『雨ニモマケズ』をどう読むか ― 理想と現実の乖離

『セロ弾きのゴーシュ』を読んだとき、思ったんです。

31歳でこんな世界観を描けるって、一体どんな人生送ってたの?

で、ちょっと宮沢賢治の生涯を調べてみました。そしたら出てきたのが、あの有名な『雨ニモマケズ』。死後に手帳から見つかった詩ですね。

普段は何気なく読んでたんですけど、改めて読み直すと――

え、これ結構むちゃくちゃじゃない?って混乱。

色々考えてみた結果はこうです。

  • 『セロ弾きのゴーシュ』=理想の世界。
  • 『雨ニモマケズ』=なれなかった現実。

賢治は仏教をベースにしていた人だから、マズローの自己実現理論みたいに「人はこうやって成長する」って流れを、知識か体感かで理解していたんじゃないかなと思います。仏教とマズローってリンクする部分が多いので、「なるほどね」と。

でも、『雨ニモマケズ』には「こうなりたい、でもなれない」という葛藤がダダ漏れにも読める。要するに「悲願達成には至らなかった」という、正直な吐露のように感じたんです。

そこを、この記事にまとめてみたいと思います。

目次

『セロ弾きのゴーシュ』に描かれた理想

pdf見つけたから置いときます↓

宮沢賢治の代表作のひとつ『セロ弾きのゴーシュ』は、ただの童話ではないと思っています。

物語に登場するゴーシュは、不器用で楽団からも認められない落ちこぼれの芸術家。しかし、夜ごと訪れる動物たち(=ゴーシュ自身の未熟さや欠点の投影)との関わりを通じて、彼は次第に成長していく。

そうした自分の内面と向き合いながら、音楽家として腕を磨いていく姿は、まさに「人間が成長していく仕組み」を示していると思う。

そしてクライマックスでは、「人のために弾ける自分」に到達。これは自己実現の入り口に立った姿であり、同時に賢治自身が切望しながらも現実には叶えられなかった姿でもあるのかなと。

宮沢賢治がこの作品を書いたのは31歳、改革に挫折し、孤独と病に悩んでいた時期と重なるんですよね。

「認められない芸術家が、最後に人々に認められる」という構図が、彼自身の願望と重なる。

つまり『セロ弾きのゴーシュ』とは、実現できなかった「理想の自己実現」を文学という形で描き出した物語とも見れる。

『雨ニモマケズ』に刻まれた失望

『雨ニモマケズ』は、賢治が病床に伏しながら書き残した手帳の一節。理想を詠んだ詩として広く知られていますよね。

けれどその結末は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で閉じられている。つまり「なれた」ではなく「なりたい」。

ここに、未達成のまま終わった切実な告白が刻まれている。

賢治は、雨や風、雪や暑さにも負けない強さを求めつつ、私利私欲を捨て、ただ他者を助ける無私の生き方を理想としてた。

だけど現実には、農民改革は失敗、農業経済の構造に歯が立たず、自分自身の生活も守れないまま病に倒れていきます。

「無私」を掲げながら、自分も他人も救うことができなかった、その矛盾が、『雨ニモマケズ』の影に漂ってる。

この詩は理想の宣言であると同時に、他者貢献を本当の意味で理解できず、報われなさだけが残った現実への吐露とも読める。

賢治の改革とその限界

  • 農民指導の失敗
  • 批判の欠如

① 農民指導の失敗

宮沢賢治は、理想を文学だけでなく現実の改革にも生かそうとしていて、1926年、彼は花巻農学校を退職し、『羅須地人協会』を設立して農民と共に学ぶ活動を始めます。とにかく真面目。そこでは農業技術の指導や芸術活動(音楽)を通じて、農村を豊かにしようと試みる。

しかし、この取り組みはわずか2年で終焉。

宮沢賢治

収量を増やせば農民は救えるはずだ!

と信じていたけれど、実際には地主制や借金の構造が農民を縛りつけていて、いくら米の収穫が増えても、小作料や借金返済で手元には何も残らない。

むしろ「豊作になれば米価が下がり、ますます貧しくなる」という「豊作貧乏」の現実に直面することになる。

賢治は農業の科学的理論には詳しかったものの、この経済構造を十分に理解していなかった。その結果、彼の改革は現実の農民を救うことはできず、理想と現実の溝だけが浮き彫りに。

② 批判の欠如

宮沢賢治は、裕福な質屋兼呉服屋の家に生まれている。しかし彼はその商いを強く嫌い、「商売は人を救わない」と考えて家業を拒絶してるんですよね。

なんで?救われている人いるじゃん?じゃないと、商い成立しないから。

質屋や呉服屋という商売が成立していたのは、人々の生活に確かな需要があったからですよね?

そこには、経済の循環が成り立っていたわけで。

賢治はその現実を冷静に見ようとはせず、感情的に否定する姿勢に終始しているから、構造自体を読むことがスッポリ抜けていたのかな?とも思える。

結果として、彼の目は「構造」ではなく「理想」に向かい続けている。

「こうすれば人は救われる」という願いは純粋だけれど、経済や社会の仕組みを踏まえなかったのと、実際に農民への寄り沿い方に無理があったのかな?だから改革は、実効性を欠き、成果を生まないまま挫折に終わった。

だって、食べ物に困っているときに、

宮沢賢治

音楽だ!皆で音楽を奏でよう!

農民

現実見ろよ!

こうなる可能性は十分でしょ。

セロ弾きのゴーシュを改めて考える

三毛猫=実家・家業
→ 無理やり演奏を要求する傲慢さ
家(商い)に縛られ、利用される自分の姿が映っている。
賢治が実家を嫌いながらも、切っても切れない存在。

かっこう=農民(あるいは農業そのもの)
→ 「もっと早く、もっと正確に」と演奏を要求する。
賢治が農民に「収量を増やせばいい」と真剣に説いた姿が重なる。
でも、かっこうと意見の合わないこと。ゴーシュを苦しめる。そして逃げられる。

わたしが説明したかっこうの気持ちの想像

中途半端で終わらせる者に助けなど借りない!という強さとも見えたし、何がなんでも自分の力だけで脱出してやる!という強さにも映ったんですよね。あとは、正確に弾くことだけを追求しているゴーシュへのダメだしとも取れるかもしれない。』。

やっぱり、構造が見えてたら、途中経過の思いや考え方というのは、変わらないんじゃないか?と思う。だって、『セロ弾きのゴーシュ』の記事書いてたとき、宮沢賢治の背景なんて私知らないから。

かっこうの発言を農民の気持ちに置き換えたら、

農民

誰がお前の力なんて借りるか!自分たちだけでやってやる!正論ばっかりつきつけやがって!こっちは今日食べる米がないんだよ!!!

こんなやり取りかな?とも想像できた。あとは、お米の作り方を習っていて、衝突とかね。農民は血眼になって働いている!と主張、賢治は科学的理論を主張する。

農民=生きる、食べる(マズロー理論でいう1番目、生理的欲求、2番目、安全欲求が満たされていない)
賢治=収量を増やすために豊かになるために科学的理論を主張し、音楽での楽しみ方を訴える(マズロー理論でいう3番目、社会的欲求、4番目、承認欲求が見える)

そら、喧嘩になるよ。無理がある。

宮沢賢治

別に怒ったわけじゃなかった…ただ、米の収量を増やせば、皆が助かると思ったんだ。

ここで、米の収量を増やせば、皆が助かるという思いには気づいていたのかもしれないけれど、そうすることで、皆から自分が認められたい。そこへの気持ちの気づきが欠けていたのでは?と想像もできる。まぁ、仲間が欲しかったんじゃないのかな。よくある構造でもある。

けど、大体、こういう構造はうまくいかないんだよね。宗教でもそうだけど、「仲間が欲しい」これが先にあると、普及事態失敗するよ。ゴールがズレてる。行動がおかしくなるんだよね。ここに気づくのが、どうも難しいみたいだね。仏教の「無私」からもズレてくるでしょ。これが悪いと思うと苦しくなる。悪くはないんだよね、伝え方を間違うと、誤解を生む。伝えるにも、自身の感情を理解してないと、伝えられない。「ごんぎつね」と同じに思えてきたよ。

そして、それが1番の願い。副次的に「皆が助かる」があったのでは?じゃないと、反発なんて、そうそう起きないんじゃないかなぁ…と思ったんだよね。それか、順番が途中で入れ替わってしまった。ゴールが違うだろう。「自分が正しいことをやっている」という強い気持ちが前に出すぎて、農民からは「押しつけ」と受け取られた。だから「正論ばかりつきつけやがって!」という反発になったのかもしれない。

ここも分岐が多いけどね。反発から、そうなっていった可能性もある。要するに「欲」を掻き立てられた。というか、投影を見せられて、目的が途中からおかしくなった可能性もある。そんなもんだよ。だから私は、経過思考型の思考を取り入れている。自覚的でいないと、気が付いたらGPS不在の樹海の森だから。どこ歩いてるかくらいわかっとかないと。

自身の行動の所在地が、おかしかったんだと思う。ロジックのズレ方がえげつなくなるのは当然だ。思考と行動に乖離があると、その乖離は違和感となって人に映りだす。それは反発になっていくんだよね。
そしてその違和感を大体は説明ができないから、怒りとかになって外に出るんだよ。一応言っとくけど、わたしはできるけどね。なぜそうなっているかというとー…ってやつだよ。

これが人間関係の縮図でもある。だから、自身の欲望や感情を理解するのは、基本中の基本だと思ってる。そこを包み隠して生きたところで、人生上手に歩けるわけがない。理解してから自己に向き合って分岐していくのに、わからないなんて、樹海だよ。それは1+1=2だ。とはいえ、私はおかしいから。おかしくても、これが難しいのは分かってるよ。

わたしがそこに存在していたら…

何のための活動だ?本当のゴールはどこだ?収量を上げる、音楽を楽しんで豊かさを…の先にあるゴールだ。収量を上げること、音楽を楽しむことのあなたのゴールは仲間獲得、他者貢献ではなく他者承認でないのか?そこが悪いとは言わない、結果、他者貢献になるからね。けど、気づいてないと、行動がズレるんだよ。自覚的であれば、いいのよ。どっちなの!?

突きつけていたかもしれない。

承認欲求に自覚的であれば、農民から反発が起きたときに、意識転換ができるようになる。そこに気づきがないと、自分が自分に支配されるんだよね。だから、相手を支配しようとする。分岐がすごいけど、仮にこれをわたしが突きつけたとしても1回まで。ここで二―バーの祈りになる。大体、気づかないから、ずっと揉める図だ。

あ、言っときますけど、ぜーんぶ持論ですよ。そんな風に、わたしの目には映ってしまった図だから。他の視点もあるかもしれない。

タヌキ=音楽活動
→ のんきにリズムを取って遊ぶ存在。
音楽活動で芸術を楽しむゴーシュ。

ねずみ=弱さ・痛みに向き合う自分、あるいは本当に助けたい存在
→ 子どもの病気を前に、初めて「人のために演奏できる」自分に変わる。
自己実現の入り口=農業を通じて「他者のために動ける自分」に到達する瞬間。ここは理想であり、想像かな?

1928年(32歳)頃に、農村経済の現実(地主制・借金・豊作貧乏など)に直面し、協会活動は行き詰まる。健康悪化もあり、実質的に活動は終了。

かっこうに謝罪しているところを見ると、農民改革の挫折を経験して見えたものがあったのかもしれない。

本当に欲しかったのは「皆が助かること」以上に「自分が認められること」。だからこそ、『ゴーシュ』の最後は「ひとりで舞台に立ち、承認される」という幻想で終わってしまったのではないか、とも読める。あとは、仲間を欲している自分に気づきがないとも読める。分からないけど。だって、皆で演奏のアンコール描写が無い。なぜ自分だけ引っ張り出されたんだ?
自身家の稼業の存在、なぜあの稼業が存在しているのか?そこを問えていたら良かったんじゃないのかな。
正しいことを正しいとするのは簡単。その正しさは誰の正しさなのか?そこの深度が浅かったと考察する。ごめんだけど。

結局こんな感じ?

家業もさ「理解はできる、なぜ需要があるかも分かる。だけど、自分は沿えない。」これくらいまで来れたら良かったのかも。

もっと俯瞰的に見てみると、その後お米の品種改良で、彼の住む地域の収量は増えて行った。彼の活動は未完に終わったかもしれないけれど、その品種改良種を上手に育てる基盤には成りえただろうから、意味はある。だけど、直接的に地主制撤廃だとか、そういう面に寄与しているようではないみたいだし、彼の科学技術論がその後の農業に影響を及ぼしているか?というとそうでもないようだ。

彼の書いた作品が意味を持っているのだとしたら、彼の活躍の場は農業ではなくて、本を書いて広める方だったのかな。そこだと、読みたい人だけが集まる。そうとも読める。じわりじわりと、広げられる。『セロ弾きのゴーシュ』の物語に一週間から十日と書いているところを見るに、急ぎ過ぎた可能性もあるしな。活躍の場所が、活躍の仕方が違ったのかもしれない。しかし、あの本が出来たのも、農業での経験が意味を持つ。通らないと書けない作品だ。

不思議だな。通らされた可能性もあるとも読める。仏教を心得ているのなら、言っていることに間違いはないんだよね。だから、没後にも関わらず、彼の作品が普及し始めるのも納得できる。体験談だとしても、原理原則を分かっているから、人の中で内容がスッと落ちるんだよね。
反発を生まないんだよ。作品は「ただ在る」だから。けど、賢治はそれができなかった。よく見聞きし分かり….がな。教えてどうするかは、相手の自由だ。

『セロ弾きのゴーシュ』が賢治の体験談だったとしたら、チェロを担当していて、実際あまり上手ではなかったようだから、そのままの葛藤を描いたものなのかもしれない。「三毛猫=実家・家業」ではなくて、そのまま、「三毛猫=他の音楽仲間」の可能性も十分高い。ただ、三毛猫フェーズで出会う人々というのは、家族であろうが音楽仲間であろうが、言われる内容に違いがないんだよね。逃げても追われる(出会う)のが人生だ。どういう見方をしても、三毛猫フェーズに違いはない。

理解ができないと叫んでも、理解できない、したくないような人々に出会う。だから、理解はできた、けれど沿わない!沿えない!交わらない!強要しない、コレがわたしだ!そういう、自分なりの知識を掴むしかない。じゃないと、自分の仲間に出会えない。というより「人の違った面を引き出せない」こうだ。そうしておくと、沿う者だけが残り、他は勝手に散る。ひとりになる可能性もあるから、覚悟は必要だけどね。けど、この覚悟が必要なんだ。これが正しいと言ってるわけじゃない。これが、自由になる一歩だとは思う。群れるにも違った覚悟は必要だ。どちらの覚悟も、賢治にはなかったのかもしれない。批判じゃない、想像での話なだけだ。

あの『セロ弾きのゴーシュ』を人生として捉えたとしても、音楽の上達と捉えたとしても、読み方に変わりは無い。不変だ。セロの欠点を補いながら上達する姿を、自身の欠点として読み解くのかどうか?結局は到達点は同じになる。だから単純に、努力すれば報われる系のお話だったとしても、努力も、方向を間違うと努力しても報われない。セロの欠点を補えなければ音楽は響かないし、自己の欠点(渇望)に気づけなければ、人に伝わらず、誤解や反発を生む。だから「努力+自己理解」が揃って初めて「報われる」に至る。

そういうことだろう。どの道、あれを「努力すれば報われる」「動物との共存(人の畑のトマトを勝手に取ってはいけません)」とかで教育してたとしたら、どうかと思うわ。と思っちゃうのが私だ。作品の核心がごっそり抜け落ちる。

  • ゴーシュは「努力」したけれど、ただの根性練習ではない。
  • 動物(=他者/自分の欠点)から突きつけられた「弱点」を直視することがポイント。
  • だから「努力+自己理解」がセットになって、初めて成長につながる。

そういうことだろう。

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