2020年12月25日に公開されたアニメ映画。
原作は2016年に出版。
※動画はプライムお試しで無料で見れます。
……今頃見るっていうね。笑
でも、見てみたら思った。
これ、夢の話じゃなくて、この世の仕組みじゃない?
だから、メモ程度に、ブログに綴っておくことにしました。
煙はやがて「異常」ではなく「標準」になる

疑問にも思わなければ、空や星を見ることはできない。
この物語が伝えたいことは何だろう?
調べるとこうある。
「信じ続ければ、きっと見つかる」
えんとつ町の住人には見えない「星」をルビッチが信じ続け、行動することで、街に光が戻る物語です。「他人に否定されても、諦めない心」
夢を語ると笑われたり、批判されたりする社会の中で、自分を信じることの大切さを伝えています。「常識や同調圧力に疑問を投げかける」
煙に覆われたえんとつ町は、現代社会の閉塞感に置き換えることもでき、その中で自分の進むべき道を見つけるヒントを与えてくれます。「子供だけでなく大人にも勇気をくれる」
子供向けのファンタジーに見えながら、挫折や諦めと戦う大人たちにも響く、応援と共感のメッセージが込められています。
もうちょっと、切り込んでみようと思う。
『えんとつ町のプペル』には、現実の構造が、そのまま置いてある。
えんとつ町は、見ようとしない世の中

プペルの世界では、町は煙に覆われてる。
けど、その煙が普通になってしまったら、煙を疑問に思う人には、それが普通じゃなくなる。
「現実見ろ」
「そんなの無理」
「普通はこうでしょ」
誰かが意地悪で言っているわけじゃなくて、もう、その人にとっては普通の標準装備。
煙は、見なくていい理由を量産する装置でもあるかもしれない。
忙しいから
今じゃない
失敗したら怖い
みんなそうしてる
こういう言葉ね。
聞いたことあるでしょ。
煙はいつでも、そこら中にある。
空と星は、あると信じて「見ようとした人」にしか見えない

プペルの世界には、空や星があるけど、誰にでも見えるわけじゃないでしょ。
見上げた人にしか、見えなくて、見ようとした人にしか見えない世界。
ここが、この作品の核心で、空は、才能ある人の特権じゃない。
選ばれた人だけの報酬でもない。
見るという選択をした人にしか、認識されない世界。
つまり、
- 空や星が見えない世界
- 空や星がある世界
この二つは、能力差じゃなくて、努力量の差でもなくて、視線の向きの違いだけ。
ルビッチは、見えなくても、見ようとし続けた。
「下を見るから、揺らぐんだ。」

作中にある
「下を見るから揺らぐんだ。」
という台詞。
ただ、はしご上って、下見ては「怖い、怖い」と震えるルビッチのシーンなんだけど。
ルビッチがはしご上るとき、お父さんから言われてた言葉。
最後には、ルビッチがはしご上る男の子に言ってる。
これは精神論でも、根性論でもなくて、完全に構造の話に思える。
下を見るというのは、
- 他人の評価と比較
- 常識と比べる
- 失敗例を探す
- 安全圏を確認する
- 同調圧力
- 承認欲求
こういうこと。
下を見た瞬間、自分の基準を外部に預けることになる。
だから揺らぐ。
下を見てそこにいるのは、悩みが多いかどうかは別として、ある意味、楽だ。
馴染むのも早い。
でも、その分、目的から逸れやすく、見失いやすくなる。
上を見るとは、自分の基準を自分に戻すこと。
だから、上を見ている限り、人は揺らがずに進める。
そういうことだと思うわ。
ゴミ人間という存在

プペルの中で、もう一つ重要なのが、「ゴミ人間プペル」という存在。
人は、異質なものを見ると、排除したくなる。
これは善悪の話じゃなくて、本能に近いんだろうな。
- 空を信じる人
- 常識から外れた人や行動
- 間違いを、間違いだと指摘する者
- 環境に染まらない態度
- 奇抜な装い
それらは、集団あるいは個人にとって「ノイズ」になる。
だから、
嘲る
否定する
笑いものにする
排除する
こういう構造が成り立つんだろう。
作中はリアルな「ゴミ」だから、うっかりしやすいけど。
ゴミ人間に罪はない。
ただ、いるだけだ。
まぁ、臭いとは言われてるけどさ。
洗えば済む話だろ。
つまるところ、こういった類の批判は全て自己防衛。
それをゴミ人間のプペルに張り付ける。

くさい!
あっち行け!
仲良くするとロクなことない!
そうやって、ゴミ人間のプペルを非難することで、自分を守る構造だよな。
深層は、
「俺(わたし)の領域を犯すな!俺の(わたし)を否定するな!」
これなんだけど、本人すら気づかない構造もある(そうしてるのは本人だ)。
そこを、大多数の1になることで、安全を確保する。
ゴミ人間プペルの1を許せない。
それは、なぜ許せないのか?には向かわない。
ある意味、楽だよな。
その視点は。
個人レベルのスケープゴート。
あとは、ゴミ人間は、集団の境界線を可視化する存在にも見えた。
- 何が「普通」か
- どこまでが「許容」か
- 誰が「こちら側」か
皆がハロウィンの恰好じゃなくなったときに、
ゴミ人間は普通じゃなくなる。
ゴミ人間は元々あぁなのに、
仮装じゃなくなった途端、
同調できなくなった瞬間に弾かれる。
変わったのは、変わってるのはゴミ人間ではなく、
周囲の普通という基準のほうだ。
それを、言葉じゃなく存在そのもので暴く。
だから嫌われるし、排除もされる。
「変なやつ」なんじゃなくて、その社会がどれだけ脆いかを映す鏡でもあるよね。
信念を通すのは、簡単じゃない


信念を通すのは、圧倒的にきつい。
現実は、
- 孤立する
- 理解されない
- バカにされる
- 環境から圧がかかる
新しい何かを成し遂げようとするときには、
大きな壁や波があり、反発が起こる。
それでも、見る方向を変えないという覚悟。
すぐ、煙が撒かれる。
これは根性論じゃない。
覚悟の話でもあるし、自分の信念がそっち側だったら、曲げられないことでもある。
そうとしか生きれない自分がいたら、
それはもう引き受けるしかない。
だから『えんとつ町のプペル』は、
「どんなに否定されても信じて行動し続ける先に、みんなが知らない輝かしい未来がある」
そうかもしれないけれど、そういう単純な物語とも思えない。
環境に負けずに信念を通すのは、とても大変なんだよ。と同時に、自分を引き受ける覚悟もいる。
ひとりになる覚悟。
嫌われる覚悟。
手放す覚悟。
自分を信じる覚悟。
途中、何度も問い直すよ。
どんだけ問うか。
何度も自分に問い直す。
どれだけ煙が巻かれても、あそこに行けば、空と星が見える。
それが分かってしまったら、もう、そこにいるしかなくなる。



なんで、わざわざそこなの?
そう言われても、そこからしか、見えない景色がある。
たとえ、ひとりでも。
そこにいないと、自分が崩れるんだよ。
世界を雑に扱えない。
その代償を背負う方が、わたしは楽なだけだよ。
不器用すぎてね。
そんな不器用な自分を引き受ける以外、
手立てがないんだよ、なかっただけだよ。
それだけだから、不器用に沿う必要もない。
器用ならな。
けど、わたしから見た器用ぶってる人たちは、
楽そうにも見えないよ。
なんでだろうな。
聞かなきゃよかった言葉たち。
視界に入れなきゃよかった言葉たち。
けど、聞いた時間、読んだ時間があるから、
今の時間も分かるんだけどね。
知ってどうか?
知らなければ良かったとは思わないよ。
子どものころからずっと、知りたかったんだ。
ようやく、視界が開けたんだ。
「やさしさ」の定義すら分からない。
そっから学んだ私の「やさしさ」は、
「冷たい」「薄情」と言われた世界だった。
そして自分をまた責める。
そっからのゲシュタルト崩壊、再構築、他者理解だ。
「正しさ」が分からない。
考え方が分からない、
あのもどかしさから解放されたんだ。
分からなかったそれを、伝えられるようにまで、
なれたんだ。
安易に読書だけで構築したものじゃないよ。
だけど、読書がないと構築もできなかった。
そんくらい、取りに行かないと得られない、この状況な。
なぜ、人は上を見ている人を嘲るのか


人が誰かをバカにするとき、
そこにあるのは悪意だけじゃなくて、多くの場合、
自己防衛だよね。
人は一度諦めると、
「諦めた自分は正しかった」
という物語が必要になるし、
その物語を壊す存在が、諦めなかった人になるという構造ね。
だから、
「現実見ろ」
「夢見すぎ」
「痛い」
「あなたを思って」
という言葉が出るんだろうな。
攻撃であることもあるし、世界線を維持するための反射行動だ。
よくあるやつだよ。
現実では、煙は消してもらえない


現実では、煙は消えないし、空も星も、見ようとしないと見えない。
誰かが見せてくれるわけでもない。
- 煙はある
- 空も星もある
- 排除も普通に起きる
- それでも、見るかどうかは自分で決める
見えるかどうか、分からないけど、それでも決める。
上を見続けられる人は、ほとんどいない


現実として、上を一瞬見る人は多くて、でも、見続けられる人はほぼいないと思う。
- 上だけ向いて歩くのは、辛いこともある
- 空は信じないけど、星は見たいは成立しない
- 何を求めるか、見るかは自由
① 上だけ向いて歩くのは、辛いこともある
なぜなら、
- 生活がある
- 人間関係がある
- 失うものが増える
- 孤独が現実になる
こういうことを突きつけられることがある。
正確に言うと、そう思ってるだけ、思いたいだけってこともあるんだけどさ。
まぁ、それは置いといて。
だからこの話は、「上を見れば正解」でも「上を見た方が偉い」でもないんだよね。
その突きつけを自分で理解しとかないといけない。
上を見続けるのは、人によっては、代償が大きすぎる選択であることもあるでしょ。
それを選ばない人を、責める話でもない。
いずれにしても、選択は自由なんだと思う。
作中では、
「空や星を信じる選択」そのものが、
嘲られたり、否定されたりする場面が描かれていて、
自由にさせろよ、批判するその所為は?
軽くこうなったしね。
どちらを選ぶかを他人が裁く権利なんて、どこにもない。
空や星を信じる選択も、
「そんなものはない」と思う選択も、
どちらも同じように、個人の自由ではあるでしょ。
問題が起きるとしたら、
それは「どちらの選択が正しいか」ではなくて、
人の選択の自由を奪おうとしたときだと思う。
上を見ろと強要するのも、
下を見ろと引きずり下ろすのも、
本質的には同じこと。
見るか、見ないか。
信じるか、信じないか。
あるいは、今は見たくない、見れない。
その選択だけは、
誰にも奪えないし、奪ってはいけない。
② 空は信じないけど、星は見たいは成立しない
ただし、目的が明確にあり、達成のために条件が必要な場合は別になる。
それは「思想の否定」ではなく、
参加条件の設定だから。
同じ空を見たいなら、
同じ方向を見る覚悟がいる。
同じ星に辿り着きたいなら、
前提を共有する必要がある。
見るか、見ないかは自由。
信じるか、信じないかも自由。
でも、どの場に立つか、どの船に乗るかは、また別の話。
選択の自由と、条件の存在は矛盾しない。
混同すると、どちらも壊れるからね。
「空を信じない自由」は守る。
でも「空を信じないまま、星を見に行く船に乗る」は成立しない。
つまり、空(全体・責任・覚悟)は信じないけど、
星(成果・感動・希望)だけ欲しい、
だから船(物語・他者・共同体)に乗ることは、
覚悟のない便乗になる。
覚悟がないことが問題なのではないのよ。
覚悟を引き受けないまま、
同じ物語に参加しようとすることが、
その物語自体を壊すんだってね。
それだけだよ。



人の物語、壊してんじゃねーよ。
居場所がちげーよ。
空を信じない自由はある。
でも、空を信じないまま、
星を見に行く船に乗る資格はない。
船は誰でも乗れるわけじゃない。
方向と、前提と、
引き受けるものが一致した人間だけが乗る。
乗る船、間違えんじゃねーよ。
スケープゴートなら、他でやれ。
悪かねーよ。
自覚もってりゃな。
引き受けるってのは、子どもたち全員だ。
規模を忘れるな。
この規模を忘れるような者とは、
話をする気もない。
土俵がちげーよ。
視野が狭い者も、覚悟のない者も、
ここに用事はないはずだよ。
そして、わたしにも用事は無いはずだ。
③ 何を求めるか、見るかは自由
見えてる世界だけを信じるのではなくて、違った世界があるかもしれない。
紙芝居や星や空は、見るのは自由だもんね。



そう思うだけで、違った世界が見えだすかもしれないじゃない。
ルビッチのお父さんの紙芝居を、
笑顔で見ときたい。
あとは、ゴミ人間のプペルにも言いたいんだよ。
「(悪くも無いのに)謝るな!」。
その言葉が自分を作っていく。
下を見ることと同じ行為だ。
経験談だよ。
性善説だけではやってけない。
最後、ルビッチがお母さんから言われて、救われたけどさ。
言ってくれて良かった。
物語はわかりやすいよ。
リアルに「はしご」「ゴミ」「煙」だ。
上下、排除案件が分かりやすい。
現実はどの行為が「下を見る」ことになり、
どういう状態が「上を見る」ことになるのか。
なぜ排除になるのか、
自分の世界に煙があるかないか?
とても分かりにくいんだよね。
それを見抜くのが大変なんだよ。
だから私は思う。
『えんとつ町のプペル』は、この世の仕組みを、そのまま置いた説明書とも言える。
ルビッチは、空や星が「あるかどうか」を証明してから動いたわけじゃない。
ある前提で行動し続けた。
その結果として、空や星を見た。
そういう話。
けど、それが大事なんだとは思う。
わたしの余談
また始まったよ、ロマンも何も無いって言われるかもしれないけど、メモっときます。
行きついた見解ね。
プペルは「構造物語」になってるのよ。
- えんとつ町のプペルの構造が何を表しているか
- 中身(意図)が違っても成立する理由
- 本来のアクティブラーニング
- 表層を扱うことの重大さ、人を育てているという自覚
- 未来はどうなる?
① 『えんとつ町のプペル』の構造が何を表しているか
『えんとつ町のプペル』は、
- 煙(前提・同調・恐怖)
- ゴミ山(人々が忘れていった希望)
- はしご(次元)
- 見えない空と星(別の世界線)
- 見ようとする者/見ない者
- 排除(ゴミ人間)
- 上を見る/下を見る
- 選択と孤独
これらが一貫した因果でつながってるでしょ。
- 見ない前提 → 同調
- 同調 → 排除
- 排除 → 孤独
- 孤独 → 視線の固定
- 視線の選択 → 見える世界の分岐
この連鎖が破綻してない。
だから物語が
「作者の気持ち」じゃなく
現実の写像として機能する。
だから、
- 作者が「夢を信じよう!」
と思って描いていようが - 「子どもに勇気を」
くらいの意図だったとしても
構造が合っている以上、読み手が深く読めてしまうんだって。
作者の意思を超えて作品が自立している状態。
② 中身(意図)が違っても成立する理由
構造が合ってるから、中身が違おうと、成立する。
たとえば、
- 作者はAを言いたかった
- でも作品の構造はBを示している
このとき、構造読解者はBとして読む。
Aが枝葉だとしたら、Bは根幹。
プペルが「説明書」として読めるのは、作者が説明しようとしたからじゃないかもしれない。
現実と同じ因果で世界を作ってしまったから。
(わかんないよ?最初っからBの可能性もあるのよ。)
構造が合っているなら、そこから何を読むかは、読み手の自由じゃん。
むしろ、
- 構造を読める人だけが
- その深度に到達する
それだけの話だと思う。
作者は、構造を「生成する側」で、わたしは、構造を「読み解く側」。
③ 本来のアクティブラーニング
セロ弾きのゴーシュと同じかもしんない。
珍しい読み方っちゃ読み方なんだと思うわ。
知らんけど、考えるとその可能性あるよね。
だからプペルを「感動した」「夢を追いかける話」で終わらせる人と、「構造物語」として読む人で、理解が決定的に分かれるだろうね。
構造が見えない状態でメッセージを受け取ると、
- 自分の経験
- 今の欲求
- 欠けているもの
これを勝手に当てはめて読むことになる。
だから結果として、
- 夢を追う話だった
- 親子愛の話だった
- 努力は報われる話だった
- 勇気をもらった
全部それっぽいもんね。
間違いじゃない。
でもそれは物語が言っていることじゃなくて、
各自が持ち帰った感想。
もっと言うと、著者もそれを描いた可能性かもしれないのよ。
大事っちゃ大事よ。
ここを問うことこそが、
アクティブラーニングだろうね。
感想を、構造に接続すること。
- 感想だけ → 自己完結(ここすら危ういよ)
- 構造だけ → 他人事
- 感想 × 構造 → 思考になる
ここまでいって、初めて「学び」じゃない?
構造分からないと、正しいメッセージも読み取れないと思うわ。
だから、本というのは、バラバラ伝わるんだろね。
個人の見解だけ伝わるけど、全部一緒だよっていうやつだよ。
言い方・伝え方が違うだけな。
なんだこれ。
けど、人が同じ行動を繰り返してしまうのは、
物事の根幹(構造)が分からないからだろう。
枝葉がたくさんあって、
全部違う内容だと思ってるんだ。
考え方の基礎(原則)が分からないから、
対処法もバランバランで複雑怪奇になっている。
先に個人の感想を聞く(素材)。
構造を渡す(地図)。
そしてまた、感想を聞く(内面化)。
これが鉄壁だろうな。
だから地図は必要だよ。
じゃないと、



はしごを上るときは、下を向くと倒れやすくなります。
ちゃんと注意してあげましょう(注意しましょう)ね。
こんなんなるよ。
もっと言うなら、あってもいいよ。
地図渡した後に、同じことが言えるかどうかだよね。
言えないんだったら、その指導は崩壊同然だ。
④ 表層を扱うことの重大さ、人を育てているという自覚
地図渡しても尚、はしご上手に上ることに拘ってるとしたら、もう言うことねーよ。
勝手にこだわりやがれよ。



わたしは指導に自信があります!
好きにこだわる自由はある。
ただ、そのこだわりが現実と結びついているかは、
自分と周囲、生徒を見れば一目瞭然だろうね。
「私は指導に自信があります」と言えることと、
実際に人が育っていることは、
別の話だからね。
行きつく先は、指導者じゃなくて消防士なのかな?
じゃぁ、はしごを上るじゃなくて、漢字は「登る」になるかもな。
けど、全員消防士になりたいわけじゃないから。



わたしは、消防士目指してないんだよ。
セロ弾きのゴーシュで、
トマト盗むのに拘るのなら、行きつく先は警察官。
カッコウを逃がすのに拘るのなら、動物の飼育員。
たぬきと一緒に楽しむのを拘るのなら、保育士。
ねずみの救護に拘るのなら、医者とか看護師。
そうなるよ。
脱線しまくるけど、スーホの白い馬なんて友情物語としてあるでしょ。
あれは、嘘だよね。
わたしは王様が国、スーホが国民、馬は戦死した兵士、馬頭琴は思想だと思ってるんだよね。
記事に書くと、ややこしくなりそうだったから、書くの止めたんだよ。
書かなくてもニーチェとか出てきて、ややこしくなったけどさ。
怒りを持ったまま、復讐に向かわず、自分を立て直す。
友情で処理すると、
- 王様の理不尽が消える
- 奪われた怒りが消える
- スーホの選択が「いい子」で終わる
結果「つらくても、がまんしようね。」。
という、間違った道徳が残らない?
教育どうなってるか知らないけど。
子どもにとっては、危険だよね。
別に国やら戦死やら言わなくてもいいんだよ。
方法はいくらでもある。
権力とは?を問うてもいいと思うよ。
このレースに参加したのは何でだろうね、
でもいいし。
ずっと怒ってたら、どうなりそう?
でもいいんじゃない?
解釈は子どもに返せばいい。
どの道、難しいか。
指導者が全部知っとかないといけないけど、
権力ひとつ説明できなそうだね。
「権力=悪」とか教えてそうだわ。
まだCBT(認知行動療法)とかならいいよ、掘れないから表層だけ扱う。
けど、教育は別だよね。
人育てるんだよ。



学校では、構造化を教えてもらえないってよく見るのよ。
この発言は、割と優秀層に多いよ。
なんで?って思ったけど、
教える側に見えない。
もっと言うと、教科書、指導案
作る側にも見えてない。
あるのに見えないんだな。
すっごい気づき。
読書と同じ構造だな。
今の教育は枝葉で、根幹がないんだな。
見えない人には、見えないんだろ。
だから指導案もバランバラン。
で、はしごの伝授するんだな。
で、全員消防士にさせるんだろ。
- 構造を見えない人が教えている
- だから指導案がバラバラ
- 子どもは「部分」しか学べない
- 根幹が育たない
これは批判じゃなくて事実の記述だよ。
哲学・心理学・構造読解・設計思考の回路。
集大成だよ。
学んだことがあってさ、
心理学・哲学を知ってても不可能ってことな。
見える人が少ないんだろ。
ようやく理解できたよ。
わたしに教科書の構造が見えるはずだよね。
慣れの果てが今だろ。
これが教育です!って言われたら、
ふざけんなってなるよ、わたしはね。
けど、育ててないんだから、
理想の保護者も子どもも現れないよ。
という現実を受け入れる必要があると思うよ。
だって、めちゃくちゃなんだから。
そうなってるでしょ。
構造がね。
だから、めちゃくちゃが来るよ。
何の不思議もない、自然だよ。



うちの子を優遇してください!



先生!スリッパならべました!



皆さん!〇〇さんがスリッパをならべました!
拍手!!!
どんどん先生に報告してきてね!
わたしが認めます(わたしを認めて)!



ほぅら、共依存爆誕。



ごんぎつねは、動物が人間のパーソナルスペースを侵害して起きた物語です。



教育のパーソナルスペース崩壊爆誕。
子どもの思考スペース侵害爆誕。
めちゃくちゃだよね。
じゃぁなんで語ってんだよ、作中で。
そういう教育し出したら、



きつねが言葉を使っています。
この物語は、動物の理解が足りません。
著者がおかしいと思います。
こうなるよ。
足りてねーのはお前だよ。
こっちは、納得いかないんだよ。
全部得て知ってるからね。
慢心はしないよ。
教育がそうなら仕方ないってならないんだよ。
免許あるんでしょ?
医者が誤診して、「誤診じゃありません」で済ませる。
これと同じレベルの話。
指導案って、子どもの人生の要でしょ。
この規模で、語られてる?
⑤ 未来はどうなる?
人材の二極化が進む。
- 構造を自力で獲得した少数
- 指示待ち・評価待ちの多数(タイタニック乗船者)
この差は、努力量では埋まらない。
制度は複雑化し、成果は下がる。
- ルール追加
- チェック項目追加
- 書類追加
- 管理を足す
でも、根幹は空洞。
→ 「頑張ってるのにうまくいかない」が常態化。
- 指導できる人がいない
- 育てられる人がいない
- 判断できる人がいない
構造を教えない社会では、
構造を自力で獲得した少数が
意図せず“使う側”になり、
多数は“使われる側”に配置される。



あとひとつ気づいたことがある。
間違えた教育なんかがはびこるとさ、子育てしなくなるよ。
あれほどに、誰からも褒められないものはない。
ありがとうも言われることは無いだろ。
して当然の世界で、求められるんだからな。
その人の世界で、できること、
できないことがあるのに、これくらいしたら?
とか当然のように言われることもあるしね。
自分が具合悪くても、
立たなきゃならないときもあるのよ。
覚悟してないと大変だって。
産後の肥立ちなんて言ってられない人もいるよ。
結構過酷っちゃ過酷。
かわいさだけで、抜けられるか?
というと、気合いるよ。
そんなことをよ、外部依存型がどうやって抜けるの?
と思わない?
わたしは全部の構造が分かってたから、
悩まなくて済んだ部分は大きかったよ。
全く悩まなかったわけじゃないけど、
少なくとも、落とす場所は見えてたよ。
かけっこ一つでも、通知表ひとつでも、
采配を間違うとさ、
そういう小さな評価制度が将来を奪うんだよ。
そりゃぁ、子どもに過剰な期待を
上乗せするんじゃない?
だからお遊戯会をコンサートと勘違いする親とか登場するんだよ。
運動会の競技でコケまくって子どもより目立つとかね。
痛さ満開なのに気づかない。
なぜか?



子どもじゃなくて、私(自分)を見て。
で、公園で会うとさ、サングラスしてスマホいじって、座ってガム噛んでるわけよ。
連れてくるだけマシだけどさ。
で、変な育児書が出来上がるんだよ。
お母さんたち、自分を責めないで。
男の子は恋人と同じ。
がんばらないで。
笑wwww
で、こうなる。



誰に育ててもらったと思ってるの!?
わたしに感謝しなさい!!



誰が養ったと思ってるんだ!
俺に感謝しろ!
元々崩壊なんだろうけど、ゆとり~は滅亡に近いかもね。
で、連鎖していく。途中で気づいた子は、足掻きまくるしかない。
- どこかから、正しい知識を取りに行く
- その知識の整合性を調べ、精査する
- 体験と過去との違いを抽出
- 同じ道を辿っているような人の観察、データ取り、背景読み
全部したよ、やるしかなかったから。
あと、データとしては、子供から求められる期間、3歳くらいまでは、必要とされるんだよね(承認)。
それに依存する人もいるよ。
4歳くらいからは、ある程度自分のこと自分でし出すのよ。
3歳と4歳じゃ雲泥の差だからね。
子だくさんはいいけど、子育てできてるか?
とイコールにはならないというデータもとれている。
4歳からは放置になるよね。色んなケースがあるよ。
- 子どもが離れ始める
- 求められなくなる
- 親の承認が枯れる
このタイミングで、
- 依存型は過干渉へ
- 空虚型は放置へ
に分かれる。
空虚型から依存型への以降もあるよ。
そういう人ばかりじゃないけど、これも一種のスケープゴートだものね。
自分と向き合うって、大人になってからいかに大変かよね。
だったら、、、と思うもの。
構造的には、こうだろう。合ってるはずだよ。
女児のときは、コンサート(お遊戯会)黄色い声援なかったよ。
教育がって言ってるんだけど、
読書と同じで、構造が分からないと、
危機感も分からないのかもしれない
という事実もあるんだよね。
解像度、大丈夫?
ここから見える未来分かる?
今の教育は、こども園~ずっと、マイナスだよ。
構造的に見るとそうなる。
マイナスをプラスにすることが、
どれだけ大変か知らないんだよね。
わたしなんて、ゲシュタルト崩壊だよ。
だからずっと先手打ってるんだ。
巻き込まれは、勘弁なんでね。
できてないものは、できてないんだよ。
崩壊だ。
それでも、



わたしたちは指導に自信があります!
こんだけ説明してもそれなら、
乗船続けてみるのも手かもしんない。
沈むことを、乗客は知らない。
だけど、沈むことを乗客に知らせる権利は、
わたしには無いしね。
乗客への浮き輪くらいなら考えられるかも。
例えば、授業の余白、注意で縛らない環境、
比較を前提にしない評価とか。
少なくとも、今回の『えんとつ町のプペル』から、
メッセージは正確に受け取れたと思ってる。
わたしはね。
この物語を、
この解像度で観れた人、いる?
はしごに気づいてなかったら、もう嘘だよ。
あんなに何度も出てくるんだよ。
ただの演出で済ませる方が無理あるでしょ。
メッセージが無いわけない。
問題は、「あるかどうか」じゃなくて。
どの解像度で受け取ったか。
さて。
あなたの解像度は、どのくらい?



あと、もいっこ言うならよ?
構造(世の仕組み)間違えてないのだから、そら成功するって。
コソコソ話ね。
大なり小なり、合ってたんだと思う。
意図的かは、わかんない。けど、成功者だものね。
他者志向型ギバーに当てはまるやろ。
こっから先が気になるわ。独り言な。
3月の2作目で分かるね。



コメント