小学4年生の国語教科書に載っている『友情のかべ新聞』。
この物語の本質は、「他者を知ることは、自分という輪郭を広げる行為になる」という気づきにあると思う。
自分とはまったく感性の異なる相手に出会うと、人は本能的に「自分が否定された」と感じてしまうことがある。自身のアイデンティティが揺らぐんですよね。
けれど、相手の世界を知ることで、「自分と違う世界にも、新鮮な驚きや面白さがある」ことに気づいていく。
つまり、この物語は、他者との出会いによって“自分の世界が大きくなっていく”ことを描いている。
そのキッカケを学ぶのが、「ボク目線」か「東くん・西くん目線」かということじゃないかと思う。
これこそが、『友情のかべ新聞』の本質だと私は思ってるんだけど、他校の指導案を覗いてみると、
「ミステリーとして解き明かす初めての物語です。」
「登場人物の人格想像をしてみよう(風物詩)。」
だけど、教科書全体の構造を見ていくと、『友情のかべ新聞』を“推理物語”だけとして扱うのは、どうにも違和感があるでしょ。
だって、国語の教科書には、明確な流れもあるはずで、
『白いぼうし』で松井さんから見た複数の世界を感じ、『ごんぎつね』で思いが伝わらないもどかしさを知り、その上で『友情のかべ新聞』では、“違う世界を受け入れることの意味”を描いてるんだと思うんですよ。

何、ミステリーとか言ってんの?お前の方がミステリーだし、教科書自体がミステリーだよ。そして教育もミステリーだよ。
人生もミステリーになるよな。ややこしいことに、作者はミステリー作家だよ。けど、これは国語だから、そこに付随する「相互理解・自己拡張」を加えた指導が必要じゃないかと思う。
今回は、その流れをふまえて、『友情のかべ新聞』に隠された二つの視点――「ボク」から読むか、「東くんと西くん」から読むか、この違いをもとに授業の構造を整理してみようと思う。
教科書全体の構造から見た『友情のかべ新聞』の位置づけ


小学校四年生の国語教科書を「一冊の物語」として眺めてみると、それぞれの作品が人や世界をどう理解していくかという一つの軸でつながっていることに気づきません?



わたしだけ?勘違いでもないでしょ?
子どもたちが、世界をどう見て、どう描くのか。どう行動すればよいか?他者を拒絶するのではなくて、相手の世界を知ることで、広がる自分の世界があることを知る。
違うの?
- 『白いぼうし』で、多様な世界の存在を知る
- 『ごんぎつね』で、思いが伝わらないもどかしさを学ぶ
- 『友情のかべ新聞』で、相手を通して自分の輪郭が広がる
- 教科書構成が示すこと
① 『白いぼうし』で、多様な世界の存在を知る
他者の視点に気づく第一歩。「自分の見方以外もある」ことへの発見。
最初に登場する『白いぼうし』では、松井さんを通して見える世界を問うはずなんですよ。色々な世界があった。
読者は「白いぼうしの女の子は誰だったのか?」というミステリーに惹かれながら、松井さんから見た世界を創造する物語。それは幻想だったのか、真実だったのか?
視点を変えることで、見える世界がまるで違う。そのことを知ることが出来る物語だと思う。


② 『ごんぎつね』で、思いが伝わらないもどかしさを学ぶ
他者とのすれ違い・共感の限界を体験し、心の深層を考える段階。
次に学ぶ『ごんぎつね』では、「伝わらないもどかしさ」が描かれてる。ごんの“いたずら心”と“孤独”の間にある葛藤、兵十の“誤解”。
ここでは、「ごんは話せたのか?」という問いから、「伝えることの大切さ」、「伝える手段の大切さ」を学び、伝わらないことで生まれる「悲しい誤解」から、他者理解の難しさを痛みとして学ぶことができる。


③ 『友情のかべ新聞』で、相手を通して自分の輪郭が広がる
相互理解と自己拡張。違いの受容が“友情”へ変化する。他者を読み解くことが、相手を理解することに繋がる。
最初は「分かり合えない」と感じていた相手の中に、自分と違う“考え方の世界”があることを知る。その瞬間、
「他者を知ることは、自分という輪郭を広げる行為になる」
という気づきが生まれる。
明確にこんな気づきでなくても、自分と全く違う他者を見ても、ここを学んでいれば、排除にならないと思うんですよね。
「他者理解」が「自己拡張」に転じる物語。
④ 教科書構成が示すこと
『白いぼうし』では松井さん個人を通して見える複数の世界を知り、
『ごんぎつね』では他者との“距離”を知り、
『友情のかべ新聞』では他者を通して“自分を見つめ直す”。
この三部構成は、まるで一人の子どもが「世界を知り、他者を知り、自分を知る」までの道のりを描いているように思える。
つまり、『友情のかべ新聞』は四年生国語における他者理解の完成形。



ちがうって、悪いことじゃない。
事件を問うことで、相手を理解することができる。
相手を通して、自分の世界が広がる。
| 単元 | 主題構造 | 学びの焦点 | 心の発達段階 |
|---|---|---|---|
| 『白いぼうし』 | 見る角度を変えると世界が変わる | 多様な世界の存在 | 他者視点の芽生え |
| 『ごんぎつね』 | 伝わらない思い・誤解 | 感情の共有とすれ違い | 他者理解の模索 |
| 『友情のかべ新聞』 | 相手の世界を知り、自分の輪郭が広がる | 相互理解・自己拡張 | 他者理解の成熟 |
だと、わたしは思うんだけど、他校の指導案を見ていると、『友情のかべ新聞』をミステリー風に扱う授業もある。
だけど、教科書全体を構造的に見ていくと、この作品は明らかに「相互理解」や「自己拡張」をテーマに設計されていると思う。
その軸に立つとき、東くん・西くんの関係だけでなく、「ボク」という第三者の視点にも重要な意味があることが見えてくる。
東くんと西くんは、物語の“当事者”として、実際に衝突や誤解、そして和解を通して成長していく。一方、「ボク」はその出来事を外側から見つめ、他者の変化を“観察”する立場にある。
つまり、「ボク」は直接的な体験ではなく、他者の物語を通して自分を拡張していく存在。
この構造は、非常に興味深い構造で、なぜなら、「ボク」の立場こそ、読者である子どもたち自身だから。彼は、他者の関係を見て気づく者で、それは読者が他人の物語を読むことで“自分を広げる”という学びのモデルにもなってるでしょ?
『友情のかべ新聞』は単なる“友情物語”ではなくて、当事者(東くん・西くん)による体験的学びと、その外側にいる観察者(ボク)による洞察的学びが交錯する、二重構造の物語として読むことができる物語。



ペラーーーっとした内容に見えるけど、結構深い、そしてこの「ボク」の観察眼の鋭いことよ。よく、プリンやほうきの取り合いを見て、「それ自体が欲しいんじゃなくて、相手に取られるのがいやなだけだ」と気づくよね。普通の洞察力を超えてるんだよね。ここは、絶対に取り扱わないといけないところだと思うわ。
どこがすごいかって、人間の欲や感情の裏側を見抜いてる。小学四年生の描写としては異常なほど深い。普通はそこまで読めない。そのことに気づけてるのかな?
ボーーーーーっと読んでると平気でこの重要部分をスルーするんだよね。抜いて教えないといけないところだと思う。けど、大半抜けないし、意味が分からないかもね。
そして、一生こうなる。



プリンがそんなに欲しいなら、平等にジャンケンして決めましょう。
問題解決で終わらせた瞬間に、思考は止まるよ。



こんなもんだろ。ボクを見習え。
表層(行動)は、プリンやほうきの取り合いだよ、 一見「公平性」や「正義」の問題に見えるだろ。
けど中身は全然違うんだよ。中層(感情)は、「相手に取られたくない」「自分が認められたい」っていう優劣意識と比較感情がある。
そして深層(構造)は、「自分とは異なる世界を持つ他者」に対して生じる存在的不安。自我が揺らぐ怖さ。「自分が知らない世界を持ってる相手」に負ける=自己否定への恐れ。
そこには「なぜ争いが起きたのか」「負けたくないって何か?」という人間の根源的な問いがあるのに、それを見ないまま処理してしまう、状況読みゼロ教員、略してJKが仰山いるでしょ?
10,000回くらい同じ行為しないといけないだろうなと思って傍観・傍聴してるけどね。
『友情のかべ新聞』を構造読みしてみる


まず、物語の素材をざっと抜き出してみる。
【素材の抜出】
- 趣味も好きな色も何もかもが違う、東くんと西くん。
- 人を観察するのが好きで、観察眼の鋭い「ボク」。
- 事件のきっかけになる“かべ新聞”。
- 「ボク」による、かべ新聞の“推理”。
- 最後に描かれる、東くん・西くんの“和解”。
大まかに見ると、この5つの要素で構成。ぱっと読むとシンプル。
ここで、気になるのが、国語の教科書の構造。『白いぼうし』から『ごんぎつね』の流れを見るに、恐らく他者の世界を知り仲良くなる話としてこの物語が使われている可能性。
そのうえで、この物語には二つの異なる視点が存在してることに気づく。
- ひとつは、東くんと西くんのように、事件の“内側”に立って他者を理解していく当事者的視点。
- もうひとつは、「ボク」のように、事件の“外側”から他者を観察しながら理解していく第三者的視点。
前者は体験的な理解、後者は洞察的な理解。
この二つのレイヤーが重なり合っていることが、この本の授業を設計するうえでの最大のポイントだと感じる。



こう読み解く。
だけど、調べてみると、この作者自身(はやみね かおる)がミステリー専門の作家であることがわかる。
となると、『友情のかべ新聞』がミステリー構成をもっているのは当然で、「ボク」の視点が主軸に置かれている可能性は高い。
ただ、ここで注意したいのは、「ミステリー=解くことに意味がある」と誤解してはいけないという点かと思う。この物語こそ、子どもの構造読解を深める物語。相互理解・自己拡張の流れを含めて教科書が制作されていると思うから。
本来の“解く”とは、構造読解と同じ。
状況から事実だけを抜き出し、関係性を整理し、人物の心情に照らして再構成していく行為。つまりそれは、他者理解のための思考訓練。
にもかかわらず、現場では「謎を解いたかどうか」で終わらせてしまう。それでは、学びが「推理ゲーム」にすり替わってしまう。
このブログでは、作者がミステリー専門であることはいったん脇に置き、“どう教えるか”という教育設計の観点から、この作品をかみ砕いてみようと思う。
『友情のかべ新聞』の課題は、誰の視点で読むかで変わる


同じ教材でも、「どこを課題にするか」で授業の意味はまったく変わる。『友情のかべ新聞』は特にその典型で、「ボク」を中心に読むか、東くんと西くんを中心に読むかによって、授業の内容そのものが変わる教材だと思う。
個人的には両方の視点で楽しめる物語であるとは思う。
- 「ボク」主体で読む場合:洞察と推理の物語
- 「東くん・西くん」主体で読む場合:体験による、相互理解・自己拡張
① 「ボク」主体で読む場合:洞察と推理による、相互理解・自己拡張
→ 語り手の「ボク」が、他者の心を推理する過程を課題とする読み方
→ 授業の焦点は「気づき」「心情理解」「人間観察」に置かれる
→ 学びの型:思考の深化(内省・観察・考える力)による、相互理解・自己拡張
この読み方では、「ボク」は東くんと西くんの出来事を外側から観察し、二人の動きを推理的に読み解く存在として描かれる。自分自身の体験ではない他者の出来事を、思考によって洞察しようとするその姿勢こそが、“他者を理解する思考”を育てる入口となる。
「ボク」は共感ではなく、観察と推理を通して人間の関係性を考えている。その視点から子どもたちは、「他者を理解するとはどういうことか」を思索し、自分の世界を広げていくきっかけを得ることができる。
授業の中では、
- 「ボクはどんなことに気づいたのか」
- 「どうしてそう思ったのか」
といった問いが中心になるだろうと思う。
子どもたちは物語の中の出来事を観察して、構造を読み、そこから構造を組み立て、人を理解していく力を伸ばしていく。
つまり、
目の前の出来事を丁寧に観察し、抜いた構造(事実)から見えない気持ちを考える。「読み取る力」や「洞察する力」で自身の思考を育てながら、他者理解をしていく授業。
子どもは観察者としての学び”が中心。
② 「東くん・西くん」主体で読む場合:体験による、相互理解・自己拡張
→ 対立する二人が互いを理解し、関係を修復していく過程を課題とする読み方
→ 授業の焦点は「違いを受け入れる」「相手を通して自分を知る」に置かれる
→ 学びの型:共感・対話・自己形成による、相互理解・自己拡張
「東くんと西くん」を中心に読むと、物語の焦点が変わり、「どちらが悪いか」ではなく、自分と違う他者を知ることで、広がる世界があることを学ぶことができる。
授業の場では、
- 「もし自分が東くん・西くんなら、どう思っただろう」
といった体験的な読みが展開。
このとき子どもたちは、「相手の世界を知ることで、自分の考えも変わることがある」という感覚を得ることができる。
他者との違いを受け入れることで、自分の輪郭が広がるという成長が起こる。
- 「ボク」主体で読めば、洞察と推理による、相互理解・自己拡張
- 「東・西」主体で読めば、体験による、相互理解・自己拡張



どちらも成立するから、ペラーっとしているけれど『友情のかべ新聞』は奥行きのある教材とも言える。読解ムズイけどね。
これも教える側の技量が問われる教材だと思う。まーた教科書製作者が飛び出してきそうな案件。



諸君!!気づいたかな!?



お前のせいかどうか知らないけど、ほとんどミステリーになってるよ。
どんどん無言なるよ。題材はいいんだよね。となると、教科書製作者、お前が内容を分かってない可能性高いよ。教科書見て言ってんだよ。
つまるところ、お前がミステリーだろ。
だってさ、
「ぼく」のすいりについて、あなたはどう思いますか?「東くん」と「西くん」は、本当に仲良くなったのでしょうか。
関係の再構築に向かう“思考の軸”が立たない。



なんだよ、この問いは。
しかも、
書かれていることのつながりを見つけながら読み、おもしろいと思ったところについて話し合おう。
・物語のおもしろさを見つけることを通して、読書に親しむ
・場面と場面を結びつけながら、登場人物の変化や行動の理由を考える



分かってるとは思えないんだよね。目標もいいわ、否定はしないって。けど、一緒に迷子になる方もどうかと思う。まぁ、問わない学習が続いたものが教える立場になると、そうなるのも必然といえば必然だけどね。だけど、ここまで来ると「諦観の慈悲」もどうだろうね。いい加減にしろよって言いたくなるよ。一話だけかと思ったら、全部崩壊。構造どころか、物語すら読めてない現状がすごくない?だとしたらよ、目標掲げてるけど、そこすら達成はできないって。東くんと西くんが本当に仲良くなったのか?問う意味が分からないしね。
『友情のかべ新聞』の本質は、「なぜ分かり合えなかったのか」「何を通して理解が生まれたのか」という関係の構造そのものを問う物語だと思う。そここそがミステリー。
つまり、焦点は「関係をどう築くか」だけではなく、「関係をどう見るか」にある。表層的な出来事や感情をなぞるのではなくて、相手を理解するとはどういうことか?そのプロセスを、子ども自身が内側から問い直す教材じゃなくて?
だからこそ、この焦点を外した瞬間、授業は“学びの崩壊”に転じる。
物語の読み取り以前に、「人をどう見るか」「自分と他者の関係をどう扱うか」という根幹の思考が抜け落ちるから。
“読む力を失った大人たち”の方が試されてるんじゃないの?
誰か正確に読めてる人、いるー?
視点のちがいが生む、授業展開のちがい


ただし、「ミステリーとして読む」こと自体は問題ではないのよ。問題は、ミステリーの“題材”をどこに置くか。
もし「謎を解くこと」そのものを目的にしてしまえば、この物語が持つ“他者理解・自己拡張”という本質的テーマは崩壊。
けれど、「なぜ人はすれ違うのか」「どうして誤解は生まれるのか」という“心のミステリー”に焦点を当てるなら、そこには確かに深い学びがある。
つまり、ミステリーに焦点を当てるにしても、学ぶ題材は「相互理解」と「自己拡張」でなければならなくて、「ボク」が感じた違和感も、「東くんと西くん」のすれ違いも、本来は“人の心という謎”を通して、子どもが自分の世界を広げていくための装置として存在していると思う。
- 「ボク」中心で扱う授業の展開例
- 「東・西」中心で扱う授業の展開例
① 「ボク」中心で扱う授業の展開例
- 「ボク」の視点を通して、状況を読む力・思考の筋道を言語化する力を育てる。
- 単なる「心情理解」ではなく、観察・推論・洞察の訓練を目的とする。
授業展開の流れを想像してみる…
- 推理する活動:「どうしてそう思ったのか」「ボクは何に気づいたのか」を考える。
- ノート: 洞察的な文(気づきの記述)を抜き出す。心情の根拠を文中から探す。
- 思考マップ: 「ボクの気づき」→「根拠となる描写」→「自分の考え」
- 評価観点: 読解の精度、内面の推測力、 表現の論理性からの相互理解・自己拡張の深まり
「ボク」視点で読む授業は、状況を読む授業=洞察型の学び。
子どもは「感情を感じる」ではなく、「状況を分析する」ことで、他者理解のプロセスを外側から観察し、内側で再体験。
「ボク」が東くんと西くんの関係を外から観察し、気づきを得る。子どもはその観察を読みながら、自分の現実(友人関係など)を内側で再体験する。そこを通じて「他者理解」が「自己理解」へと転化。
- ミステリー構造を「謎解きゲーム」で終わらせない。
- 謎を通して思考を可視化することが学びの目的。
- 「事実を拾い、矛盾を整え、筋道を立てる」ことで、論理的・観察的思考を育てる。



わたしの普段の洞察と同じ。難易度で言ったら、レベル10の内、100。そんくらいの難しさを感じる。言うだけじゃなくて、子どもの発表を聞きながら、精査して行かないといけないから。
あ、ごめんなさい、わたしには容易です。精査ね。
② 「東くん・西くん」中心で扱う授業の展開例
物語を体験的に再構築し、価値観のちがいを通して、「他者理解」や「関係の質」について考える。「ちがう」を出発点にする相互理解型の学び。
授業展開の流れを想像してみる…
- ロールプレイ・対話活動:相手の立場になって話してみよう
- ノート:東くん・西くんは、ちがう世界を知ってどう変わったか
- 評価観点: 両者の変化の読み取りからの相互理解・自己拡張の深まり
「東くん・西くん」中心の授業は、相互理解型の学び。子どもたちはロールプレイや対話を通じて、相手の気持ちを想像することを自然に体感できるはず。
知らなかった世界を知るおもしろさが、友情の始まり=世界の広がりとして感じられる構造。
- 他者の視点を借りることで、ちがう世界を体験する。
- 価値観のちがいを、対立ではなく出発点として考える。
- 関係を通じて自分を再発見し、柔軟なアイデンティティを形成していく。
この授業では、「共感」や「つながる力」をどう育てるかが核。子どもが「他者の世界」に触れることで、自己理解も深まるという相互作用的な学びになるはず。



物語を解体しているけど、ボク視点から学び、東くん・西くん視点も含む授業が理想なんだと思う。骨組みはそりゃ大変だろうと思うけど。
ミステリー要素を残しながら、課題から逸れずに、3者視点で授業展開をする技量が求められる。3者から見えている世界を想像することに、意味があるのかもしれない。一番冷静で、感情的でない「ボク」の目線の大切さよね。
課題設定は、授業の哲学を問う行為でもある


最終的に、『友情のかべ新聞』の授業で問われているのは、単なる「読解の方法」ではなくて、それは、教える側が、子どもにどんな成長を願うか、という哲学的な選択でもあるのかもしれない。
どちらかひとつを教えるなら、だけど。
学ぶ内容はどちらも「相互理解」と「自己拡張」ではあるけれど、教え方によって、
「他人の心を考えられる人に育てたいのか」
「違う価値観を受け入れられる人に育てたいのか」
いずれにしても、「軸」は必要なことには間違いはない。この軸がないと、謎解きゲームで終わる。
教育の根幹に関わる問いが生まれると思う。『友情のかべ新聞』は、読む者の教育観を映す鏡でもあるかもしれない。
その軸をどうするか?という問いは、国語の教科書の作られ方(構造)を意識してないといけないんじゃないかな。



そこによ、作者の意図を伝えたいと思うのなら前者(ボク視点)の授業でないといけない、国語の教科書の流れを想定するに相互理解、自己拡張は必須。となると、めちゃくちゃ技量を問われる授業(10段階の内、レベル100)を選択せざるを得ないという回答は出るよね。
「ボク」の洞察力を持てば、国語の教科書の構造にも気づけると思うんだよね。でも現場は、“問わない”から気づかない。
子どもに「点」だけを集めさせて、積み木ばかり増やして満足してる。将来、その積み木は使い物にならない。なぜなら、“線”でつなぐ力——つまり、意味構造を読み取る力が育っていないから。
「点」で読む子は、意味はつかめない。「線」で読む子は、問いを持ち、構造を見抜く。
あなたはどっち?
「点思考」で世の中を渡っていくのは大変だよ。大人になってから、現実にボコボコにされて気づくタイプ?まあ、それもひとつの学び方ではあるけれど。
ここで重要なのはね、この段階(小学4年生)で、このレベルの構造理解が教材として置かれているということ。つまり、「理解できて当然」とされている。
もしかしたら「小学4年生が到達しうる最高水準の思考」として設定してるのかもしれない。でも、それすらわからない。分からなくてもいい、けれど知識として埋め込んでおけば、将来生かせるという想定はあるだろう。けど、教えられる者がいなければ「国語=ゴミ」になる。当然の話だ。



小4には無理だよ。



もう一度言うが、小学4年生に求められているのは「点思考」じゃなくて、「線思考レベル」なんだよ。物語を線で読む力、構造で見る力。
対象が大人であれば「分からない」=「論外」って教科書から言われていることに気づけ「点思考JK」が。お前みたいなのが、プリンでジャンケン対決するんだろうな。10,000回くらい同じ注意して「今どきの保護者は、子どもは!」って怒る定跡だろう。これが「線思考」って言うんだよ。レベルで表せば「0.1」だよ。無理にしてるのはお前だろう。教えるときの注意点も分からないんだろうな。ちなみに、今どきの保護者ですけど何か?
このレベルが分からない大人がいるという時点で、その大人の思考が子どもに抜かれているということなんだよ。知識ではなく、“思考の深度”でね。
問いを持てる子どもの方が、構造を読む力を持っている。それを潰しているのは、ほかでもない教育の構造そのものだ。で、ニュースになるのよ、説明できないから。



お葬式で死体を煮るとは何ごとだ!ゲームの影響だ!



お前が何ごとだよ。
つまり、教育が守っているのは「子どもの未来」ではなく、「大人の安心」だろう。賢くなっても困るものね。叱れなくなるから。教えない選択しかできないものな。
けど、思ってるより子どもは賢いよ。先生の挨拶とかでも思うけどさ。子どもだと思いすぎなんじゃないの?わたしもそうだったもの。朝礼台に立って子どもに向かって色々説明してる校長先生みてさ、悪いけど、



そんなんで子どもが騙されると思うな。いくつだと思ってんだ。〇カにしてんじゃねーよ。
って思ってたもんね。まぁ、12歳なんだけどね。話の内容も覚えてるのもあるよ。くだらなすぎて。



見たいテレビ番組があるんですが、先生も諦めて9時には寝るんですよ。だから、皆さんもテレビを遅くまで観ずに早く寝ましょう!



みたいなヤツだったわ。くっだらない。こっちがお前に合わせて生活する意図は何?今の時代、もっと賢いと思うよ。低学年でも高学年でも通用するようなお話できないのかと思うわ。
そして運動会で仮想パーティーとかしてんだよ。アラブ人とかピカチュウ、レンジャー。どっちが生徒なんだよ。蛍光の靴下とか靴でしか見分けを付けられない保護者もいるだろうに(うちはしてない)、全身黄色で蛍光塗料のピカチュウが現れるわけよ。邪魔でしょうがねーよ。
あと悪いけど、ごめんだけどさ、あの開始の先生たちの円陣(ミステリーサークル)ね。毎年思うヤツ。



あれ何?競技に出るわけでもないのに。
各団の子どもがするなら、各団の子どもたちとするなら、分かるよ。
あれ何の気合なの。正直に言いますけど、保護者の一人として引いてますよ。どこでどこに気合い入れてんのか知りませんけど。
そっからの仮装だから、ご自身たちがどういう風に映っているのか、一度想像してみたらいいかもしれませんよね。
授業はミステリー、仮装してミステリーサークル。そして無意識層の投影による子どもへの注意でミステリー。
さぁ、俯瞰して見てみてください。
一度。ご自身たちの姿を。
どんな風に映るのかを。
違ったパラダイムがーーーー見えましたか?


そういう人ばっかじゃないけどさ。



子どもの方が冷静だよ。なかなか気づかないみたいだから、赤字にしとくわ。あぁ、わたし、嫌味世界一なの。知ってるか。
そういう私もチャラチャラしてるけどね。あれは武装だし。仕事でもねーし。
まとめは?
この物語は、一見ペラーっとしているけれど、実は教える側の技量が問われる教材。
つまり、「感想文が書きにくい物語」でもある。



何度も言うけど、わたしにとっては簡単です。感想文ね。
だけど、読み解けば読み解くほど、問われていることが多い。そして、それがすべて“人をどう見ているか”に直結してる。
だからこそ、この作品を「ミステリー」としてだけ扱うのは危うい。ミステリーで読ませるにしても、どんな「軸」で学ばせるかを意識しないと、物語はただの謎解きで終わってしまう。
「軸」のない学びは、バラバラに積まれた積み木のようなもの。素材(内容)はあっても、構造が見えなければ活かされない。さらに恐ろしいのは、積み木どころか素材すら残らないという教育の崩壊。
ミステリー形式を用いながらもその問いが曖昧だと、「謎を解いた/解かなかった」で終わって、子どもたちの学びは浅くなるでしょ。
そしてその崩壊は、子どもたちの「思考」へと波及する。
思考は人格を形づくる。だから、軸を失った授業は、人格形成そのものを歪める危険がある。
『友情のかべ新聞』を通して、「おもしろかったところ」や「東くんと西くんは仲良くなれたと思いますか?」
――そんな問いだけで終わる授業があるとしたら、わたし流で言えば、それは事件。



なぜなら、この物語が本当に問うているのは、「人はどうやって他者を理解し、自分を広げていくのか」という根本的な構造だと思うから。
物語がぺラいから、そんな重要じゃないと思いがちなのは、読解力がない大人だって。だけど、こうも思う。
よく分からない、何が言いたいか分からない物語にこそ、重要なものが詰まっている可能性ね。



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