前記事で『心配されたい』について言及したので、今回はそれを掘ってみたいと思います。
『心配されたいの無意識』って考えたことあります?
それを見極める術、持ってます?

実は、こんなことがあってね….
持ってない人たちは、みんなその“演出”にまんまと引っかかる。



大丈夫?
無理しないで。
言いたいときは、いつでも言ってね。
ときには….



それは、あっちが悪いよね、こういう風にすればいいんじゃない?



ありがとう
実は、この間もね、こんなことがあってね….



え?ひどいね、それ。今度は別な人?大丈夫?



はい、ターゲット捕獲。チョロい、チョロい。
はい、演出大成功。
犬も食わない、茶番が成立。
——で、これを繰り返す。
それ、ただの“構ってほしい劇場”のワンシーンの可能性。
って考えたことあります?
けど、それに巻き込まれるのも、巻き込まれないのも自由ではある。
現実に見える問題は、すべて“枝”にすぎない


木の幹は1本。なのに、『えっ、それって全然違う問題じゃない?』って思わせる枝っぷりが凄すぎてー。
見事なまでの自己演出劇場へようこそ。
- 『行動がバラバラ』に見える理由
- 『心配されたい』から始まる分岐図
- 症状に踊らされる支援者たち
① 『行動がバラバラ』に見える理由
体調不良、急な寝込み、人間関係・環境の相談、意味深SNS投稿、謎のかまってライン……。
これ、全部つながってる視点、持ったことあります?
まるで違うように見えて、ぜ〜んぶ同じ“根っこ”から派生してるだけ。
で、その根っこって何かというと——
『心配されたい』
もはやシンプルの極み。
本人は自覚してないかもしれないけど、



ねぇ….私のこと気にして?
って言いたいだけだったりする。笑
それを毎回、違う衣装で演出。


昨日は体調不良、今日は人間関係、明日は『誰もわかってくれない!』『誰にもわかってもらえいない!』系。
警鐘なりまくりだよ?
この変幻自在さ、もはや芸人レベル。
でもね、“演出”であることに気づかないと、こっちが一緒に踊らされる。
② 『心配されたい』から始まる分岐図
さぁ、ここからが本題。
あなたも一度は関わったことがあるはず——“心配されたい族”。
この人たちの行動、フローチャートにするとこうなる。
ステージ1:入り口



ねぇ、最近具合悪くてさ….
人間関係が辛くてね….
私、ダメなんだよね…
つまり、
でも、それだけじゃ終わらない。
ステージ2:反応チェック
- 優しくされた → よし、もっといける
- 反応が薄い → 情緒不安定or泣く
- 無視された → SNSで“意味深ポエム”投下
反応によって“脚本”を変えてくる、この柔軟性よ。
脚本家として生きていけるんじゃない?
↓()は、そういうSNSを見たときの、わたしのブラックな心の反応です。
被害者ぶりっこ型(誰かを刺してるけど、名指ししない)
沈黙って、時に一番大きな裏切りになる(単に既読スルーだろ)
結局、気づいてくれないって、そういうことなんだよ(どういうこと?てか何の話?)
→ 誰のことかは言わない。けど、誰か気づいて?って空気は全開。
→ 『どうしたの?』って言ってくれる人を待ってる。
意味深ポエム型(メンヘラ寄り)
心は今日も、居場所を探してる(GPSつけろ)
笑顔って、嘘つくためのマスクだったりする(そうなの?N95くらい性能良さそう)
→ 哲学っぽく書いてるけど、中身ゼロ、ただのかまってちゃん系。
(書きたいなら、生きるとは?まで掘って書け、文字にしろ、自分の見解を述べろ)
→ 名言っぽいけど、言葉のエネルギーが重たい。
匂わせ反撃型(遠まわしに怒ってる)
信じてた分だけ、痛い(勝手に期待して爆死)
もう笑って流すことにした。流せるようになってごめんね(誰も見てないし、謝る相手も不在)
→ だれが悪者かは明言しないけど、フォロワー全員が審判席。
“私って不思議ちゃん”型(逃避スタイル)
泡になって消えたい日ってあるよね(泡になれ)
誰も見てなくていいのに、誰か見ててほしいって思う矛盾(ややこしいタイプってよく言われない?)
→ 詩的装いで自己逃避。けど本音は注目されたい。
→ タグは大体 #深夜のポエム #病み垢さんと繋がりたい
引くかもしれないけど、まぁ、これくらい思っちゃう。仕方ない。浸りたい気持ちも分かるけど、もっとストレートな方がスッキリ読める。
誰も見てなくていいのに、誰か見ててほしいって思う矛盾、だったら、



誰か気にしてーー!
の方がいいよ。
ステージ3:慢性化
もはや構ってもらうこと自体がルーティン化してくる。
- 相手に過剰依存
- 共依存ループ突入
- 『助けてもらえない自分』アピールに移行
- SNSで『誰にもわかってもらえない』シリーズ連投
こうして、『心配されたい』っていう小さな芽が、立派な構ってモンスターへと進化していくのです。
おめでとうございます(拍手)!!!


あなたが作ったモンスター爆誕。
まぁ、軽くこうなる。
③ 症状に踊らされる支援者たち
で、問題はここから。
その行動の裏に『根っこ』があるって知らない人たちが、純粋に助けちゃうの。



大丈夫?
そっか、辛かったね。
無理しないでね。
って。もちろん悪気はないんだろうけどさ。
でもその“優しさ”か何か知らないけれど、地雷なんだよね。
なぜなら、演出が成功してしまうから、すぐ捕獲される。
演出が成功するとどうなるか?
答えは簡単。
次のシーンが用意される。
ずっと公演が終わらない、エンドレス感情ミュージカル。


しかも、『助ける側』が真面目な人ほど深みにハマるっていうね。
『自分がなんとかしなきゃ』って思っちゃう。
あとは、助ける側も『ほっとけない』『かわいそう』『頼ってくれてる』こういう問題抱えちゃってる系だと、どの道、終わらないループの共依存爆誕。
そして最後はこうなる。



あれだけしてあげたのに、全っ然っ変わらない!!
いい加減にしたら?
って、爆発。
…うん、そりゃそうでしょ。
“本人に変わる意志がない”ってとこ、最初に見抜けなかったんだからさ。



自滅だよ。お前もいい加減にしろ。
引き受けが足りてないんだよ、つまりは理解が足りてない。てことは、支える器量が足りてない。そういうことだな。甘んじて受け入れたら?
『問いたくない自分』が、すべてを複雑にする


行動?感情?いやいや、問題は『問い』から逃げてる時点で始まってる。
『なぜそうなったのか』を自分に問えない人ほど、他人に答えを求めがち。
で、関係がどんどんカオスになるから。
- 『なぜ?』と問えない理由
- 『助けて』と言う人の二種類
- 『力になれるか?』の見極め指標
① 『なぜ?』と問えない理由
ここに尽きる。
『なぜ自分はこうなったのか?』と問うのが、怖い。
だって、その『なぜ』に答えたら、自分のせいかもしれないって気づくからね。刃が自分に向いてしまう。
もうその瞬間、言い訳できないし、誰かのせいにできない。
つまり、自分の人生のハンドルを自分で握ることになるわけ。
でもさ、ハンドル握るのって、責任重いから。
『事故ったら自分のせい』って話になる。
ダルいでしょ。楽したいじゃん。
だからみんな、助手席に座ってハンドルだけクレーム入れる係になりたがるの。



運転荒い!でも私は運転しないの!右曲がれ!次、左だって!
っていう謎スタンス。
結果どうなるか?
他人に丸投げした人生を送りながら、口癖は、



あの人がいなければ、あなたのせいで、何でわたしばっかり…



——知らねーよ。
けど、そういう状態がある、っていう理解だけはあるけどね。つまり、問いたくないんだろ?っていう理解。了解。
で、運転を自分でしてない自覚すらない人もいるから。
むしろ、そっちの方が多いんじゃない?



ハンドル?何ソレ。
そこからどうするか?って自分に問えばいいわけでね、わたしの場合は一切関わらない選択をする。
だって、運転とは?から説明しないといけなくなるでしょ。そして数日後、運転のことすら平気で忘れてくるからね。定跡と千日手を繰り返すのよ。



運転くらい自分でしたらー?
え?ハンドル知らない?へーー
っていうね。
② 『助けて』と言う人の二種類
さて、ここ重要なとこ。
一見すると『助けて』って言ってる人、同じに見えるでしょ?
でも、全然ちがう。
大事なのは、“その人が何を求めてるか”。
タイプ1:本気で助けを求めてる人
→ 問おうとしてる。
→ 向き合おうとしてる。
→ 怖がりながらも、自分の責任に気づき始めてる。
こういう人は、関わる価値ある。変わる可能性ある。
タイプ2:誰でもいいから心配されたい人
→ 問う気ゼロ。
→ 被害者枠を譲る気なし。
→ 『わたしは悪くない、あの人が….』って言いながら、そこから一歩も動かない。
助けてあげたら?
→ 次の日、数日後には『また同じことで困ってる』って戻ってくる。
③ 『力になれるか?』の見極め指標
さて、ここからが現場判断のポイント。
ただ『かわいそう』『助けたい』で関わると、情緒ドロ沼パーティーに招待されるだけだから、見極めが命。
①『自分に問えてるか?』
本人が『なぜ私はこうなるんだろう?』って、自分に向けて問いを立ててるかどうか。
ここ、最初に見る。
問いが出てない人は、“自分を原因と見る視点”がまだないから、支援しても響かない。
言い換えれば、まだ“演出モード”から抜けてない。
②『本を読む力があるか?』
これ、馬鹿にできない。
読書って、抽象化と内省のセットだから、“自分を見る視点”がある程度育ってるかの指標になる。
読書しないタイプでもいいんだけど、『言葉で考えられるか?』=自分をメタ認知できるかって視点は重要。
③『他責の傾向は強いか?』
『全部環境が悪い』『あの人が悪い』って言ってたら、危険信号。
世界を責めて、自分を守ってるだけだから、支援したところで、『なんであんた変えてくれないの?』って恨み買うのがオチ。
最後にひと言
『力になれるか?』って、その人の“現在地”が見えてないと無理。
あと自分の力ね。
自分自身も巻き込まれない土台がないと、いつの間にか“支援”が“奉仕”になって、ただの情緒消耗戦になる。
つまるところ、自己犠牲型ギバーの到来ね。
もっと言うなら、『自分が、力になれるのか?』と問えないとダメなんだって。
それを問えないと、何も見えない。ミュージカル開幕。
『自分が助けたいから助けるっ』て言葉は、自分軸がちゃんと存在していて、自立してる人が言える言葉なのよ。
わたし流で言うと、



どの身分で誰が言ってんだっ
てなるからね。気を付けてね。
問題の本質を見る力とは、“読める目”のこと


見えてるものだけを信じると、だいたい間違える。
本質はたいてい、『そこじゃない』ところに隠れてる。
読めるか? 騙されずに。流されずに。埋もれずに。
- 『目の前の事象』を過信するな
- だからこそ、自分の足場が必要になる
- 『巻き込まれる自由』すら、自覚せよ
① 『目の前の事象』を過信するな
遊具が危ない?
怪我が多い?
泣いてる?怒ってる?情緒グラグラしてる?
——それ、全部“演出”かもしれないよ。
いや、別に本人がウソついてるわけじゃないの。“潜在意識が勝手に作ったシナリオ”って意味。
そして厄介なのは、その物語に本人も本気で入り込んでるってこと。
『これは現実だ』と思い込んでる。でも、実は“心配されたい”という動機が裏にあるとしたら?
たとえばね、何度も怪我する子がいるとする。
周囲は言うわけ。



あの遊具が危ない!
先生が見てなかったんじゃないの?
って。
でも実は、
『怪我=注目される手段』として機能してる可能性がある。
“痛み”が“関心”に変換される構造が、もうそこにある。
でも、ほとんどの人はそれに気づかない。
見えるものだけを見て、『じゃあ遊具を撤去しよう』『先生を増やそう』と動く。
結果、問題の“脚本”はそのまま。舞台装置だけ変えて、同じ演目を繰り返してる状態。
そして次のシーンでは、また別の形で“怪我”が起きる。
脚本は変えずに、演出だけを変えてまた開演。
怪我だけなら、まだいい。
けど現実は、この構造があらゆる人間関係、あらゆる相談、あらゆるトラブルの中に潜んでくる。
見えないものを、どう読むか。
読めないなら、永遠に『舞台の裏側』に立つことはできない。踊らされる。
まぁ、体感で9割超えが踊らされてるけどね。大なり小なりさ。そして愚痴ったりしてるでしょ。表面の言葉だけ拾うから、こうなるだけの話で。
② だからこそ、自分の足場が必要になる
これがね、流されないために必要な装備。
『自己一致』って、地味だけどめちゃくちゃ重要。
自分の感情が、自分の中でちゃんと整ってると、目の前のカオスに流されにくくなる。
他人の感情や言葉や涙に『え?』『マジで?』って揺れずに、“読む”ことができるようになる。
そのためには、自分の“船”をちゃんと持ってないと無理。
- 自分の感情が何によって揺さぶられるのか?
- 自分が“正しさ”に飲まれやすいタイプなのか?
- 罪悪感で動いてしまうクセがあるのか?
——そういう“内なる構造”を、知っておくこと。
自己理解は、他人を読める力に変わる。
③ 『巻き込まれる自由』すら、自覚せよ
『騙されるのは嫌だ』
『共依存に巻き込まれたくない』
そう思ってても、実は“巻き込まれたい願望”があることもある。
- 誰かに必要とされたい
- 力になりたい
- 『あなただけがわかってくれた』って言われたい
……って思ったこと、1回でもない?それが“巻き込まれる自由”の入り口だよ。
言われると、思われると確かにうれしいと思う感覚も分かる。
ここを分かりながら、あえて巻き込まれようとするなら、いいと思う。ただ、これも相手によるよね。
そう、『問えない人』だけじゃない。
“問いたくない自分”も、同じくらい存在してるという事実ね。
それすら自覚しないで支援側に立つと、まんまと吸い込まれて終わる。
堂々と『支援してます!』って顔して、実はただ、感情の取引ゲームに参加してるだけになる。
でもね、問えないなら、それも人生。
苦しみもループも、ある意味“その人の物語”として尊重していい。
だからこそ、他人の人生に介入するなら、自分の位置は常に見ておけ。
“読める目”って、そういう話。
全部見抜けなくてもいい。ただ、“読もうとする目”を持てるだけで、人生は変わるから。
まとめ
というわけで、現実に見えている“問題”って、案外ただの感情演出のショータイムだったりするんですよね。
本人が自覚してないことも多いからこそ、なおさらタチが悪い。それに尽きる。
で、それに気づかず優しさという名の共演をしてしまうと、あれよあれよと感情劇場のレギュラーキャストにされるから。
体感で9割以上が気づいてないパラダイムかな。
脚本?もちろん相手が書いてるし、こちらのセリフは全部アドリブ。
休演日なんてないから。
だからこそ必要なのが『真実を読める目』。
泣いてるから不幸とは限らないし、怪我してるから助けが必要とも限らない。
それを知らなくちゃ。けど、相手は不幸と訴えてくるし、助けが必要と訴えてくる。優しさがあると、そこに付け込まれる、そして見切ろうとすると叫ばれる。抉られる、それでもそこから抜け出そうと思えるかどうか?そういう境地も存在する。
けど、そこを抜けない限り自分の人生が歩けない。
それ、ただの“かまってスクリプト”かもしれないという事実。
大事なのは、『わたし、今この舞台に乗せられてる?』って気づけることだと思う。気づいてれば、少なくとも、持ってかれないから。
つまり、泣いてたらハンカチを差し出す。怪我してたら絆創膏を差し出す、それ以外のことをしないという選択ができる。付き合ってらんないのよ、つんまらない、自己正当化の愚痴にさ。
愚痴るなとは言わないよ。自覚持てって言ってるだけの話だからね。



こうなるとさ、仏教の『空』って何となく意味がわからない?すべては幻想の意味。どう意味付けするかは自分次第。だから、この世の中を、自分の人生をどう見て、どう歩いて行くか?
何となくぼんやりと分かるだろうか?
“意味”なんて、最初から世界に備わってないでしょ?これが分かる?
あるのは出来事だけでしょ?どう意味づけするかは、自分の中の解釈装置の問題でさ。何が真実か?それを自分で見極めないといけないんだと思う。どっちが幻想なんだろうね?と思うこともあるじゃない。
あったのよ、わたしは。認めるのが怖かった。
けどさ、心理学とかあらゆる知識から学んで見ても、9割以上は真実を知らないまま生きてる可能性の方が高いと、わたしは自分で答えを出したの。
これに気が付いたときの衝撃に耐えられなかったんだよ。認めるのが辛かったけど、認めざるを得なかったんだ。だから、涙が止まらなかった。けど、これは、わたしの話だから。


感情劇場に巻き込まれる人は、『目の前の感情を“真実”だと思っている』。
でも、それはただの投影で、意味づけの結果でしょ。
このメタ視点が持てないと、一生『客席で泣いてるつもりが、気づいたら舞台に立たされてた』ってことになるんだって。
このブログでも、ずっと言ってることなんだけど、気づいただろうか。わたしは、こういう風に理解してる。
けど、『多分合ってる』それくらいだから。
この記事でも言及してる。全部つながるんだよね。バラバラだと思うでしょう?


『自分の力を過信するな』、書いてある。全部つながるんだよ。串刺しだ。あなたの周りで起こってる問題は、実は何から来ているのか?まぁ、エネルギーバンパイアの記事は枝葉向けの記事になるんじゃない?
基本は、枝葉の理解がないと、根っこ教えたところで何語だよ?ってなるから言えないのもあるんだって。言えない理由は、他にも色々あるよ、そんなこと言われても……っていう拒絶とかスルーもそうだし、問題を問題と認識できる力がないでしょ。
今、ここまで来て、見えてくるものがあるでしょ。
変われなかった自分がなぜ変われなかったのか、いかに、変えられないものを変えようとしていたのか、問題を見ようともしていなかった自分が見えないかしら?見えていたら、無駄にはなってない。
だから、他人じゃなくて、自分に問いを向ける記事を書いていた。
前知識とは枝葉のことだよ。
課題の分離、自己理解のような技術の記事は、枝葉というより、剪定側の記事だと思う。
自分を整えないといけないから。そこに、成功の法則とかの人生の地図を投入してたんだって。
この記事は根っこ側になると思う。
問題を取り扱っている二ーバーの祈りの記事とか、あぁいうのは枝葉に該当する。
そして、演出を見抜く力と、自分の足場(=自己一致)をしっかり持つ。
じゃないと、他人のシナリオに余裕で人生持ってかれる。
あなたは誰の舞台に立ってる?
それとも、自分の脚本、書けてる?
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