしていたのは、怒りに向かうためだね。感情と課題を分けないと、感情は言葉に乗っかって相手に伝わるから、全部『課題だけを相手に渡す』ということをしていたのよ。

次元という概念にたどり着く※職員会議で例えた選別の仕方

そこから、私は次元という概念にたどり着いた。つまり、『理解できる者と、できない者』が確かに存在する、という冷厳な現実。アドラーを通してさえも、『言っても無駄な領域』が確かにあると知る。価値観の層が違うということ。よく言われる3次元だとか5次元だとかは、わたしは、視座、そして承認欲求のあり方を重視している。

たとえば、PTA会長の肩書きやヴィ〇ンのバッグ、職員会議で折り紙やエプロンの話をし出す者、箱ティッシュしか受け取らない者、国語の授業で『正解』を教えることすらできない者。こうした人々とは、価値観の次元が違う。私にとっては、すでに“排除”の対象になっている。

これは冷たさではない。見極めと保全の結果だ。こういう人たちに手を差し伸べることは、こちら側のエネルギーの消耗につながり、下手をすると自分が潰れる。だから『気づきを待つ』以外、選択肢はない。介入はしてはいけない、介入しない、危険、それが、私が導き出した答えだ。

だからこそ、境界を伝え排除する。境界線とは、この場合は、教員としての境界だ。わたしの場合は、人としての境界だけどね。

それは、ご自身で解決いただくのが教職者としての役割ではないですか。職員会議は、全体のために機能する場であり、個々の葛藤を解消する場ではありません。今一度、ご自身の発言がその目的と合致しているかを振り返ってみてください。そして、教員としての在り方についても、自ら問い直してみてください。

その中でも、この一言で揺れる者が出てくる。そこが分岐だ。その人が“どちら側に行くか”が見える瞬間。

これと一緒だよ。

ねぇねぇ、こういうことがあったの、おかしくなーい?

やだ、何それひどーい!

やっぱりぃ?ひどいよね?わたし、間違えてないよねぇ~

正しささえも自身に問えない教師が、生徒に何が教えられるんだよ。

職員会議も、本来の機能に立ち返る可能性がある“気づく者”さえ揃えば、だ。

けれど、磁場を低く揺らす者が混ざっている限り、次元は上がらない。そういう者は、場を濁らせ、低レベルを撒き散らす。実態は自己未消化のままの“感情の漏洩”なだけだ。それを伝える必要もない。なぜ、裸の王様の少年をかって出る必要があるんだ。無駄なエネルギーだ。

発言権ごと奪うんだよ。聞く意味ないだろ。そのうち黙る。上次元が2人以上いれば上等だよ。

レベルの高い問いだけにしてしまえば、自分の滑稽さの露呈になるが、低レベルになると、問のレベルも問えなくなる現実が存在するから、苦言しか適さないことがある。つまるところ、会議で目立ちたい!があるとか、それだよ。笑

そしてここから、ワンランク上になる。ゲシュタルトだ。

子供のダンス教室

子どもがダンスを習っているんだけど、そこでどういうことが起こるか説明すると分かりやすいかもしれない。

まず、10人編成のチームがあるとするじゃないですか。

2人が抜群に上手、8人が波~波以下。うちの子はこのメンバーにいないですよ。

8人が2人を目指すと思うでしょう?違うのよ、8人が2人と同じレベルだと思い出す。

『この2人と踊ってるわたし達、イケてる』状態。

親も同じ。しかも、どう見ても超絶に上手な2人しかセンター考えられないのに、インストラクターに、

うちの子、センターできませんか?

どういう経緯でそう思えるのww
わたしが言ってやるよ。
できねーよw

自分の感覚が基準、正解が見えないんですよね。

けど、上手さが違うんですよ。センター変われだなんて、死んでも言えないようなレベルの差に見えるんですよ、わたしからは。

ダンスって、正解が明文化されていない世界。野球ならストライク、塁に出ろ!とかある。でもダンスは、リズム、表現、角度、アイソレとか、見えない要素が多くて、見る側の解像度が問われる。
→ 結果、下手な人からすると誰が上手いかは“なんとなく”でしか分からない。上手だけど、どこがどう違うのかが分からないから、再現不能。

わたしのように、ある程度目利きがあれば、例えば、腰のアイソレが足りていない、動きが小さい、手の角度がおかしい、動きが止まる、流しなさい、2人に沿いなさいという指導をするけれど(自分も覚える)、大体しないの。

というか、できない。何が違うか分からないから。

上手な2人とも、このグループのレベルが低いのは分かってるのよ。ずっとジレンマだけ抱えて踊り続けてる。イベントでいつも思う。

わたしから見たら、

なんでこんなに上手な子がこのグループでセンターで踊ってるの?2人別グループ組ませたら?2人だけの方が映えるって。

こういうレベルよ。それを伝えてもらったことあるんだけれど(経営側にね)、

経営者

あれでやりたいの!あの人数で!

って言われたんですよ。

そしてどうなったか。

1人が、そこのグループを抜けた。そしたら、もう1人は、ダンス教室自体を辞めたの。大痛手じゃん?

経営者、ショックで撃沈中。

けど、そうなるよね、不思議じゃないよ。2人にとっては拷問だもの。わたしでも辞めさすわ。

あの子が辞めるって何!?アプローチが逆。

上手なグループを作って、そこに行きたければ努力してくださいっていうスタンスじゃないと、努力できないのよね。上手な2人は辟易するでしょ。

だって、下は上に沿えばいいけど、沿いやしない。上は上に行けなくてジレンマが生じて、この歪みよ。ずっとそのグループ見てたけど、伸びてるのは真ん中の2人だけで、あとはどんぐりの背比べよ。むしろ下降。

そして、別グループを作ることになったんだけど、半年揉めてる。

誰が?親が納得しないの。

主張することと言えば、これ。

わたしは、発表会で毎回違うグループの動画まで撮影してますよね!?毎回、練習動画取って送信してますよね!?

頼まれてもないのに、お門違いもいいところでしょ。

で、何してるかって、1週間ごとに親を変えて、各自1人ずつクレームを言わせに行くっていうね。学校では、子どもに指示を出すのね。

こういうのが、次元を下げて行くんだって。で、下げた先にあるのが、いっちばん上手な子辞めるっていうね。

で、どうなるかって、ここのダンス教室で上手になりたいって人が減って行くし、経営の危機に直面していくじゃない。ほんわり、ふにゃふにゃ踊ってる子見るの、祭りでもしんどいって。

衣装と化粧だけバッキバキにきまって、ダンスめちゃくちゃ。

今までこの保護者に沿ってた経緯もあるらしいんですよ。あまりにもうるさいから。こうやって、こういうのに沿って遠慮とかしてると、教室自体のレベルがどんどん下がる。職員室と同じだって。

学校だって同じよ。

結局、インストラクターが、

動画なんて、誰にも頼まれていませんよね?何のためって、ダンス真剣にされたいんだったらダンスの練習を子どもさんにさせたらどうですか?その動画で、子どもさんは練習されてるんですか?俺、まだ子どもいませんけど、あなたみたいな親、どうかと思いますよ?一生懸命上に上がりたいって言ってる子どもたちに失礼ですって。応援しようと思わないんですか!?そんなに不満でしたら、辞めてもらって構いません!

撃退です。

言い方はね、もっと構造化で伝えたら伝わるものがあったとお思いでしょうが、伝えてるんですよ。半年揉めて、限界も限界だったようです。こっちもだし。

わたしが話すって言ったら、家で寝といてくれって伝言受けたから…..
ややこしくなるから、出てくるなって。いっつもこのポジション….

ここは、あとちょっとだ。まだ揉めてる。

追加ですが、あれからようやく、クラス分け合意取れました。お盆休み中、練習するように言われてたパート、曲かけて踊れたの、我が子だけ。難易度は高かったけど、クラス分けに異論を呈すのなら、完璧に覚えてくればいいでしょ。だけど、一生懸命努力するのは、親のビデオ撮影。全然意味が分からない。無事に9月からガールズヒップホップできる。良かった、良かった。曲の内容はアレだけど…、ようやくDove cameronで踊れる。Ava Maxの『Kings & Queens』、これは曲の内容も◎、2局目提案したけどどうだろう….何の話だろう…笑

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