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自分という壁【感想と口コミ】異なるわたしの考え方(東洋的思想)

自分という壁 感想

「自分という壁」この本をご存知でしょうか?

読み終えて、全体的に西洋的思想(枝葉切り法)といった、今ある問題に対処して行く方法が書かれている本だと思いました。

西洋的思想を大切にされている方になら合う良書ですね。

わたし自身は、東洋的思想(根っこ切り法)といった、物事の真理なんて必要のない、個人と向き合い、物事の根本的問題に着目した思想を大切にしていて、読んでいて「本の内容は、私に合わない」こう思ったので、ブログに綴っておこうと思います。

あくまでも個人的な見解です。決して著者を批判するものではありません。価値観は人それぞれ。個人に合う対処法を選ばれた方が良いと思います。共感してくださる方がいれば、幸いです。

※西洋的思想も論理性を重視すれば重要です

目次

自分という壁の感想※ページごとにまとめています

「自分という壁」を読んで、疑問に思ったことをページごとに綴っておきます。

綴ろうと思った経緯は、わたしならこう考えたい、悩みがでない人がもっと増えたらいいな。

こういうわたしの考えがあったから。

考え方、捉え方は人それぞれ。あくまでも、わたしの思ったことを綴っておくだけに過ぎないので、価値観が人によって違うということを認識された上で、読んでください。

※ついでに申しますと、これで批判的な討論をするつもりは一切ないです

知識は疑え。

当然の考えですよね。

立場?関係ないでしょう?思想は自由だから。

著者の知識も、わたしの知識も、自分で納得できる見解を自分で見つけた方がいい。自分の人生だから。

だから、わたしの見識を綴ります。

P31※感謝の気持ちは生まれるもの

「人に感謝する」という信念を持ち、思考を変え、言葉を変え、行動を変え、習慣を変えることで人格が変わり、運命も変わっていくことは、こういうことです。

「自分という壁」P31

確かに、流れはこの通り。

伝えないより、気持ちがこもっていなくても「ありがとう」だけでも伝えた方がいいに決まってる。

ただ、わたしは、「ありがとう」を伝えるのは良いけれど、感謝の気持ちは持とうと思って持てるものでもなくて、感謝の気持ちは生まれるものだと思ってます。

感謝するという信念を持とうとすることは、良いことですよ。

ただ、思うだけでジレンマが起こることもある。

感謝?感謝なんてしたくもない!できない!こういう時期があるかもしれない。世の中全員が敵に見えることだってある。

「ありがたいな」という気持ちを持てる自分になることは大切だけど、ありがとうと思えない、言えないときには、言わなくていいですよ。

思えないときに、自分の思考にアプロ―チかけて「感謝を持とう!」としなくても、自然とできるようになる日がくるから。

そのときまで、自分を労わればいい。

自分で「変わりたい」そう思った先に、感謝の行動「ありがとう」と思える心がくるでしょう?きっときますよ。

P45※相手のことを考えるについて補足

自分の「我」だけを優先させず、なにごとも自分に引き合わせること、「自分が相手の立場だったらどう思うか?」を考えてほしいのです。

「自分という壁」P45

自分が相手の立場だったらどうするか?これは注意が必要ですね。

例えば、「○○と悪く思うかもしれない」という発想は相手に失礼です。バカにしている、下げている感じがあり、敬意が見られないと感じるから。

その思考は相手の思考ではなく、自分の思考であることが分かっていれば大丈夫。

じゃなくて、自分だったら「○○してくれたら嬉しいだろうな」という考えが元で起こす行動ならいいんじゃないですか?わたしは、そうしてます。

ただし、相手は相手で自分ではないので、返ってくる行動に絶対は無い、これを分かっておけばいいんです。


P57※ダメ男やダメ女(三大煩悩が生み出す負のサイクル)

ダメ男やダメ女は、本能的なものだから、気を付けて遠ざけられるものじゃないですよね。

われわれ人間はアホなのです。「無知」は人間が巧みに生きることを阻む毒なのです。

「自分という壁」P57

ここに書かれている「無知」は、好きな人を追い回したりする行動のことですよね?

ダメ男やダメ女というものは、もっと内面的な心に関する問題だと思ってます。

なので、求めてしまう。

こういう状態なので、行動については「無知」だと言えることだけど、それを自分自身でもどうにもできない、心理的に避けられない部分に対して「無知」は仕方がないことかと思います。

それを「アホ」とはどうでしょう?

皆が皆、心の闇に気が付きにくく、自分の行動がどういうものか、自分がなぜそういう行動を起こしてしまっているのか?これを知らないんですよ。本人さえも、気が付かない。それを知らない人が多すぎます。

もっと本質的に自分の内面に向き合わないと解決ができない深い問題だと思います。

本人も葛藤しているかもしれないから。

ちなみに、孔子はこう説いています。

『徳の脩めざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。』

道徳を身に備え、学問にいそしみ、反省も常にしている。それなのに、知っているはずなのに、学んだはずなのに行動できない自分がいる。

わたしだってある、知ってるはずなのに、、、っていうとき。こういうことですよね。

P87※親孝行をしましょうって言う日本の教育が苦手

自分が親の立場になってみると「親ってこんなに大変だったんだな、、、」と痛感すると思います。

「自分という壁」P87

言われていることに、納得はできます。親になってみて、親の立場がようやく分かるとも言いますもんね?わたし子供がいますけど、こういう考え方を伝えてます。

  • 親孝行は無事に産まれてきたらそれで終了
  • 「親孝行をしましょう」っていう日本の教育がそもそも苦手
  • 「親を大切にしましょう」その言葉自体が刃になる人、そう思えない自分がダメなんじゃないかとさえ思う人もいると思うから、強要されるものではない
  • 感謝したけりゃ、勝手にさせりゃいい、親孝行したけりゃ勝手にさせたらいい。嫌いたけりゃ嫌いでいいと思う
  • 親になった私は、親として当たり前のことをしてるだけだから、感謝なんかするな
  • 嫌う、その過程を通ることに意味があることもある、そこからじゃないと始まらないこともある(それが受容になって行くから)

この考えは不変です。

ご飯を食べることができて、家に住めるのは、親がいるからだ。

産んだんだから、当然でしょう?逆にその覚悟がなくて、産んだんですかね?命を何だと思ってるんですか?

って言いたくなる。

親なんだから、衣食住を用意するのはあったり前だろ、子供を守らなくちゃならないんだから。

当たり前のことに感謝しましょうって言うのが言いたいんですかね?

強要させて、言わせて、どうするんだって話じゃないですか?

でましたよ、教養と言う名の強要。

心が追い付かないから、反動が起こる。

わかるんですよ、仏教ですもの「ご先祖様があるから今の自分があることを忘れてはいけない」、「どんな親でも感謝を」よく聞く文言じゃないですか。

それでも命があることに、感謝をしなさい。

(うるせーよ)

そこに意識が向く人、昨今にどれだけいると思います?これ言う人、大体、何にも悩んでない。悩んでたら、言えないって。悩んだ過去があるなら、相手がどういう状態の思考か分かるから。それが分からないから言えるんでしょう?それか悟り開いてるか。
そんなことあります?あの「だるま大志」も手足腐らしたのに?
それとも何?手足腐らして悟り開いたの?

虐待されてる家の子供はこれを理解しないといけないの?

虐待されたことない人は、「それでも親には感謝しないと、、親なんだから。それでも今のあなたがここにあるのは、親のお陰。」とか平気で言う人もいるかもしれない。

だから何?

それって優しさなの?

その言葉、刃ですからね?

刃になんてならない!そういう方がいらしたら、↓この本を読んでください。話はそれからです。

最終的に、「ご先祖様があるから今の自分があることを忘れてはいけない」、「どんな親でも感謝を」ここに到達する人生がいいのは分かるんですよ。成功した先には思えるだろうから。けど、経過をスッとばかして、結論に行かれるこの感じがとても苦手、あぁ苦手、あぁ苦手。

どんな親であっても、最終的に「ご先祖様に感謝したい」「今の自分があるのはご先祖様や親がいたお陰だ」こう思える人生にしていけばよくないですか?

逆に、こうじゃないとおかしくないですか!?

命があることに感謝を。それは、誰だって行きついた方がいい先の話でしょ?けど、どうしても親に感謝できない自分もいる。そんなとき、命があることだけには感謝をしなくては、、、こーんな子ども、何人いると思いますー?わたしの予想じゃ「0(ゼロ)」だよ。

なのに、学校教育ですら、そうじゃない。思えるように育てない。思いなさい、感謝しなさいが先行する。

でたよ、教養という名の強要が。

参観日も先生が「ご先祖様が、こんなにたくさんいます。」。

(だから?そりゃいるだろうね?仰山)

あんなの幽霊、おばけの授業でしょ?これを教えてる先生にも問いたい。「あなたは、ご先祖様に感謝しているんですか?」って。
(絶対してないだろ)
生まれてこの方、「今の自分があるのは、ご先祖様がいたお陰です」って思われた方、何人いますー?

で、先生に聞いてみたんですよ。そしたら「してません、したことありません」って。

まぁ、そりゃそうでしょう。それが普通の感性じゃないですか?教えないといけない立場にある。けど、伝え方がわからない。

今のわたしがあるのは、ご先祖様のお陰°˖✧✧˖✧˖°

こーんなこと、わたしだって思ったことがない。

けどね、賢そうな子が答えてるんですよ。

『ご先祖様のお陰でわたしがいるので、将来生まれてくる子どものためにも、自分を大切にしようと思いました。』

偉いよ。すげー偉いし賢い。授業成立してるもん。

でも、思っちゃう。

何この茶番。

いや、その子は本当に賢いんですよ。課題に対して、的確に答えを出すことができている。これを学んでいるこの生徒は素晴らしいですよ。

そこは分かる。けど、この授業の目的は『ご先祖様への感謝』の授業。

授業聞いてて思うんですよ。

なんで「今の自分があるのは、ご先祖様がいたお陰です」って心から思えるようになるような人生にしていきましょうって言えないの?って。

だから、許せないくらい嫌いな親がいたら、一旦思いっきり嫌えばいいと思います。その行為が受容になって行くから。

それを正当化してるんじゃなくて、その行為がその時の自分に必要ならそれを選択する、それでいいと思うんですよ。

こんな教育してるから、日本の8割がアダルトチルドレンになってる可能性だってある、毒親って言葉が出てくるんですよ。

親は「善」。自分にとってそうかは分からないでしょう?

「善」だけだと教えるから、「善」であり、自分が間違えているんだと思う。それが素直な子どもなんですよ。

他の親がどうだなんて、子どもは知らないから。触れる機会がないから。

親って、大人って、こういうものなんだろうな、、、で終わっちゃう。社会に出て他の大人に触れて、色々な価値観に触れて初めて「おや?」と思えばいい方。思わないで連鎖を生むパターンもある。

ほとんどがこっちじゃない?

P92※嫌いだなという気持ちが必要か不必要か?

必要な嫌悪と不必要な嫌悪を見分けられるように努めることにより、観察力が身に付きます。

「自分とい壁」P92

嫌だなという気持ち「必要」か「不必要」この考えで観察力は鍛えられないと思います。

自分の命や生活を脅かすわけではないにもかかわらず、その対象に対して生まれた嫌悪であったら、たんなる自分の思い込みと妄想だと考えるようにしましょう。

「自分という壁」P92

自分の脳が「嫌い」だと思ったら、もう嫌いなんですよ。妄想でもなんでもない、嫌いなんです。

命や生活を脅かす存在でなくても、嫌いなんだったら、嫌っていいんです。大いに嫌っていいんです。

好き・嫌いの感情は、自分の命や生活に関係のないものです。感情だから。別物なんです。

アドラーで言うなら、課題の切り離しをしたらいいと思います。

「自分の命や生活に関係のないもの」と「嫌い」という感情は2つに分けられます。これが課題の分離。「自分の命や生活に関係のないもの」であれば、それは良かった。あとは感情です。

この場合「嫌い」という感情があるのなら、何で嫌いなんだろう?にフォーカスするといいんです。

例えば、頼る人にイライラしている場合、頼りたいと思ってる自分に気が付いたり、そこで頼るように心がけるようにしてみたりすると、相手の見え方が変わってくる、こういう思考回路の方が観察力を育てるんですよ。

ここに気付くことができたら、同じ人に出会っても「嫌い」と思わなくなってる。そういうものです。

課題の分離、大成功。

P94※スパークリングの考え方

スパークリングで力を入れてくれていたら、わたしなら有難いとさえ思います。

なぜ「Mだけは絶対に許せない」となったのか、この感性がちょっと不明。価値観の違いでしょうね。

P102※喜んであげること

「他人の喜びに対して、あなたも一緒になって喜んであげること」

「自分という壁」P102

喜んであげるの「あげる」の意味がわからない。

ついでに、喜んであげる練習の意味もわからない。結果だけ見るから喜べないのでは?

何かしら手にしている人がいたら、その背景にはそれ相応の努力がある。こう考えると自然と賞賛、リスペクトしたくなると思うんですよね。

西洋的教育になると、こんな感じで「喜んであげましょう」のような教えになっていく。

学校でもそうですよ。

またでました。さっき挙げた「感謝しましょう」と同じやつ。でました、教養と言う名の強要が。悔しい気持ちをしている人への対応を皆が知らない。この現実。そしてどう考えていけばいいかを知らない人まみれ。
喜ぶべきなんです。でました、~べき論っ。

「どこを見るか?」結果じゃなくて、経過を見ればいいんですって。

そして教えたらいいんです。考え方を。

喜びたくない自分がいるのに、無理に喜ばないといけない、喜べない自分がいるのはよくない、こういう思考が自分との乖離を生んでいきませんか?

そうすると、だんだん苦しくなってくるんですよ。

子どもは特に、考え方がわかりません。学校で学ぶことは西洋的思想だから、過程を学ぶことができないでしょう?

考え方の終着点だけ教えるから、どうやってそこにたどり着いたらいいかわかんないんですよ。

親が教えたらいいだろって?その親を育ててるのも日本の教育でしょ?

親も学校卒業してんだし
(それとも何?無就学かしら?)

素直に喜ぶことができない子どもだっているワケですよ。

それなのに「喜んであげましょう!」。こんなんじゃ、喜ぶことができない子は、喜ぶことができないまんま大人になって行きます。

そして、卑屈になっちゃう。

お友達へ素直に「おめでとう」を言うことができる、素直な性格の良い子に育てる伝え方は↓こちらにまとめています。

P105※後輩たちに追い抜かれるYくん

試合でもなかなか勝てず、後輩たちにも追い抜かれる状況にありながら、Yくんはつねに他人の成功を一緒になって喜べる人でした。

「自分という壁」P105

黒帯どうのじゃなくて、楽しんでるだけだと思います。Yくんは。

意識がそもそも違うから、他人の成功を心から喜べる人。

それだけです。喜べる人か喜べない人か、じゃなくて、楽しんでいる人かそうでない人か、その違いだと思います。

色々な面で、そういう人には適わないんです。絶対に結果がついてくるし、人も集まるから。

世の中、そういうしくみになってます。

P121※悲しみも怒りの一種

ちょっと驚かれるかもしれませんが、「悲しみ」という感情は、仏教的には「怒り」のグループである「瞋」に含まれます。

「自分という壁」P121

悲しみが怒りの一種。なら怒りも悲しみの一種ですよね?

私は第一次感情が悲しみで、第二次感情が怒りだと思っています。

トラブルに巻き込まれてもめごとに発展した場合、「おい、なんだよ」と怒って対抗する人もいれば、悲しくて泣きだしてしまう人もいるでしょう。

「自分という壁」P121

トラブルに巻き込まれてもめ事に発展したとして、怒って対抗する人も根底には悲しみが存在してるかもしれません。

怒りにも深層心理では見えない部分が多いと思っています。

状況や性格だけでなく、人の心はもっと複雑で、だから、怒っている人を見て「怒っている」とだけは見ないようにしています。言えないような、悲しみが含まれていることがあるから。

\7つの習慣で言えば、主体性に関わるパラダイムシフトのこと。見え方が変わるんですよ/

怒っている人の怒りについて討論するのが『意味のない20-80論争』だと私は思ってます(本に出てきた、老婆と若い女性の絵、覚えてます?あれです)。20歳じゃない?80歳でしょう?、、、、、この無意味さよ。怒っている人の悲しみに気付きたい。
もちろん、本当に怒ってるだけの可能性もありますけどね。

P125※いつか別れがくる

「いつか別れがくる」ことを意識していた場合と、まったくしていなかった場合とでは、受ける悲しみの度合いが大きく変わってきます。

「自分という壁」P125

出会いがあれば、別れがある、これは摂理ですね。

受ける悲しみの度合いが大きく変わってくるから、別れがあることを意識しておく?

わたしは、「別れ」を意識した方が、受けなくていい悲しみを受けそうで嫌。要するに引き寄せの法則。

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そんなことより今を楽しんだ先に、良い関係を築いた先に、良い未来があると考える方がいいと思ってるから。

人との関係で「別れる悲しみ」にフォーカスしながら生きる人生なんて、まっぴらごめんです。

P126※感情のコントロール

大事なのは理性を働かせ、自分の感情を客観的に見つめること。論理的に物事を考え、「自分の悲しみを手放していくために自分の意志でこれをやっているんだ」と認識したうえで行動すれば、悲しみをうまくコントロールできるようになると思います。

「自分という壁」P126

コントロールと言うより、受容ですよね。気持ちの受容。

気持ちはコントロールするんではなくて、受容して行くものだと思います。

49日の意味は分かります、忙しいですもんね。この間に気持ちの整理がつく。

ただ、49日過ぎた後に、やっぱり悲しみが来る。よく言うじゃないですか、49日の間は大丈夫だけど、それを過ぎてからがしんどいと。

わたしもそうでした。

「自分の悲しみを手放していくために自分の意志でこれをやっているんだ」と認識?

そもそも、悲しみを手放せるかどうかも分からないのでは?傷が癒えるかどうかもわからない、でも、現状を受け入れざるを得ない。この状況が苦しいんじゃないですか?

受容ができないから、受容ができるまで、考える、もしくはその気持ちから遠ざかる。

だから、感情の受容にも種類があると思ってます。

受容がすぐにできるものとできないもの。わたしは全部一色にしていません。受容できそうなものと、できないものの区別は必要だと思ってます。

あと、受容は器にもよります。

考えることができるものについては、対処法を考える。けど、それでも追い付かないものは、一旦その気持ちから遠ざかる選択をする。

無理に受容しようとすると、悪循環だから。泣きたいときには、思いっきり泣きます。

できるだけ寄り添って、感情を飼いならすようにしています。感情はわたしのペットだから。

だから、丁寧に寄り沿うんです。

感情の受容をするために、忙しさで気を紛らわすのも一手。考えることで消化されるものもあれば、忙しさで気を紛らわしながら、少しずつ寄り沿うことしかできない感情も存在する。
いずれにしても、感情には寄り沿って受容していくしか、ないんです。

P143※家族以外の第三者に頼ること

ここでひとつポイントになるのは、家族に頼るのもいいですが、家族以外の”第三者”にも頼ること。

「自分という壁」P142

第三者とは?家族以外の第三者に頼るのも手だけど、わたしは自分の考えをある程度決めてから聞いてもらうようにしています。

結局、自分の周りは自分と似たような波長・価値観の人が多いはずだから、Aの回答が欲しければ、恐らく同調してくれる。

それ(同じ回答になるだろう)を分かった上で、客観的に聞くようにしてます。

それを自分が分かっていないといけない。同調の意味を。同調してくれた!やっぱり正しいんだ!じゃなくて、それによる冷静な判断は自分でしなくてはいけない。

そうすることで、考えが整理されることがある、違う見解が見えることもある、むしろそれ目的(考えの整理、違った見解のひらめき)です。

ここを注意したら、尚いいですよ。

P167※仏教での諦めとは?

仏教では、煩悩的なことは全部諦めたほうがいいと説かれています。食欲、性欲、権力欲、金銭欲。そういった欲望を手放していく、つまりは諦めていくことができてはじめて「覚り」に近づけるのです。

「自分という壁」P167

わたし、仏教での諦めって、明らかにするの意味だけだと思っていて、願望を手放す(欲を無くす)とはまた違うと考えてます。

物が溢れた昨今では、欲を無くすのは不可能に近いのでは?

煩悩に振り回されないように、小欲知足、制御しながら生きるの意味合いだと思ってます。

次の年も、その次の年も失敗して、2浪、3浪とくり返していくのはいかがなものか、、、。その大学はこの人にとって、本当に必要なものではなかった、ということではないでしょうか。

「自分という壁」p169

進学にしても、現状を理解して、そこから考え直せばいいと思うんですよ。

2浪しようが3浪しようが、その人にとって必要な努力だったのなら、それはそれでよくないですか?

それを大学はこの人に必要なかったと他人が決めつけることなのかな?と。

それは本人が思うことであり、周りが言うことではないですよね?

無理に現状受け入れて、欲を消して行くんじゃなくて、自然な形で欲求を満たして行くのがいいと思っています。

成長に伴う欲ならあっていいモノだと思う。

自分なりに満たした先にあるのが他者貢献じゃないでしょうか。

自分が満たされて、自然と人に貢献したくなる。泥船に人を乗せても沈むから、まずは自分が満たなくちゃ。

ただ「足るを知る」ように、自分を知っとかないと強欲ってことになっちゃうから、欲にも注意が必要なんでしょうけれど。

P171※明石家さんまがお手本?

プラス思考のかたまりのように見えるさんまさんの生き様は、絶望を感じている人たちにとって、またとないお手本になるのではないでしょうか。

「自分という壁」P171

明石家さんまが絶望を感じている人たちにとってお手本?ちょっとよく分からなくて。

会いたいんだとしたら、その人の絶望の地点にもよるのでは?

だって、絶望感じてる人が、全員明るさを必要としているか?って言ったら違うと思うから。絶望からは絶望しか見えなくて、そこから、ちょっと上を向いてみようっていう、前を向いて1歩歩いてみようという気持ち、ちょっとした明るさから段階が必要でしょう?

P180※羨みについて

羨みは、自分より優れているものを見たときに生まれるものであり、自分より劣っていると感じたものには抱かない感情ですよね。

「自分という壁」P180

自分より劣っていると感じたものには抱かない感情。

比較するのではなく、自分もそうなれるように努力すればいいとありますが、そもそもが、自分より優れているものを見て生まれる、劣っているものを見ては生まれない感情

ここに問題があって、着目すべきは「羨み」そのもの。

なぜ、その羨みは生まれてしまうのか?ここにも着目した方がいい。それが東洋的思想の在り方。

思ってどうするか?が西洋的(枝、葉切り)であるなら、思ってしまう原因は何だろう?ここにアプローチして行くのが東洋思想(根っこ切り法)。

違いが分かってきましたか?

P181※掃除しなければいけない

気になったから書きますが、「掃除しなければいけない」。

「しなければいけない」

この発言、「~なければならない」がとても気になりました。

したくてしているのではないのですかね?

P183※とても私には耐えられない

宇宙船の中で命の危険と隣り合わせになりながら生活するという現実を直視したら、「とても私には耐えられないな、、、」ときっぱり諦めることができました。

「自分という壁」P183

「私には耐えられない」

わたし、この手の発言はしないように気を付けています。

それを一生懸命されている人に失礼だから。

「こういった状況を乗り越えて、ようやく宇宙飛行士になれるんだ」なら分かる。

P194※他人があなたをどう思っているか?

「あなたが自分をどう思っているか」ではなく、「他人があなたをどう思っているか」を知らなければ、この差を埋めることはできません。

「自分という壁」P194

「他人があなたをどう思っているか」

自分がどうありたいか?でいいんじゃないですかね。

冒頭で、アドラーって、、、、

他人があなたを、、承認欲求に思えてしまって、アドラーを支持しているわたしには、ちょっと受け入れがたい文言でした。

著者も本の冒頭でアドラーと書いているのに、不思議。

仏教がアドラー心理学に似ているのではなく、アドラー心理学が仏教に似ているということです。

「自分という壁」P20

P198※自己肯定感が高い?低い?

潜在的な自己肯定感が低いにもかかわらず、「自己肯定感を高く保とう!」と表向きの自己肯定感を強引に引き上げている人は自惚れやすく、俗に言うナルシストになりやすい傾向が見受けられます。

「自分という壁」P198

自己肯定感どうのって話よりも、自己受容が大切だと思うんですよね。

それナシに自己肯定感は無くて。だから高いも低いも無いでしょう?

アルかナイかだけ、じゃないですかね?

ちなみに私は自己評価の低い、自己肯定感のある人です。

自己肯定感は、後付けで補うことができるかもしれないけれど、それは物質的なものによるものだろうから、それに頼って内面に向き合っていく(引き上げ)のも一手だとは思います。

P201※カメラと有名人

大半の方々は「私は修行しました!」と得意げにカメラに収め、もう一度社会からの信用を取り戻したい―そういった算段で動いているからです。

「自分という壁」P200

そもそもが自分を良く見せたい目的で来ているんであって、謙虚に見せようとしてカメラと来てないと思ったんですよ、この人たちは。

「利用されるか、されないか」の判断でいいと思うんですよ。

お寺としてのあり方じゃなくて、ソコ一択じゃないでしょうか。個人的見解ですけどね。

だって、せっかく有名人が来ているんですよ?善行されているなら、宣伝にもなる。

「自分の行いを見直したいと思うなら黙ってやればいい」

まぁ、それはそうですけど。

そこをどう捉えるかは知りませんけど、宣伝になれば、お寺の存在が知れ渡るワケです。

救われる人が増えるではないですか。わたしはそういう考え方をしています。

算段で動いているとしても、そのような行いは天から見らているのではないでしょうか?

「算段として来たものが許せない」VS「算段だろうと宣伝になるのなら、宣伝してもらった方がたくさんの人が救われる」

どちらを取ります?わたしなら後者を選択します。救われる人が増えるから。

P202※コンプレックスの克服

コンプレックスを抱えているからこそ、それを克服しようと謙虚に努力するのでしょう。

「自分という壁」P202

コンプレックスの克服なんて、そもそも必要ないと思うんですよ、わたしは。

受容して、それをどうするかは本人の問題で。

向き合うのは大事だけど、それ含め自分だし、とわたしは思ってます。

P208※同情?

同情とは、、

他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように親身(しんみ)になって共に感じること。かわいそうに思うこと。あわれみ。おもいやり。

goo辞書

とあります。

他人の気持ちや苦悩を他人が分かります?

わたし「わかるよ」って言葉だけでも不快に感じるタイプだから、絶対「気持ちわかるよー」なんて言わないようにしてます。

すぐ思っちゃうから、「あなたに何が分かるんですか?分かってたまるか!」と。分かるワケないじゃないですか、辛さが。本人じゃあるまいし。

賛否両論ありそうですけど。

理解して寄り添うって、ことは同情することじゃないと思ってます。

「気持ちは分かりようがないけれど、側にいることくらいならできる、笑いたいときには一緒に笑いたい、泣きたいときには泣いたらいい、側にずっといるから」わたしはこういう思考でいます。

P209※相手に寄り添う?

「育ってきた環境があまりに良くなかったのかな」「おそらくご両親の躾の問題であって、この人の責任ではないはず」「なにか精神的につらいことを抱えているのかな」などど考えるようにするものです。

「自分という壁」P209

「食事のマナー、言葉遣いが乱暴なのは、親の躾がなってないだけで、この人の責任ではない」ということは、親のせい?

どっちにしても誰かの責任になっている、、これって寄りそう考え方なんですかね?

人の振り見て我が振り直せ、これだけでいいと思います。内容が食事や言葉ならば。

けれど、人にやさしさを向けられない人がいる。そういう人の背景は、考えたりすることがあります。今が、そういう状況ではないんだろうなって、人にやさしくできない時期なんだろうなって。

P211※ぼそっと嫌味

とくに日本人に多いのは、あえて相手に聞こえるようにぼそっと嫌味を言うケースです。

「あ~あ、ここは公共の場なんだけどなぁ」

「そんなことをするなんて、どういう神経をしているんだろう」

「自分という壁」P211

そんな嫌味な人、います?

P223※自転車という例えが分かりづらい

例えば、目の前に自転車が置いてあったとします。

この自転車は、あなたの外側にあるのか?それとも内側にあるのか?このように問われたら、たぶんほぼすべての方が「外側」と答えることでしょう。ところが、じつはその自転車は、自分の「内側」に存在するものなのです。

「自分という壁」P223

自転車の例えが分かりづらい。

この世は幻想。

こういうことですよね。

例えば「相手が○○と思ってるに違い無い」そう自分で思ったとき、これは相手の思考でしょうか?自分の思考でしょうか?

答えは「自分の思考」です。

そういうことです。あなたが今想像している相手のことは、全ては幻想かもしれない。

あなたが、そう思えば現実はそう映るし、そう思わなければ、どうとも映らないんです。

だから、周りで起こること、目にしたモノを良い方に受け取ることができるといいですよね。あれやこれやと考えては妄想しない、相手の考えが知りたければ聞く、自分はどうありたいか?これだけでいいと思います。だから私はいつもこう思う。
思いたいように、思え。

これがアドラーの言う「目の前の人を信頼する」に値することだと思ってます。

P248※人生は辛い?

人生とは、つらく苦しいものです。

「自分という壁」P248

そんなこと無いと思います。

苦行もあるかもしれないけれど、やりたいと思ったことができる、目標を定めて頑張ることができる、悲しみもあるけれど憂いもある。

だから楽しいんです。

自分という壁※感想と口コミのまとめ

西洋的な面の多い本だったかなと個人的に思います。

諸刃の剣的な対処療法としては、良書です。

ただ、西洋的思想であれば枝葉切り法になるので、木と同じでまた生える。

理論を分かりやすく伝えるとですね。

取り掛かりとしては有効だけど、心に余裕があるのなら、ゆっくりと東洋的思想な解決法へシフトされてみたらいいと思います。

その方が格段に生きやすくなる。繰り返さないから。

だって、根っこを切りますからね。切ってから、土台作りができる。自分の育てたい木を植えることができる。

対処療法的な手法を好む方には向いている本だと思いますが、わたしのように根っこから改善したいという方には向いてないと思います。

※ただし、論理的思考方である西洋思想も大事です

あと、わたしは、煩悩が悪いとは思ってません。

この物が溢れた時代に、煩悩無くすって無理筋でしょう?あって当然のもので、自分の煩悩に向き合って、振り回されなければよくて、その煩悩のエネルギーをいい方向に変えられるように生きるのがいいんじゃないですか?

煩悩を良いエネルギーにするんですよ。

煩悩無くすって、永年できない可能性の方が高いでしょう?手足腐らして出家します?

他者貢献への近道として「煩悩」(成長に伴う欲)は利用した方がいいと思ってます。

だって、皆、思考の行きつく先(満たされる先)は「他者貢献」だと思ってるから。

アプローチの仕方が違うだけで。他者貢献の仕方は人それぞれなだけで。マズローの5段階欲求と同じ理論。

出家でもして、他者のために尽くすのか、煩悩によって自身を満たした後に(小欲知足)、他者貢献があるのか。行きつく先は同じだと思われます。

けど、出家って、、

先に誰かのために犠牲になるような生き方を選択するなら愚痴るなって感じだし、見返り求めるなって感じだし。それができるようになるまでに、何十年かかるんだろう。何百年?生きてるうちにできる自信ありません。手足腐らしてまで悟り開く自信もないし。そんなことするくらいなら、先に自分を満たした方がいいかなと。

泥船に人乗せても、それは沈む。

全部個人的な見解だから、お前何言ってんだ?ってあるかもしれない。

それはごめんなさい。

けど、疑うことも大事だと思う。わたしの見解も全て。

わたしは、どんな形でもいいから、人は人の為に生きた方が幸せを感じやすいんだと思ってます(その為には自分が先に満たされないと)。

どんな形でもいいから、目指す先はそこなんだろうなって。

そんな感じ。でもそこに犠牲があったらダメで。

そこに到達できるように普段から感情に着目するのは大切なんじゃないでしょうか?

  • 今、どう感じた?
  • 今、どうしたい?

心に沿うように、生きるのがいい。

自分という壁 感想

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