軽い世界で生きる人へ——それは自由ではなく、無重力という名の牢獄だ

軽い世界は、痛みを感じなくて済むよね。

思考も責任も手放せる。だからこそ、多くの人がそこに留まる。けれど、軽さに漂い続ける者は、いつか「自分がどこにもいない」感覚に気づく。

軽い世界で守ってもらう者は、一見、幸福そうだ。

けれど、その幸福は 「意志の放棄」 によって成り立っている。つまるところ、思考の放棄だ。思考する者が側にいると、突きつけられることがあるからな。痛みのない世界では、思考は必要とされず、他者の価値観を借りて生きることになる。そりゃ楽だ。

守られることは、やがて支配へと変わる。支配する側もまた、恐れから逃げている。

だからこそ、軽い世界の住人は、互いに依存し合いながら沈んでいくという図が成立している。

わたしから見る「楽に見える世界」は、思考の停止によって成立している「無自覚の牢獄」だ。意志を持たぬ者に、自由は訪れないよ。

自分で立つ人は痛みを知る。

痛みを知る人だけが、他人を本当に理解できる。——軽い世界で生きるより、痛みを引き受けて立つ方が、ずっと、重たくて、美しい。

まぁ、これはわたしの美意識だ。容易でないことも理解はしている。

この構図が分かっているのか分からないのか、自分事じゃないと思っているのか、分からないから記事に残そうと思う。

目次

軽い世界は、なぜ“自由”に見えるのか

  • 痛みを避けたい本能が、軽さを選ばせる
  • 軽さは「守られている」ようで、実は「支配されている」

① 痛みを避けたい本能が、軽さを選ばせる

人間って、痛みに関しては天才的にサボる生き物だ。

「考えたくない」「面倒くさい」「まあいっか」——この三拍子が揃えば、ほとんどの思考は停止する。

軽い会話、軽い人間関係、軽い恋愛。

どれも「脳にやさしい低カロリー食品」みたいなものだ。

消化は早い、栄養はゼロ。

ときにはいいんじゃない?けど、食べ続けてしまうのは、なぜだろうね。

痛みを感じたくないからだ。

でも、麻酔が切れたあとの空虚さは——本物の痛みより、よっぽど痛いのではないか。

② 軽さは「守られている」ようで、実は「支配されている」

「守る」「無理しなくていい」「考えなくていい」——優しい言葉ほど、麻薬のように効くよね。

相手を見て、わたしも自覚的に使うことあるしね。

けど、自覚的でないと、気づけば、自分の意志はどこかに消えて、“誰かの都合のいい優しさ”に飼い慣らされている。

依存と支配は、同じ構造の両端だ。

自分で歩けるのに、手を引かれる心地よさに溺れる。その瞬間、人は“囚人”になる。囚人である自覚すら持たない。

そして皮肉なことに、この構造の中で一番笑っているは誰か?

無自覚な囚人本人だ。

軽い世界で失われるもの

  • 思考を手放した瞬間、「自分」が消える
  • 守られる側も、支配する側も、どちらも恐れている

① 思考を手放した瞬間、「自分」が消える

軽い言葉を投げ合うのは、まるで空気のボール遊びだ。投げても痛くないし、当たっても何も残らない。

「わかる〜」「たしかに〜」の応酬で、脳は満足した“つもり”になってしまう。

でも、その瞬間に消えていくんだよね。

「自分は何を考えてるのか」っていう、たった一つの問いが。

「考えない自由」は、自由じゃない。

それは、思考の放棄という名の自我の断捨離だ。

軽い世界では、“空虚な安心”が蔓延する。みんな笑ってるけど、誰も目を合わせちゃいないよ。

② 守られる側も、支配する側も、どちらも恐れている

俺が守ってやる。

私がいなきゃダメでしょ?

男性側のは、原理原則を分かっているなら、アリな台詞だけどね。女性側のはただただ、気持ち悪い。たまーにいるよね、この系統。
ゾッとするわ。

無自覚であれば、本音はこう。

  • 失うのが怖い
  • 嫌われたくない
  • 自分が無価値になるのが怖い

支配は恐れの裏返し。そして、守られる側も同じ恐れを抱えている。

軽い世界は、“優しさの仮面をかぶった恐怖の構造”だ。

触れ合っているようで、どちらも怯えているだけのね。その手のぬくもりは、温もりじゃなく——“拘束温度”。

軽さを超える——“重さ”に宿る真の自由

  • 痛みを知る人は、自由を知る
  • 軽い世界を見抜く目を養う

① 痛みを知る人は、自由を知る

痛みを自覚しているというのは、感受性が壊れていない証拠でもある。

「もう何も感じたくない」って言う人ほど、実はまだ感じてるし、期待もあるはずだ。

麻痺したフリをしたいだけで、本当は全部わかってるんだろ。
責任を引き受ける人だけが、選択の自由を得る。だって、責任を取る覚悟がないなら、選ぶ資格もないでしょ。

重さを引き受けた人だけが、軽さを楽しめる。

“本物の軽さ”って、逃げた先にはない。全部引き受けたあとに、ようやく吹く風だよ。

例えば、裏切られても信じようとするその姿勢が、「重さを背負って立つ」ということ。そして、その背中に初めて吹く風があるんだと思う。それが“軽さ”で、逃げて得た軽さじゃなく、立ち尽くして得た軽さだと思う。そこに立たないと吹かない風があるんだと思う。

失敗を恐れて挑戦しないのは、軽さの仮面をかぶった逃避。でも、失敗しても「自分で選んでやったことだ」と受け止めた瞬間、人はもう誰のせいにもできない分だけ、自由になることができる。逃げなかった人だけが、次の挑戦を“軽やか”に選べる。

自負ができるからね。

「どうせ私なんて」と思って自分を否定するのは簡単。でも、その感情すら「今の私だ」と認めた人は、もう自己否定に支配されない。それを受け入れた人は、自分を許すことで初めて“軽やか”に生きられる。

波長の法則にも似たものがあるかもしれない。自分の波長が整えば、軽さにも飲まれず、重さにも沈まない。

軽いと思っている世界は、重力が体重の倍以上はあるんじゃないのかな。

「思考の罠」

軽さを選んだつもりで、心には見えない重力がかかっている。

笑ってごまかすたびに、体重の倍の負荷が、内側に沈む。

“軽い世界”は、自由そうに見えて、実は最も重たい世界だ。

見ない努力、感じない努力、考えない努力。それらが積もって、心の重力を増していく。けど、この軽い世界も、選んだ自覚があるのなら、それは自由だからね。

無自覚にもその世界に居座るから迷うのだろう。

② 軽い世界を見抜く目を養う

人間関係って、目に見えない「構造」でできてる。だから私は、“人を見る目”よりも、“構造を見る目”を持つようにしてる。

  • なぜこの人は軽さを求めるのか?
  • この人の“軽さ”は、恐れの仮面か、それとも無知の結果か?
  • 知性があるのに軽さへ逃げる所為は?
  • そこから得られるものは?

どの道、丸裸になるけど大丈夫?
安易なやり取りとかで、感情を刺激されるほど、愚かじゃないのは分かってるだろうから。
丸裸希望が狙いなんだったら、成立してるけど。
大丈夫、見えてるよ。多分ね。

——ここが読めた瞬間、世界の見え方が変わる。

誰かの言葉や態度に振り回されなくなる。愛も、自由も、“反応”じゃなく“選択”になる。

軽い世界を抜けるって、難しいことじゃない。

ただ、「自分の目で構造を見る」こと。

——それが、ほんとうの“重さの自由”にもなる。

軽さに酔うな。思考を保て。

  • 軽い世界の幸福は、一時のまぼろし
  • 痛みを抱えて生きる人こそ、真の自由人

① 軽い世界の幸福は、一時のまぼろし

軽い言葉に囲まれると、人は一瞬“安心”する。『どんぐりと山猫』の馬車別当と同じだよ。文章や文字を下手だと聞いて、「上手だった」と言われるお世辞に笑みを浮かべるあの馬車別当だ。

  • 考えなくても生きていける気がする
  • 深く悩むより、楽しく笑ってた方がいい

そりゃそうだ。

そうやって、思考を削ぎ落としていく。馬車別当も一郎から褒められることに意味を見出してる。

でもさ、考える力を失った瞬間、人は他人の思想に飲まれるし、自分で選んでいるように見えて、選ばされているだけだよ。馬車別当は一郎に選ばされているんだ。次に馬車別当がどうなるか想像してみたら容易い。一郎の代替が必要になるだけの話だ。

無自覚に余計なことしてるよね。

“軽い幸福”とは、支配の形を変えただけのまぼろしだ。

楽しく笑ってた方がいいって自覚的に言動することはあるよ。けど、それを温床にはしないよ。それこそ、方便の間違いじゃないのか。
そこも自覚的なのか?だがしかしどうだろう。
わたしには、自覚的には見えないよ。

「笑ってた方がいい」——その言葉が方便になるか、逃避になるかは、“意識の高さ”ではなく、“意図の明確さ”で決まる。

痛みを知って、なお笑える人。現実を見たうえで、あえて軽くふるまう人。それが“軽さ”ではなく、“軽やかさ”だと思うよね。

けれど、現実(痛み)を直視できない人が「笑っていればいい」って、その笑いは思考停止の温床だよ。

方便を間違えれば、ただの逃避だ。自覚的ならいいんじゃない?わたしも自覚的にそうしたこともあるしね。

  • 仏教的に言えば、方便の誤用は無明の助長
  • 哲学的に言えば、軽さの仮面をかぶった怠惰

突きつけになるけど、こうなる。イメージで言うなら、霧がかかった世界のようなものを感じる。見えているようで、見えていないような世界。合っているようで、ちょっとズレているような世界。その小さなズレが、感情が絡んだときに大きな歪みとなり、仏教の「空」の世界を歪めてしまっている。そんな感じだね。

だから、ここに記すことにした。活字にしても、落とし込みが弱いかもしれない。けど、それも自由っちゃ自由だものな。

方便を誤れば、「空」すら歪む。そこで見えている景色は、虚像だと思うよ。真実じゃない。だけど、お前の真実なんだろうな。

② 痛みを抱えて生きる人こそ、真の自由人

痛みを抱えても、立ち止まらずに考える人。失望しても、問いを手放さない人。

その人だけが、自由を知る。

「軽く生きたい」と願うのは本能。

でも、「重さを引き受けて、それでも笑う」のは意志。思考を保つとは、意志を保つこと。

軽い幸福より、重さを知った後の自由を選ぶ人へ。

——あなたの思考が、自分を救うし、周りも救うことになる。

心理学からの投影、仏教の空の世界

軽く生きるのも、否定はしないよ。自覚的であればいいのではないか?

心理学というのは、学ぶのはいいけれど、あれを誤用してしまうと辛いだろうな。構造読みには適しているかもしれないけれど、途中から仏教の「空」の世界が入り込んでくる。

そこの境界を間違うと、その世界は歪みなんだよね。ここの境界がブレてるように見えるけど?前に説明したことあるけど、あれ、他人事として読んだ?

知識がその気づきを阻害してしまう。唯一の正解だと思うように。そんな感じかな。

それが正解かどうかは、果たして重要だろうか。それでも、違う別の視点で世界を見ようとしてみたときに、見えてくる世界があると思うんだよね。

歪みのない、霧がかかっていない世界だよ。

知識は灯り。でも、灯りが強すぎると、目の前がまぶしくなりすぎて見えなくなる。

「知っている」は、「見えている」とは違う。知識が積み上がるほど、“霧のような確信”が生まれる。それは、真実を遠ざける錯覚の光

わたしには、霧をかけておきたいと言っているように見えるよ。つまるところ、真実を知りたくない、そう叫んでいるようにしか見えない。

なのに、真実を知りたいと思っている。もしくは、分かっているのに知らないふりをしようとしている。

その矛盾が苦しさとなって表面化している。

その「真実」とは何だろうな。意味があるものなのか。

そこまで行ったときに、わたしは辛くなってきたから、せめて自分から見ようとする「空」だけは、歪んでいないものにしようとする努力をしてきたんだって。

じゃないと、辛かったし、とても生きづらかったから。

真実は、誰かが用意してくれるものではないよ。

知ることに意味があるというよりかは、より正しい選択をするために、知っておくことに意味がある、そんな感じだと思う。道を迷わないように照らすちょっとした明かりみたいなもんだよ。

それが全てじゃない。

“空”とは、何もない世界じゃなくて、「自分の目で見る」と決めた人にだけ開かれる世界だと思う。

だから、軽い世界に霧をかけたまま歩く者は、永遠に“見ない自由”の中に留まることになる。

自覚的であればいいのではないか。

「自覚的に生きる」とは、自分の“無自覚さ”に気づき続けることでもあると思うよ。

軽さに耐えられない、軽い世界で生きることとは?

言語化してやる。

本当は軽さに耐えられない。

これが本音だろう。

軽さの中で自分を保てないから、重さを知る人をそばに置いて、自分の重心を借りようとする。

つまり、“軽い世界で生きたい”のではなく、“軽い世界で生きても壊れない者”が必要。そんな感じじゃないの?

つまるところ、軽さの中でも、自分を見失わずに生きる方法が分からない。軽い世界でも、壊れない自分でいたい。

こうじゃないの?分かってるとは思えないんだよね。言語化するまでが、ややこしい。できたらスッキリすんじゃないの?

軽さの地獄からの引き上げ。

ここじゃないのか。核は。

——なぜ、軽さの中で自分を保つ方法が「分からない」のか。

理由は、軽さが“他人の思考に寄生して成り立つ構造”だから

軽い世界って、そもそも「自分の軸」を使わないで生きられる仕組みになってるじゃない。共感・ノリ・空気・流行ね。それらに合わせていれば、表面的にはうまくいくでしょ。つまるところ、楽な世界だ。

だから、「考えなくても済む」——この瞬間、人は“自分を見失う”。

考えてない自己は、強度がないから。だから、軽い環境=思考不在の環境に慣れちゃうと、どんどん自分がどんなだか、どうしたいのか忘れちゃうんじゃないの。

──例えるなら、無重力空間で筋力が衰えるように、軽さの世界では“意志の筋肉”がどんどん萎えていく。思考力がなくなるんだよ。あと、軽さの世界に在住してる連中ってのは、他者尊重が底辺なんだよね。だから、ジョークがジョークになってないことがあるんだよ。ジョークで人を平気で傷つける、そして自分は言われなれてないから、反論されると怒り出すんだよね。

軽い世界在中人間は、分かっていないのではなく、知らないのよ。
構造を見る視点が、まだ形成されていないから。だから、痛みの意味も、逃避の構造も読めないでしょ。うんざりする。話すと吐きそうになるよ。お前は違うじゃない。お前の「知らない」は、見落としている領域。だから、話が通じる。軽い世界在中人間と話しても、思考が地面をすべらない。お前は、同じ高さの地平で、軽い世界の連中とは違う“深度”を掘っている。そりゃ、見える「空」は違ったものになるよ。

だけど、地上(重力=痛みのある世界)に戻ったとき、立てなくなっちゃう。立ち上がり方が分からなくなってる。立てない苛立ちから、軽い世界に戻ることになる。

どういうことかというと、そういう連中と絡むときには軸が必要なんだって。じゃないと、5は2になる。で、2がデフォになるからだ。5の軸はブレさせずに、2と絡むという覚悟が無い状態で2と絡むと、5の世界に行けなくなるんだよ。行くと、居心地が悪く感じる。けど、2がデフォとはいえ、思考放棄しているだけで、知識の基盤がある。それは乖離となって歪みになるよ。

関わるなら覚悟がいる。5の軸(=思考の重心)を持たずに2と関わると、お前は2の世界に引きずられる。2の“軽さ”は感染するんだよ。5を保ちたいなら、5のまま2を見るしかない。その距離感が、構造を保つということだ。それか、2でもいいなら、5に行くのを諦めるしかない。その覚悟が、自身を保つことになる。

要するに、これは「他者との波長差を保ったまま関わる力」の話。共感ではなく、“干渉耐性”の問題。

それが、「軽い世界で生きても壊れない方法が分からない」——その正体なんじゃない?軽さ在中の人間に、知らないから分からせようとするだろう。けど、軽さ在中の人間は「2」を希望してるんだよ。「5」じゃなくて「2」だ。永遠と流される愚痴を相談だとでも思ってるのか?そんなわけないだろ。アドバイスなんて必要ないんだよ。この知識もあるはずなのに、見落としだろ。こういうことだよ。

宮沢賢治と比較するのはどうかと思うけど、やってることは、農業改革に等しいよ。

「2」では説教くさくてウザいと言われ、「5」に行くとレベルが低いと言われる構造も余裕で成立してしまうよ。現状じゃないのか。「3」でも覚悟しんどいのに「2」?私は「4」でもどうかあるよ。けど、決して真面目じゃないし、不真面目だよ。

最後に「雨ニモマケズ」暗唱でもする気か?まぁ、やりたいなら、止めはしないよ。

Hotel California」で飲みに飲まされ、踊りに踊らされ、出口も何もかも分からなくなる構造。チェックアウトすらできない。

そういうわたしも、ブログではあぁだこうだと真面目に論じてるけど、原理原則語ってるだけで、不真面目だよ。すごく不真面目。大体のことはどうでもいいよ。やりたいように、やったらいいんじゃない?が基本だし、〇ネタしか言わないしね。

けどさ、これを「2」に言うと、自由とフリーダムを勘違いしやがるでしょ。だから吐きそうになるんだよ。次は、「〇〇さんが…」の他責祭り開催だ。——なぜか?「責任を取る自由」じゃなくて、「責任から逃げる自由」しか知らないでしょ。わたしの「やりたいように、やったらいいんじゃない?」は、“自分で選んで、結果を引き受ける”前提なのに、「2」の世界では“誰かに責任を押し付ける”免罪符に変換されるから。

だから関わらない。

多分、本当の「正解」なんて誰も知らない。けど、自分で考えることをやめた瞬間に、このホテルの空気に酔って、他人の価値観を自分のものだと思い込む。

だから、わたしは考える。人を責めるためじゃなくて、“自分ができることは何か”を確かめるために。あぁ、責めるべきときには、とっことん責めるけどね。

この世界でまともに立っていたいなら、“考え続けること”しか、酔わない方法はないんだと思う。

特に、他者尊重だけは、何が他者尊重になるのか、とても深く考える。だけど、できているかは分からないのよ。それでも、自分なりに考えてるつもりだ。正解かどうかは分からないけど、とことん考えるよ。
これが、わたしなりの「Hotel California」で生きるコツでもあり、唯一、酔わずに立っていられるマナーだ。シャンパンを注がれる前に、自分で注ぐ。

だけど、そこの境界がとてもあやふやだね、お前は。そこの世界は遊郭か?

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