わたしは娘に「通知表はゴミよ。」と伝えた。
ごめんなさいね。
子どもを守る手段なのよ。
小学校1年生の参観日の出来事を今でも忘れられないでいる。
絶対評価音痴テストの成績が良くても、わたしが、この子はもっと頑張れると思えば「2」にします。
普段のテストの成績が悪くても、わたしが努力していると見れば「3」です。
絶対評価になっています。
「◎」「○」「△」「×」そっちだったかもしれない。
そっちかな。
けど、ニュアンスに変わりはないから、「1」「2」「3」で記事に書きます。
そう言い放った先生を前に、私は言葉を失う。



“絶対評価”調べろ。
絶対評価とは、他者との比較ではなく、あらかじめ設定された基準に照らして判断する仕組みじゃないのか。
先生は言い切っていた。



その基準は数値ではなく「わたしの主観」です。
それが絶対評価制度です。
どういう通知表だ。
それはもはや制度の破綻。
こうした誤用が続けば、子どもたちは
「努力しても報われない」
「人に気に入られないと意味がない」
と学んでしまう。
この構図よな。
そんな教育で、何を育てるつもりなのか。
私は親として、教育者の発言は言動は、“点”ではなく“線”を見ていく。
今回で言えば「絶対評価」の意味を誤読している状況=おそらく生徒を理解できない。
こういう図が、わたしの中で成り立つ。
教える側が誤った基準を掲げるなら、親が子どもの本当の成長を守らなければならない。
このブログでは、わたしの教育観と同時に「絶対評価」を間違う人の人生も線思考で読み解いていこうと思います。
絶対評価とは本来何か


- 他者比較をしない、到達基準に基づく評価
- 絶対評価「学習目標をどの程度達成したか」
- 努力や主観を持ち込むことの危険性
① 他者比較をしない、到達基準に基づく評価
「絶対評価」とは、あらかじめ設定された学習到達基準に照らして、生徒がその水準に到達しているかを判断する仕組みでしょ。
文科省サイト「絶対評価について」
絶対評価の主な特徴
他者比較がない: 評価対象者同士を比較するのではなく、あらかじめ設定された基準に照らして評価します。個人の目標達成度が重要: 設定された目標(例:ノルマ、資格取得など)をクリアしているかどうかが評価に直結します。
公平性が高い: 基準が明確であれば、評価者の主観が入り込む余地が少なく、公平な評価につながりやすいとされます。
個人の成長が促される: 自分の頑張りが直接評価に結びつくため、個人のモチベーション向上や主体的な取り組みを促す効果があります。
そこに“他者との比較”は存在しない。
隣の子が何点を取ろうと、関係がない。
基準に到達していれば「3」、まだ届いていなければ「2」「1」、というように、純粋に「できているかどうか」を評価するものだろう。
つまり、評価の軸は“他者”ではなく“個人”にある。
生徒が他人より優れているかではなく、自分の学習目標をどれだけ達成できたかが問われる。
その仕組みは、本来「公平性」と「透明性」を保つために導入されたはず。
しかし、現場ではその理念が完全にすり替わっている。
教える側が
「努力を評価する」
「その子なりに頑張った」
といった主観を持ち込みはじめた瞬間、絶対評価は絶対ではなくなるでしょ。
本来は「基準」と「生徒」の関係(=絶対評価)であるべきところを、「教員の感覚」と「生徒の印象」の関係(=相対評価)にしてしまっている。



レベル1くらいの理解度があれば、容易に気が付くところだと思う。
② 絶対評価「学習目標をどの程度達成したか」
絶対評価は、あらかじめ定めた観点・規準に照らし、到達状況を評価する仕組みでしょ。
だから、テストで常に100点を取っているなら、少なくともそのテストが測っている範囲(主として知識・技能)については「到達」の根拠が成立するじゃない。
それでも評定を下げるというなら、どの観点(知識・技能/思考・判断・表現/主体的に学習に取り組む態度)の、どの規準が未到達で、どの証拠でそう判断したのかを説明できなければ制度ではないでしょ。
「もっと深く」「伸びしろ」「なんとなく」「発言回数」とかは、規準にも証拠にもならないじゃない。
努力や姿勢を伝えたいなら、評定に混ぜるのではなく所見等で言語化してくれないとね。
つまり、100点という到達の証拠がある領域を「理解できていない」として下げるのなら、反証の根拠が必要なのよ。
もしそれでも教員が、
「もっと深く理解してほしい」
「考え方が浅い」
「100点だけど、まだ伸びしろがある」
「授業態度に問題あり」
「なんとなく」
「発言回数が少ない(内容じゃなくて回数???)」
「ノート取れてないかも」
「取り組み方がなんとなくダメ」
といった理由で評価を下げるのなら、それはもはや「到達度」ではなく“印象”の評価でしょ。



この子はできるけど、余裕があるから3にはしない。
もっと努力できる。
この子は頑張ってるから、2だけど3にしてあげよう。
これらはどちらも絶対評価の理念に反しない?
「教員がどう感じたか」が混入しているから。
絶対評価は、教員がどう思うかではなくて、基準をどれだけ達成したかでしょ。
そこに“伸びしろ”や“態度”を持ち込むのは、別の評価項目よ(行動・意欲・関心など)。
「100点でも先生が理解できていないと思えば下がる」
=それはもはや絶対評価ではなく、教員の主観評価。
こうなるよね。
③ 努力や主観を持ち込むことの危険性
「努力を見てあげたい」という気持ちは理解できる。
けれど、それは“評価”とは別の話でしょ。
授業態度や頑張りは、通知表の右側にある“所見”で書けばいい。
「1」~「3」という数値の中にまで主観を入れた瞬間、それはもう“感情の採点”になる。
教員が「努力している子を3にする」と言えば一見優しそうに聞こえるけど、実際は「教員に気に入られる努力をしないと評価されない」構造を生み出す。
恐らくこの構造に気が付いていないのだろうと思った。
裏を返せば、その教員はこう考えている可能性がある。



わたしは成績だけで評価しないのだ。
本人の努力をちゃんと見る教員なのだ。やさしいのだ。
成績が悪くても差別しないのだ。安心してほしいのだ。



全くそう、思わないのだ。
賢いのだ。警戒しかないのだ。
なんなら引っ込めなのだ。
そこからの人生への派生を見たら、色々想像がついてくる。
致命傷だ。
しかも、「もっと頑張れそうだから2」という判断は、もはや教育ではなく“支配”に近いもんね。



自身の子どもさんとの関係も支配型かな?
これが線思考。
となると、生徒も支配するという構図が成り立つ。
思った通りの構図成立だったよ。
教育の目的は、教える側が子どもをコントロールすることではなくて、子ども自身が「自分の成長を測れる力」を育てることのはず。
参観日で感じた“教育者の誤解”


- 教える側が制度を誤読することで失われる信頼
- 親としての呆れと諦め
① 教える側が制度を誤読することで失われる信頼
教える側の立場にある人間が、制度の根本を理解していない。
この一点だけで、教育への信頼は、一瞬で大きく揺らぐ。
わたしはね。
もし“絶対評価”を知らないまま運用しているのなら、それはもはや評価ではなく“感想”だから。
だから、わたしは子どもにこう言ってた。



通知表はゴミだ。
気にするな。
教育者として知識を持たずに採点しているということになる。
制度の理解すら曖昧な人間が、生徒を正しく見られるはずがない。
これも線思考。
そして、誤った評価は親や子どもを巻き込んでいく。
巻き込まれなんて勘弁。
「先生に気に入られないと成績が下がる」
「親が学校に逆らうと子どもが損をする」
知ったことではないが、そんな不健全な構図が静かに広がっていく。
② 親としての呆れと諦め
私はその瞬間、



この学校はこの程度ね。
こう思った。ひとりの先生のこういった言動が、学校全体の程度と見えるのは致し方ない構造かもしれない。
わたし自身、絶望だったもんね。
何この教員、というより、何この学校。
こうだったから。
そして、小学1年生だった子どもを前に、こう伝えたんだもの。



通知表なんて気にしなくていいよ。
あなたの良さも、伸ばすところも、親の私が一番わかってるから。



うん!わかった!
それは半ば諦めでもあり、同時に決意でもあった。
数字の羅列よりも、日々の小さな成長を信じる方が、よほど確かだと感じたからだ。
親が子どもの“線”を見ずに、先生の“点”に振り回されていたら、子どもはどこにも居場所を失う。
だから私は、通知表を「ゴミと同じ」と言い切った。
ごめんなさいね。子どもを守る手段なのよ。



それが、子どもの自己肯定感を守る唯一の方法だと思ったからだ。
「気にするな!」こう伝えるより、効果が見込める。かなりの効果だ。
うかうかしてらんないのよ。子ども同士で見せ合いになったときにも言えるじゃない。



うちのママ、「ゴミっ」て言ってるからいいの。
ってね。
巻き込まれは勘弁なんでね。ちゃんとやってんのに、主観だけで、どこで肯定感削られるかたまったもんじゃないよ。蜘蛛の巣張り巡らせとかないと。
ぜーんぶ背負う。
あと、ショック受けたり、通知表の査定低くて親から怒られたお友達にも言えるでしょ?



うちのママなんて、「ゴミっ」て言ってるよ。
てね。そしたら、それ聞いたその子もさ、家に帰って言えるじゃない。



〇〇ちゃんのママ、通知表ゴミって言ってるらしいよ。
その親に内容説明できないけど、心から「気にするなっ」て叫んでやりたいよ。
そんなんで子ども怒るなって。
通知表じゃなくて、テストの点数だけ見ときゃ十分だよ。
どうせ主観なんだから。
社会で上手に渡るコツ教えるなら、まぁ先生にも好かれた方がいい。
だから、アドバイスするなら、



あ、明日先生の誕生日なの?おめでとうってお友達と言おうと思えたら、言ってみるのも手よ。
心象悪くなることもないでしょ。
だけど、心が従わないときは、止めておきなさい。
こうなるよね。武器を持たなくてもいいようにね。
子どもには言えないけど、主観が入るようなレベルであれば…ここから洞察すれば、言ってた方が得じゃん。
けど、ここはまだ分からないから伏せてるよ。
言ったかもしんない。忘れた。



こうやって暴露すると、なんて真っ黒な人間なんだって思われそうだけど、言うんだから真っ白でしょ。
主観が入るなら、利用するに決まってるだろ。
利用しない手はないよ。ごうくつばりから、せかっく教えてもらったんだ。参観日に大声で。
みんな利用の仕方を間違うからさ。
基準が絶対評価じゃなくて「主観」にあるんだったら、波及先はすごいだろ。そこも教えないといけなくなるじゃない。
だから間接的に教えてるだけだよ。
社会でうまくやるコツは確かにある。
でも、それは“誰かに好かれる術”を教えることじゃないから。
評価を上げるために動くことでもないし、無理に心を曲げてまで人に従うのも違う。
ここまでくると、主観による評価がいかに信頼を壊すか分かるはず。
そういう世界に慣れてしまった人たちは、自分が騙されてることにも気づかない。
国の「絶対評価」から自覚的に逸れていくのも、きっとその延長じゃない?
だから私は、そこに“住む”ことはしない。
たまに行って「おめでとう」って言って、自分の世界に戻る。
騙し合いの世界で生きる術を教えるんじゃない。
巻き込まれずに、自分の芯を保つ生き方を教える。
今の学校では、それが“生き抜く力”になる。
ということは——社会も、そうなんだろう。
賢くなきゃ、簡単に撒かれるって。
主観的な評価が生む歪み


- 親子の関係にまで及ぶ不信の連鎖
- 子どもが学ぶ「努力しても意味がない」という構造
- 社会の価値観を歪める教育現場の実態
① 親子の関係にまで及ぶ不信の連鎖
教える側の主観による評価は、子どもだけでなく親をも巻き込んでいく。



どうしてうちの子がこの成績なのか。
何を基準に判断しているのか。
テストは毎回100点近いんですよ!
当然、疑問を持つ保護者は疑問を持つ。
制度として説明がつかない以上、疑問が噴出するのは避けられないわよね。



わたしの場合、娘伝いに聞いたことがある。
別によかったんだけどね。ちょっと聞いてみたのよ。
なんで体育が「2」なの?



先生に聞いたんだけどー、「なんとなく」だって。
もう、笑いしかでなかった。
自由をくれるいい先生だったから(小学3年生)、子どもも笑って学校通わせてもらってたから、



まぁ、いいわ。笑
普通に運動できてるから、いんじゃない?
これで終わった。
でもそれは、評価の定義を破壊していることにほかならない。
評価とは説明可能でなければ意味がない。
基準がない採点は、ただの好みの表明にすぎないのだから。
やがて親たちの中には、先生に気に入られるように立ち回るものが現れる図が成立する。
例えばだけど、



授業中に10回以上発表しなさい!
通知表で加点されるから!
単純な因果で考えると、こう読む。
それから、こうなる。
気に入られるように立ち回ったのに、それを受け入れられない親たちは攻撃に走るようになるという図が成立する。
10回以上発表するという構図がもう異常。
内容も問わず回数を追う親も登場。
根っこを絶たないといけないのに、根っこが何か?がわかってないんでしょ。
種植えた記憶すらないんだから、どっから芽が生えてるかも知らないんだろうけどね。
生徒が浮く。
だけど、そこには誰も気づかない。
静かに崩壊し始め、気づいたときには炎に包まれている図な。



なんで?じゃねーよ。
軸がないと、説明ができない。
説明できない曖昧さは誤解を生む。
そこから派生しうる問題に気づくだろうか。
「先生の言うことに逆らわない方が子どものためになる。」
そんな考えが広がるほど、教育の現場は歪み、信頼は崩れていくとは思うよね。



これくらいは朝飯前じゃないと、おかしいと思うよ。
配慮というより、健全なルールだよ。
しかも文科省の、国のね。
校則じゃないよ、国の規則なんじゃないの?
だって本来、ノート・発表・意欲は「評価の材料」ではあっても、「評定基準」そのものではないじゃない。
ここを混同した瞬間、評価は制度ではなく人格判断になるでしょ。
正確に言えば、国は「主体的に学習に取り組む態度」を評価観点として置いてはいる。
だけどそれは、基準が明確に言語化され、誰が評価しても同じ判断になることを前提とした話でしょ。
その前提を欠いたまま、教員個人の感覚で評定に直結させる運用は、制度として破綻しているじゃない。
朝飯前でしょ?
② 子どもが学ぶ「努力しても意味がない」という構造
最も深刻なのは、子どもが“間違った現実”を学んでしまうことだ。
絶対評価の基準は、他の誰が評価しても同じ結果にならないとおかしい。
1人の生徒を、A先生が評価したら「3」、B先生が評価したら「2」になるのなら、その評価は破綻してるよ。
高得点を取っても、先生が努力が足りないと思えば「2」、努力しても報われない。
一方で、成績が悪くても“頑張っているように見える子”が「3」を取る。



そもそもが、頑張っているとどこで認めるんだろうね。
だって、努力が見えにくい子っているでしょう?
スポーツしてても、汗かきやすい子もいれば、かきにくい子もいるじゃない。
絶対評価を間違う人が、そのあたりの精査が出来てるとは到底思えないよ。合ってるって。
絶対評価間違えてる面々、子どもさんやご家族とうまく過ごせているか?知人友人と上手に揉めることなく過ごせているか?
確認してみるといいって。
それが因果理解だよ。
何で揉めるか?まで説明すると、絶対評価という基準があるのなら、それは不動じゃないといけないでしょう。
じゃないと不公平が生じてしまう。
不公平じゃないと判断するのは、自分が唯一の「正しさ」だと思ってる証明になる。
じゃぁ、自分が唯一の「正しさ」だと思っている人の思考と行動を想像すると分かりやすいと思うよ。
いわゆる「天動説」だよ。
おめでたい。クラウディオス・プトレマイオス。


恐らく他者に対して、「それは違うと思うよ。間違えてる。」これを平気で言う図が成立する。
言われた相手と討論、口論になり、他者を受け入れない図が成立している。
ここから派生する人間関係を想像したら、余裕だ。
正しさをどこに置くか?
これが分かってないってことだもの。
だから、相手と摩擦を起こすたびに「自分が正しい」を振りかざし、結果的に孤立したり、関係を壊していく。
ブレるって、こういうことだよ。
主観が入る=人との関係にも主観が入る。
それはイコールで成り立つ世界だ。
子どもは「先生に好かれること」こそが価値だと覚える。
本来は“学び”の場であるはずの学校が、“迎合の練習場”になる。
そうして育った子が大人になり、社会に出たとき、
「上に気に入られなければ昇進できない」
「結果より印象が大事」
と信じ込んでしまうのだろうな。
教育の誤りは、時間をかけて社会に再生産される。
“努力が報われない構造”を作り出すのは、教育そのものの側にあると思うよね。



巻き込まれは勘弁だ。
③ 社会の価値観を歪める教育現場の実態
子どもが最初に出会う「社会」は、学校だ。
だからこそ、そこにある価値観が子どもの世界観を形成する。
そう言っても過言じゃない。
①家族という小さなコミュニティーから、
②学校という大きなコミュニティーの場に移り、価値観を学び合う。
だけど、
①でいくら正しいことを教えていても、
②で覆されると、意味を無くすんだよね。
そうならないように、必死だ。
もし②で「正しいことより、好かれることが大事」と教える場所だったら、その社会はやがて“沈黙の同調”で満たされる。
誤った評価観は、単なる教育現場の問題ではないと思う。
社会の倫理や誠実さを少しずつ蝕んでいく。



「誰のための教育か」を見失ったとき、教育は最も危険な装置になる。この重大さよな。
仮にもし、すごく成績のいい子どもの親が、慢心家で自慢ばっかりしていたとしても、子どもが優秀なら、それは優秀でしょ。
自慢されても、「ほんとすごいですね。」でいいしね。
そういうことを重要視してる人の子どもって、導き方に気を付けてないと、数年、数十年後がね。
そういう因果理解があれば、現在の「ほんとすごいですね。」だって、数年、数十年後どうなるか分かんないのよ。
考え方っていうのは、伝染するものだから。
点で見ると感情も揺さぶられるかもしれないけれど、因果(線)で見れば、結果があらかた分かる。
①で微妙なら、せめて②はしっかりしないといけないし、一番いいのは、①・②で連携して子どもを導けることかと思う。
本来の教育とは何か


- 「評価」ではなく「観察」から始まる
- クリスマスのチョコケーキ
- 親こそが子どもの“線”を見ている存在
- 子どもに伝えたい——人に評価されるためではなく、自分の軸で生きてほしい
① 「評価」ではなく「観察」から始まる
教育の本質って、数値で人を判断することではなく、「どれだけその子を見ているか」にあるとは思う。
採点よりも観察。
子どもの表情、つまずく瞬間、言葉にならない悔しさ——それらを“見る”ことが教育の出発点。
「努力しているように見える」や「もっとやれる気がする」といった主観的な印象で数字をつけるから、教育が崩れていくんだよ。
本当の教育者は、“点数”ではなく“変化”を見抜く人だと思う。
そしてその変化を言語化し、本人に返していくことが教育の対話であるとは思う。
そこが難しいから、「絶対評価」になってるんじゃないのかな。
こういう思考ができるって言うなら、「絶対評価」の意味を間違うその所為はなんだろうね。



仮に、そういうものだと教えられたとしても、問わないから、間違うんだと思うよ。
何のための「絶対評価」か?
というのが分かっていれば、おかしいと気づくと思うもの。
言えばよかったのに…と思うかもしれないけれど、その次元じゃなかったんだって。
1年生のころは特に。
絶望しかなくて。
それに、言ったところで改善されるかどうかも分からない。
どんな先生が他にいるかも分からない。
特に1年生のころの担任、あのごうくつばりは、これを伝えたところで折れない、これが見えたし。
縁起読みはできたから、あらかたの想像はついたけど、その縁起も現時点で考えたら、即改善にはならないし、とても考えさせられた。
読書は大事、読書は大事とかほざいてたけど、文科省のサイトでも朗読しやがれ。
だからこうなった。
↓これが目標だったから、通知表なんてどうでもよかった。
- 先生(大人)に怯えずに学校に行けるか?
- 大人を理解しなければ(させなければ)ならない、導き方は?
- (先生)みんなこうなのだろうか?
- 学校(社会)をどう理解させようか?
- 大人や学校をこんな小さな子に諦めさせたくない、どうしよう。
- この支配環境に慣れるの?
- 娘の個性を守ることができるの?
- 学校に何を期待できるの?もはやできない
- このレベルは何?これが6年間続くの……?
必死だったんだよ。戦う所存だった。
覚悟しろ。わたし!
負けるな。線路を間違うな。
正しく牽引しろ。
やればできるじゃない、やれ!
言い聞かせてた。
相手は公共機関。
線路を間違うわけにはいかない。
② 給食※クリスマスのチョコケーキ
今でも忘れないけど、当時、娘の発言でやるせない気持ちになったことがある。
今でも思い出すと涙がでるよ。



給食で、クリスマスケーキが出たのね。
チョコと、白い普通のクリームがあって、選ばせてもらえたの。
すごくうれしかった!



チョコ………..選んだんでしょ。
好きだもんね….。



まさか選ばせてもらえるなんて、思ってなかったから!



そう….よかったね。おいしかった?



うん、すっごくおいしかった!
たったそれだけのことを、サンタさんが来たみたいなテンションで、飛び出すような笑顔で伝える娘を前に、それに、慣れるなと思った。
小学1年生。
絶対評価を間違う人材が、どのような支配構造を持っているかわかる?
ケーキはどうでもいいんだよ。
「チョコを選べた」
「チョコケーキを食べた」
ことに喜ぶというより、
「選ぶ権利をもらえた」ことに感謝してしまうこの構造よな。
どれだけ自由が無いんだ。1年、早く終われ。
あと3カ月、頑張れ娘、そしてわたし。
この異変に気付けないのか。
今思い出してもやるせない。
選べることがうれしい、その感覚は何だ。
どっから来るんだ。
どこから来たんだ。
どういうことだ。
選べることで、はしゃぐことがどうか?というよりも、この異質な脳の作られ方が分かるかな。
だって、「選べない」がデフォってことなんだよ。
社会に出るのに、選べないんだよ。
選びたいのに選べないと思ってるってことなんだよ。
選べたことに喜びを感じる、チョコケーキを食べたことよりもだ。
- 「選べない」がデフォルトになっている。
- 「自由は与えられるもの」と思わされている。
- 「自分で選ぶ」ではなく「許可されて選ぶ」感覚で育っている。
この構造が怖かったよ。
学校という環境が無意識のうちに「従うほうが正しい」と学習させている。
「従うことも必要」じゃないとおかしいだろ。
「従うことも必要」=社会で生きるための協調ではなくて、「従うほうが正しい」=思考の停止の刷り込み。
通知表どころじゃねーよ。



どうやって、この環境(学校)で娘を守り、正しく導くことができるか?
これがあったから、通知表なんてどうでもよかった。
ただの紙切れになったんだよ、わたしにとっては。
そしてこうなった。
娘が学校でお友達と笑って過ごせたら、もうそれでいい。十分。
自由だけ求めよう。
どうなるか分からなかったけど、そこから1年ごとに担任も変わり、3年になるにつれて、主張ができるようになっていって、今がある。
③ 親こそが子どもの“線”を見ている存在
日々の小さな努力、できなかったことを次に活かす姿、悔しさに涙するとき——それらを一番近くで見ているのは、親だ。
親は、先生のように一学期ごとの“点”で区切らず、時間を通して子どもの成長を“線”で見ている。
だからこそ、教える側の評価がどんなにズレていても、子どもの本当の成長は見失わない。
「通知表はゴミと同じ」——それは過激なようでいて、我が家では真っすぐな信頼の言葉になっている。



あなたの頑張りは、誰が何と言おうと私が知っている。
そう伝えられる親の存在が、どんな評価よりも子どもを強くすると思うから。
④ 子どもに伝えたい——人に評価されるためではなく、自分の軸で生きてほしい
子どもには、誰かに認められるための努力ではなく、「自分で納得できる努力」を覚えてほしい。
評価は外から与えられるけど、成長は内側から生まれる。
他人の基準で自分を測る人生は、いつか必ず行き詰まる。
たとえ誰かに低く評価されても、自分が“やり切った”と思えることがあれば、それでいい。
社会に出れば、理不尽な評価や誤解はいくらでもある。
でも、自分の軸を持っていれば、数字や他人の言葉に支配されずに生きられる。
わたしは、その軸の育て方に注力している。
最後に伝えたいこと
子どもに教育をする前に、まず自分の生徒への向き合い方を問うてほしい。
評価の仕組みを語る前に、自分の“見る目”がどれほど偏っていないかを確かめてほしい。
教える側が「自分は正しい」と信じ切った瞬間、教育は閉じる。
何事も問うことから始まる。
生徒の理解を疑い、自分の指導法を疑い、制度そのものを疑って、そこにある矛盾を見つめ直す——それが教育の成熟だと思う。
「絶対評価」すら理解できていない人が、人を正しく評価できるはずがない。
なぜか?「絶対評価」にしなければならない意味が分かっていないということだからだ。
何のための「絶対評価」なんだ。
ゆとり教育~おかしいんじゃないのかな。
「順位付けしない、平等性を」の誤解じゃないの?
平等とするために絶対評価がある。
その平等とは、ひとりひとりに優越をつけないことの平等じゃなくて、評価する基準の平等のことだろう。
それは個人との比較だからだ。
そこに、主観が入ったら不平等になるよな。
簡単なロジックだよ。



わたしは、これが正しさだと思うけど。
けど、違うっていうなら、わたしの良しとする世界と、国と学校の良しとする世界が違うのではないの?
こんな教育で育つとさ、やたら平等、平等訴えそうで怖いわ。
何が平等か不平等か?
すら曖昧になるだろうし、順位付けすらも納得できないで育った世代があるなら、もう同調圧力しか存在しないだろうね。
じゃないと、国の大学の偏差値をみな平等にしましょうとか言い出さないとも限らないよ。整合性が取れなくなるからね。



努力してる人も東大に行けないとおかしい!
成績だけで評価しないでください!
授業、ちゃんと聞いてたじゃないですか!!!!
センターCランクだったけど、努力したからAランクにしてください!
極端に言えば、こういう世界観が育つ。


終点がこれなら、いいのではないの?
逆に「この人、こんなこと言うのおかしいよ。」って思ってるなら、絶対評価を間違えてるあなたもおかしいよ。
整合性が取れないって。
ここがOKじゃないと、成り立たないのが現行だって。
| 比較軸 | 意味 | 問題点 |
|---|---|---|
| 相対評価 | 他人との比較(順位) | 上位層の影響で評価が歪む |
| 絶対評価 | 基準との比較(到達度) | 基準が曖昧だと主観が暴走する |



あの人ばっかり稼いでずるい、出世してずるい、頭良くてずるい。
だからわたしも、わたしの子どももそうしてください。
その代わりPTAしますし、学級長します。子ども会会長します。
たくさん発表させます。
当然、わたしたちの子ども、優遇されるんですよね?



はい、されますよ。
どんどん連絡してきてくださいね。
(頼られている、うれしい)
制度としては、こうした関係性が成立してしまう余地があるよね。
そして、それが固定化すると、
「配慮する側」
「頼られる側」
であること自体に価値が置かれ始める。
それが無自覚な優越感につながることも、構造としては十分に起こり得るじゃない。
結果として起きるのは、
子ども自身が努力して結果を出すことよりも、
大人がどう立ち回るかのほうが評価に影響する、という誤った学習でしょ。
だからこそ、評価はできる限り客観的な基準に戻したほうがいい。
点数評価にも限界はある。
けれど少なくとも、
「頑張らなくても周囲の動きで何とかなる」
という錯覚は生まれにくいじゃない。
肯定感を削ぐ原因は、順位そのものではない。
努力した事実が、正当に扱われないことのほうが、よほど深刻。
順位が低くても、努力を誇れる教育は成立する。
こうしたズレは、当事者ほど気づきにくい。
承認欲求や役割意識が強い場面では、なおさらよ。
アレルギー対応、選抜リレー、役職の扱い。
一見ばらばらに見える出来事にも、同じ構造が繰り返し顔を出している。
あえて言えば、私はこういう目線で見ている保護者の一人。
理由は単純で、評価の基準が曖昧なまま、説明も共有されない状況で、何を信じればいいのか分からなくなるから。
評価も、授業も、保護者対応も、このままでは持続しない。
それでも、誠実に向き合ってくれた先生には、今も感謝している。
その事実は、ここではっきり書いておきたい。
書くかどうか迷ったけど、
こうした状況を冷静に見ている保護者が存在するということ自体は、知っておいてもらったほうがいいと思ったし。
私はかなり前からそういう目線。
同じように感じている保護者は、決して少なくないはずよ。
問題は個人ではない。
「内側にいると見えにくくなる視点」が、
外からどう見えているか、という話。
可能であれば、一度そのパラダイムを開いてみてほしいよ。
現場の論理と、保護者側から見える世界は、想像以上にズレている。
厳しく聞こえるかもしれないけど、揶揄ではない。
人を評価する立場にいながら、
自分自身に向き合わずに済む世界は、確かに楽よね。
しかし、絶対評価という基準を正しく運用すれば、
評価する側もまた、基準と自分の判断に向き合わざるを得なくなる。
「絶対評価」という言葉を使いながら、
実際には相対的な印象評価に頼っている場合、
人はどこに自分の価値を置いているのか、
その問いが否応なく表に出てくる。
基準が明確になれば、
成績の良い生徒に対して、
感情や印象で介入する余地はなくなる。
そのとき初めて、
なぜ苛立つのか、何に反応しているのかを考えざるを得なくなる。
それは楽ではない。
けれど、それが現実であり、人生。
誰が、誰を、何を基準に評価しているのか。
ここを考えずに、教育は成立しない。
評価が投影になっていないか。
通知表が、子どもではなく大人の内面を映していないか。
その問いから、目を逸らしてはいけない。
どちらが「善」かを断じたいわけではない。
自覚的に選んでいるなら、それも一つの選択だろう。
ただ、私はその選択には与しない。それだけだ。
私が書いているのは攻撃のためではない。
思っていたことを、言葉にしているだけ。
子どものために、できることとして。
左欄の評定が「1」や「2」であっても、
授業態度が良い、生活面で努力していると感じるなら、
その価値は所見に書けばいい。
それで十分。
子どもたちは、教師の言葉を信じる。
だからこそ、大人の無理解は重い。
教育者である前に、
人として誠実であってほしい。
評価する側の思い込みが、
子どもの未来を狭める社会であってはならない。
「正しさ」そのものを、一度疑う。
それができる人だけが、
本当の意味で人を導けるのだと思うよね。



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