わたしには子どもがいます。
運動会での名物、全校リレーと学年リレー、足の速い子は選ばれたいですよね。
全校リレーを狙う子、学年リレーを狙う子、たくさんいると思います。
自分の子どもが選抜リレーに選ばれると、運動会に行くのもワクワクしますね。
でも、惜しくも選抜リレーに選ばれなかったり、毎年全校リレーだったのに、学年リレーの選手になったと悔しがったりする子、色々じゃないですか?
そんなとき、どんな声掛けをされていますか?
この記事では、子どもが将来大きくなったときに、周りの仲間に心から「おめでとう」と言えるようになるような伝え方を書いています。
その思考が、きっと子どもを将来成功へと促すから。是非、参考にされてみてください。
選抜に選ばれなかった※心からおめでとうと言える素直な子どもに育てる伝え方
頑張ったのに選ばれなかった。悔しいですよね。
それでも理想であれば、親としては、お友達や仲間に心から「おめでとう」と言える子になってもらいたい。
その悔しさを劣等感として埋め込むんじゃなくて、賞賛に変えて、おめでとうの先に努力があった方が、成功しやすいと感じるからです。
だからわたしは、↓こんな風に声掛けしています。
こんな風に伝えることができたら、子どもが将来大きく成功に近づくと思います。
全校リレー、学年リレーに選抜された人たちは、日ごろ、陰ながら小さな努力をしている人たちなんだよ。人がゲームをしている間にサッカーボールを追っかけてたり、バレエ習ってたり、家の周りを走ったり、腹筋や腕立てをしている人もいる。そういう努力があるから選ばれる。あなたも努力をしたら選ばれるかもしれない。もし、努力をして選ばれなかったとしたら、選ばれた人は、あなたの倍努力してた証拠。だから、その努力に「おめでとう」だよ。
クラスに苦手な人もいると思う。けど、その苦手なあの子だって、サッカーボール蹴ってる。努力がある。だから、その子が選ばれても、それも「おめでとう」なんだよ。
こうやって伝えると、不平不満出ないんですよ。
「おめでとう!」わたしよりも沢山努力してるってすごい!
そっか、苦手なあいつだって、学校帰ってから汗かいてボール蹴ってんだもんね。
こうとしかならないんです。
たとえ親が劣悪でも、子どもはそれなりにやっぱり努力してる。普段どんなに威張ってようが、やっぱり頑張ってることに変わりはない。
ついでに、こうも伝えています。
何か努力してるの?って聞いて、何もしてないよって人がいると思う。そういう人は、努力を努力とも思ってない人。楽しみながらしてる人だから、そういう人には適わないものだよ。
絶対に、揉めないんですよ。
揉めないどころか、娘は選抜リレーに選ばれたお友達を絶賛しまくるので、お友達からお礼を言われる始末です。
そして、努力をすれば報われることも学ぶ。
人も集まる。
『自分という壁』という本に↓ありました。
「他人の喜びに対して、あなたも一緒になって喜んであげること」
「自分という壁」P102
わたしは、「~してあげる」の意味がわからないんですよ。多分、結果だけ見るから喜べないのでは?と思うんです。
何かしら手にしている人がいたら、その背景にはそれ相応の努力がある。こう考えると自然と賞賛、リスペクトしたくなると思うんですよね。
こんな感じで「喜ぶことに意味ががある」みたいな教えが、わたしはとても苦手です。
学校でもそうなんですよ。
喜びたくない自分がいるのに、無理に喜ばないといけない、喜べない自分がいるのはよくない、こういう思考が自分との乖離を生んでいきませんか?
なんか、自分責めませんか?責めると苦しいから、何かしら手にした人妬んじゃうことありませんか?
この乖離が人生で大きな影響を及ぼして行く。つまりは成功から遠ざかる考え方になって行く。
自分の中にある「悔しさ」をまずは、消化、力にしないと。
喜べる人もいれば、喜べない人もいて当然なんですよ。
素直に喜べる人もいれば、喜べない人もいて当たり前
「喜んであげましょう」「おめでとう」と言いましょう。
こういう教えだと、素直な子ほど、思うかもしれない。
喜べない自分は悪い子なんだろうか、、、やっぱり喜ぶべきだ。
そうすると、この「ベキ論」が、大体自分との乖離を起こして苦しくなってくるんですよ。
生き方、育てられ方が違うんです。親も違う。
劣等感も違うんです。素直に喜べる人もいれば、喜べない人もいる。
皆が同じ状況を同じように喜べるとは限りません。当たり前ですよね。
けど、伝え方・考え方で変わるものがあるんですよ。
「どこを見るか?」結果じゃなくて、経過を見ればいい。そして教えたらいいんです。考え方を。
将来、どういう考え方をしていたら、成功への道が近くなるのか。子どものために良い影響を与えるのか。
だから、経過を見て伝えてみる。
色々な人が理解できるように伝えてみる。
例えば「何もしてないって言ったくせに、あの人毎日走ってるらしいよー、してるじゃんね!」とか言うお友達もでてくる可能性だってあるじゃないですか。
出たとしたら、教えられてる娘が言うんです。
努力を努力とも思ってないから、何もしてないって言ってるんじゃない?楽しんでいる人には適わないってママが言ってた。好きでやってると、ぐんぐん伸びるんだってー。
こういう伝え方をしていると、子どもも悩まないんですよ。
劣等感も持たないんですよ。
あ、そうかっ!そうなんだ!て素直に聞いてくれるんです。
その子にとって、その努力は特別なことでも何でもない。日常生活の一部になっちゃってるんですよ。ただ、楽しいだけ。努力じゃないんです。
こういう思想に触れる機会がないと、ないまま、どういう考え方をしたらいいか?がわからないまま大人になっていきます。
考え方がわからないから。
こんなことで、親が妬んでたら、その妬みを子供が自分に植えこんじゃう。
この劣等感にすら気が付かないで生きてしまう。その弊害たるや。
大人になっても「努力してないとか言いながら、陰でコソコソしやがって。」こうなる可能性もある。
嫌でしょ?なりたくないでしょ?こんな卑屈な大人。
ところで、選抜リレーに選ばれたからと自己肯定感が育まれると思います?
選抜リレーに選ばれなかったからって、自己肯定感に影響はない
たまに学校側の配慮で、「普段自己主張がない子どもに自信をつけるために、速くなくても選抜する」という考えで選ぶことがあるじゃないですか。
一理分かる。けど、わたしはこう思います。
選抜リレーに選ばれたその1年が、人生にどれほどか影響及ぼすと思います?
きっと、自己肯定感は育まれないですし、影響も一切及ぼさないと思う。
だって、、
小学生って、勝つことに拘りやすいから、速くないのに選ばれた場合、避難が飛ぶ恐れもある。
そっちの方が怖い。
ごいごい抜かれてみてください。1位からビリに。
こんなもの、素直にタイム勝負で選んだ方がいい。
他に速い人がいるのに、選ばれた頑張って走る子を『一生懸命、応援しましょう』も無理のある教育でしょう?
他に速い人がいるのに、選ばれないそのことに不満があるのに、無理でしょう?
普段の発表だとか、そういうものでスポットライトを当てるとかなら分かる。けど、これは実力勝負のリレーだから。
理由を聞いたときに、
『あの子は、普段前に出てないから。』
こういう理由で子どもが納得すると思います?
選抜リレーで前にでない!?ってなに!?
わたし、毎日足上げやってたのに!?
なんであいつなの?あの子なの?これは付きまといますよね。
大人社会でも全然ありません?こういうヤツ。よく聞く話です。
プレゼンで、自分じゃない仕事のできない人が選ばれたとして、上司に理由聞いたときに、、
「君は実績十分で才能があるけれど、あの人は普段前に出ないので、ちょっと自信を付けさせようと思って。今回はごめんなさい。」
で、納得できます?普段から一生懸命、この日のプレゼンのために資料集めて残業して遅くまで頑張ってきたのに。で、プレゼンの結果、何だこれ?っていうクソみたいなプレゼンだったら(ひっこめよ、断れよ、譲れよ)。
会社の方針なら仕方がない。
わたしは、これで一応割り切ることができるんですけれど、それでもちょっと解せません。
しかも、勝敗の分かれる運動会だから勝ちたいし。当然でしょ?
お前、おっせー!!!お前のせいで勝てねぇ!
こういうの、歯に衣着せぬでモノ言うのが小学生ですからね。そういうもんでしょ?低学年なんてザラでしょ?素直だから。
そういう余波まで、読まないと。
そんなこと言う子どもの方が悪い!って思う人もいるかもしれない。
けれど、それが小学生でしょ?言いたいことを自由に言っちゃう年齢。
選抜リレーに選ばれるために、普段一生懸命頑張ってた子どもの方が、選ばれなかったことで自己肯定感が削られる可能性の方が高い。
こう思うワケです。こっちの可能性の方が高い。
頑張っても掴めないものもある、これもまた学び。
比較があるから、かけっこ自体を無くす学校も聞きますけど、比較があるから自分が分かる。
比較無くして、どう育つんですか?
比較を劣等感にしなければいいだけの話だと、わたしは個人的に、そう思います。
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