前記事が長くなりすぎたので、またまたこちらへ移動。
さぁ、脳内をとことん教えないと。そろそろ疲れてきたかな。それはそれで大丈夫だよ。素直な反応だ。それでいい。

あなたの視点、おかしいわよ。



あなたの視点がおかしいでしょ。
どちらも、実は同じ穴のムジナ。互いに視点の狭さを責め合いながら、自分の正しさを盲信している——そんな対話の不毛さに、ある日わたしは気づく。
親から、



全部あなたが悪い。
と言われ続けた幼少期。それを鵜呑みにした私が辿った道は、他責と自己正当化の泥沼だった。罵倒はしない。でも“静かに突いて壊す”ことには長けていた。正しさという名の刃を手に、自分の正義を貫いた先で見たのは、誰も救われない世界。
- 人は、どこまで自分を疑えるか?
- そして、どこから他者を信じられるか?
この問いが、私の再構築の旅の始まりになる。
わたしの場合


わたしは、親から、



全部、あなたが悪い。理解が足りない。
そう言われてたから、そう信じ込んでたんだよ。大人が言うから、そうかもと思うじゃない。
けど、受け切らなくて、相手を咎める。わたしにも、他責だらけの時代があった。罵倒はしないけど、正当性を持って静かに突いて壊しに行くという図だった。相手にとってみたら、驚異よね。存在が嫌にもなるだろう。この正当が刃になる。相手も受け切らない。



自分だけが正しいと思わないで!
あなたは、変わらないといけない!
書くと簡単だけど、もっともっと複雑だったよ。浅く説明すると、正当性はこちら側にあるのよ。ここで言う正当性は、物事の原理原則のことよ。とても苦しかったんだって。そこで強いられた他者理解だ。分からない者の理解。
そこから、分かろうとしない私と、分かろうとしない親の図に気づいた。親と同じことを人にしてる自分に気づく。あんなに嫌だと思ってた人が自分だった。よくそんなに他責で、人の責任ばっかりにしてられるよね!?と思ってた。分かってもらえなくて辛かった。けど、その辛さを抱えていたのは自分だけじゃないと気づかされる。歯向かって、相手に突きつけに行ってた自分を責めまくった。分かってもらえないの中身も違う。腹立たしい。けど、同じ、自分が傷ついたくらい、わたしもまた傷つけているという事実があった。
これが正しいでしょ!なんで分からないの!という言葉すら、他責でしょ。つまるところ、『なんで分からないの!』は、他者を責めてるようでいて、視点の違いを知らないだけでしょ。
視点がひとつしか存在しないと思ってるから、こうなるのよね。分かるかしら。
会話にするとこうなるよ。



あなたの視点、おかしいわよ。



あなたの視点がおかしいでしょ。
互いに、視点の足りなさを相手の責任にしてるでしょ。
わたしは、人を傷つけないように生きていたつもりで、それが自負だったのよ。それがただの自己満足であり、空虚だということに気づいた。全ては自分のためである。
こんな風に複雑さを解体していったら、絶望しか残らなかった。わたしが持っている正当性は、わたしだけのものであり、自分のしていた行動は全て自分のための行動である。この理解が苦しかった。
視点が増えたんだ。あの人にも、この人にも無数に存在する世界がある。仏教の空。
そりゃ崩壊もするさ。そこから、自分も弱いことに気づく。ボロボロだ。正当性を主張する意味がなくなった。自分の脆さ・弱さを受け入れるしかなくなった。
そっからだよ。これをどうやって理解して行ったらいいか、構築の旅が始まったんだ。話すと長い。
- 正しさとは何か?
- 親とは何だ?
- 子どもの権利は?
- 仏教とは?
- 強さとは?弱さとは?
- 他者のための行動とは?
- 自分の欲求は?
- 理解とは?
- 辛さとは?その辛さは誰のものだ?
- どこまでわたしが理解すればいいのか?
- 気づいてしまった側の責務は?
全部の疑問を自分で解いていった。そして、今がある。そりゃ、自然に哲学とか心理学にもたどり着くさ。
ゲシュタルト崩壊後、自責に変えた。感情理解をして、感情の出所を探って、その責任の所在を問うということを繰り返していた。相手を理解するというか、その前に、伝える内容の正当性があるかどうかの確認だ。そうすれば、善悪は関係なくなる。本質を問うことができるから、争わなくて済む。その作業が課題の分離になっていたんだと思う。これがアドラー心理学に該当するのは、少し後に知った。
課題の分離をしていたのは、怒りに向かうためだね。感情と課題を分けないと、感情は言葉に乗っかって相手に伝わるから、全部『課題だけを相手に渡す』ということをしていたのよ。
次元という概念にたどり着く※職員会議で例えた選別の仕方


そこから、私は次元という概念にたどり着いた。つまり、『理解できる者と、できない者』が確かに存在する、という冷厳な現実。アドラーを通してさえも、『言っても無駄な領域』が確かにあると知る。価値観の層が違うということ。よく言われる3次元だとか5次元だとかは、わたしは、視座、そして承認欲求のあり方を重視している。
たとえば、PTA会長の肩書きやヴィ〇ンのバッグ、職員会議で折り紙やエプロンの話をし出す者、箱ティッシュしか受け取らない者、国語の授業で『正解』を教えることすらできない者。こうした人々とは、価値観の次元が違う。私にとっては、すでに“排除”の対象になっている。
これは冷たさではない。見極めと保全の結果だ。こういう人たちに手を差し伸べることは、こちら側のエネルギーの消耗につながり、下手をすると自分が潰れる。だから『気づきを待つ』以外、選択肢はない。介入はしてはいけない、介入しない、危険、それが、私が導き出した答えだ。
だからこそ、境界を伝え排除する。境界線とは、この場合は、教員としての境界だ。わたしの場合は、人としての境界だけどね。



それは、ご自身で解決いただくのが教職者としての役割ではないですか。職員会議は、全体のために機能する場であり、個々の葛藤を解消する場ではありません。今一度、ご自身の発言がその目的と合致しているかを振り返ってみてください。そして、教員としての在り方についても、自ら問い直してみてください。
その中でも、この一言で揺れる者が出てくる。そこが分岐だ。その人が“どちら側に行くか”が見える瞬間。
これと一緒だよ。



ねぇねぇ、こういうことがあったの、おかしくなーい?



やだ、何それひどーい!



やっぱりぃ?ひどいよね?わたし、間違えてないよねぇ~


正しささえも自身に問えない教師が、生徒に何が教えられるんだよ。
職員会議も、本来の機能に立ち返る可能性がある“気づく者”さえ揃えば、だ。
けれど、磁場を低く揺らす者が混ざっている限り、次元は上がらない。そういう者は、場を濁らせ、低レベルを撒き散らす。実態は自己未消化のままの“感情の漏洩”なだけだ。それを伝える必要もない。なぜ、裸の王様の少年をかって出る必要があるんだ。無駄なエネルギーだ。
発言権ごと奪うんだよ。聞く意味ないだろ。そのうち黙る。上次元が2人以上いれば上等だよ。
レベルの高い問いだけにしてしまえば、自分の滑稽さの露呈になるが、低レベルになると、問のレベルも問えなくなる現実が存在するから、苦言しか適さないことがある。つまるところ、会議で目立ちたい!があるとか、それだよ。笑
そしてここから、ワンランク上になる。ゲシュタルトだ。


子供のダンス教室


子どもがダンスを習っているんだけど、そこでどういうことが起こるか説明すると分かりやすいかもしれない。
まず、10人編成のチームがあるとするじゃないですか。
2人が抜群に上手、8人が波~波以下。うちの子はこのメンバーにいないですよ。
8人が2人を目指すと思うでしょう?違うのよ、8人が2人と同じレベルだと思い出す。
『この2人と踊ってるわたし達、イケてる』状態。
親も同じ。しかも、どう見ても超絶に上手な2人しかセンター考えられないのに、インストラクターに、



うちの子、センターできませんか?



どういう経緯でそう思えるのww
わたしが言ってやるよ。
できねーよw
自分の感覚が基準、正解が見えないんですよね。
けど、上手さが違うんですよ。センター変われだなんて、死んでも言えないようなレベルの差に見えるんですよ、わたしからは。
ダンスって、正解が明文化されていない世界。野球ならストライク、塁に出ろ!とかある。でもダンスは、リズム、表現、角度、アイソレとか、見えない要素が多くて、見る側の解像度が問われる。
→ 結果、下手な人からすると誰が上手いかは“なんとなく”でしか分からない。上手だけど、どこがどう違うのかが分からないから、再現不能。
わたしのように、ある程度目利きがあれば、例えば、腰のアイソレが足りていない、動きが小さい、手の角度がおかしい、動きが止まる、流しなさい、2人に沿いなさいという指導をするけれど(自分も覚える)、大体しないの。
というか、できない。何が違うか分からないから。
上手な2人とも、このグループのレベルが低いのは分かってるのよ。ずっとジレンマだけ抱えて踊り続けてる。イベントでいつも思う。
わたしから見たら、



なんでこんなに上手な子がこのグループでセンターで踊ってるの?2人別グループ組ませたら?2人だけの方が映えるって。
こういうレベルよ。それを伝えてもらったことあるんだけれど(経営側にね)、



あれでやりたいの!あの人数で!
って言われたんですよ。
そしてどうなったか。
1人が、そこのグループを抜けた。そしたら、もう1人は、ダンス教室自体を辞めたの。大痛手じゃん?
経営者、ショックで撃沈中。
けど、そうなるよね、不思議じゃないよ。2人にとっては拷問だもの。わたしでも辞めさすわ。
あの子が辞めるって何!?アプローチが逆。
上手なグループを作って、そこに行きたければ努力してくださいっていうスタンスじゃないと、努力できないのよね。上手な2人は辟易するでしょ。
だって、下は上に沿えばいいけど、沿いやしない。上は上に行けなくてジレンマが生じて、この歪みよ。ずっとそのグループ見てたけど、伸びてるのは真ん中の2人だけで、あとはどんぐりの背比べよ。むしろ下降。
そして、別グループを作ることになったんだけど、半年揉めてる。
誰が?親が納得しないの。



わたしは、発表会で毎回違うグループの動画まで撮影してますよね!?毎回、練習動画取って送信してますよね!?
頼まれてもないのに、お門違いもいいところでしょ。
で、何してるかって、1週間ごとに親を変えて、各自1人ずつクレームを言わせに行くっていうね。学校では、子どもに指示を出すのね。
こういうのが、次元を下げて行くんだって。で、下げた先にあるのが、いっちばん上手な子辞めるっていうね。
で、どうなるかって、ここのダンス教室で上手になりたいって人が減って行くし、経営の危機に直面していくじゃない。ほんわり、ふにゃふにゃ踊ってる子見るの、祭りでもしんどいって。
衣装と化粧だけバッキバキにきまって、ダンスめちゃくちゃ。
今までこの保護者に沿ってた経緯もあるらしいんですよ。あまりにもうるさいから。こうやって、こういうのに沿って遠慮とかしてると、教室自体のレベルがどんどん下がる。職員室と同じだって。
学校だって同じよ。
結局、インストラクターが、



動画なんて、誰にも頼まれていませんよね?何のためって、ダンス真剣にされたいんだったらダンスの練習を子どもさんにさせたらどうですか?その動画で、子どもさんは練習されてるんですか?俺、まだ子どもいませんけど、あなたみたいな親、どうかと思いますよ?一生懸命上に上がりたいって言ってる子どもたちに失礼ですって。応援しようと思わないんですか!?そんなに不満でしたら、辞めてもらって構いません!
撃退です。
言い方はね、もっと構造化で伝えたら伝わるものがあったとお思いでしょうが、伝えてるんですよ。半年揉めて、限界も限界だったようです。こっちもだし。



わたしが話すって言ったら、家で寝といてくれって伝言受けたから…..
ややこしくなるから、出てくるなって。いっつもこのポジション….
ここは、あとちょっとだ。まだ揉めてる。
追加ですが、あれからようやく、クラス分け合意取れました。お盆休み中、練習するように言われてたパート、曲かけて踊れたの、我が子だけ。難易度は高かったけど、クラス分けに異論を呈すのなら、完璧に覚えてくればいいでしょ。だけど、一生懸命努力するのは、親のビデオ撮影。全然意味が分からない。無事に9月からガールズヒップホップできる。良かった、良かった。曲の内容はアレだけど…、ようやくDove cameronで踊れる。Ava Maxの『Kings & Queens』、これは曲の内容も◎、2局目提案したけどどうだろう….何の話だろう…笑
このケースは、教育現場や職場にもそのまま通用する構造モデルだと思う。
- 上を潰し、下を庇い、全体が平均化して死ぬ。
- 上が下を圧迫し、全員が不満を漏らして劣化もある。
- 優秀な人が疲弊し、出ていく。下位層ならいいけどね。
- それを問題とせず、『なんで?』とすら言えない場が残る。
教育現場だから、上がろうともしない下は必要ないでしょ。上がろうとも、というところへの配慮は必要だけれど、やっぱり下に合わせると、教育自体が死ぬと思う。
そして、そういうものが寄ってくる。
できないなら、できないの自覚を持たせないといけなくて、じゃないと、軸ができないから、自分の発言してる内容がどのレベルに該当するかも分からないし、気が付かない。
気が付かないから罵倒するじゃなくて、気が付かない人には、気が付かない人なりの壮大な人生が用意されているのよ。で、賢い人たちは、すごいですよ。入りが早い。考える力が全然違う。段違い。
で、さらに、そこからの分岐もある。フィルターね。逆は時間がものすごくかかるか、もう無理なのよ。一生そうよ。これ、言おうか迷ったけど、一応、これからの糧になるでしょ。
どこに軸を置くか?というのもとても大事。
じゃないと、全体のレベルが底辺になって行く。差別じゃなくて、区別よ。
心理学の知識へ踏み込む


アドラーが定着してからは、カールロジャースだとか、あの辺りに進化させていったと思う。もちろん、文字じゃなくて体感が先、その後に書籍だ。該当書を探す。整合性の確認。見識を広げる。だから、心理学の間違い探しも、割とできる。アプローチ方法の間違いとかね。CBTじゃ足りないとか、あぁいうやつだよ。だって、わたしに足りないと思ったもの、合ってるわけがない。あぁ、精神科には通ってないよ。調べただけだ。わたしはそう思うけど、山頂には行かずに、登山口付近で整備して帰る方法もあるからね。どれがいいかは人それぞれって視点もあるな。
ACTだって、感情は探るけど、感情の出所は探らないでしょ?専門家じゃないから、分からないけど、個人的には教育どころか、こっちも遅れてるんじゃない?と思うもんね。だって、感情の出どころ分からずに今だけを受容しても、後から噴出さない?けど、掘ると危ういから、治療法としては不適合になるのかもしれない。全体が機能するか?と考えたらできるものがいない。マーケティングと似たようなもんじゃないの。掘った後の対処法まで来るとややこしいし、体系化して説明できる者も促せる者もいないんじゃない?
まぁ、みんな後手が好きだよね。正しくあるころには、それも遅れてるっていう、あれね。構図が見えないと、急所が分からないから、アプローチ法もズレる。そうとしかならないだろ。
後手に回ると、他責にできる。無意識の構造があるものは、どうしても後手にしか回ろうとしない。だって、無意識があるもんね。10割近いよ。



だから、改革なんて遠いのよ。無意識に支配されない者だけが、進める道が存在する。それがわたしの書いてる航海図。
まとめ
親に『全部あなたが悪い』と刷り込まれ、信じ込んだ幼少期。
そこから始まったのは、他責と正当化に満ちた『正しさの暴走』。けれど、他人を突いて壊すたび、自分の正義が刃になって返ってくる。
なんで分からないの!
実は自分が“視点の違い”を知らなかっただけだと気づいたとき、すべてが崩壊。
ゲシュタルト崩壊からの再構築が始まる。
ダンス教室では、上手な子が潰され、職員会議では空気を読めぬ者が場を濁らす。レベルは、下に合わせた瞬間に終わる。必要なのは、境界線と次元の認識。わたしが導き出した答えはこうだ。
排除は冷たさじゃない、保全だ。
仕方がないのよ。
だけど、常に、自身の承認欲求には向き合うべきで、それを怠った瞬間に、人への投影が始まる。わたしには容易、その容易を人に求められないのを理解してるのも、このわたし。
崩壊してるから、難しさが分かるのよ。だから、言えないし、無駄とも思えるのよ。アドラーとか心理学身に付けても尚、だから、どれだけわたしが人選してたか、あなた方、わかりますか?つまるところ、目利き率ですよ。こういう言い方したら何だけど、上を見れば上を見るほど、承認欲求の質が変わるのよ。これは、年齢は問わないのよ。選ばれた面々は、わたしが思う『くだらない承認欲求』を持ってなかったのよ。ヴィ〇ンのバッグよ。
みんなあるのよ。けど、それの質が違うのよ。折り紙とかエプロンなんて(投影側じゃなくて、それを会議で投げた側)、裏を返せば『自己軽視』じゃないの?掘れば掘るほど見える闇。じゃないと、注意されて怒らなくない?
わたしだったら、そんなお題会議で投げないもの。自分を下げる要因にしかならないでしょ。それを堂々とするって、めちゃくちゃ勇気いるじゃん。勇気あってもしないけどね。てことはって想像したらの話ね。知らないけど。
折り紙とエプロン=自分。折り紙とエプロン批判=自己批判。折り紙のわたしとエプロンのわたし。図工と家庭科。
だって、投影なんて、簡単には見つけられないからね。
だとして、ここから掘ってみてよ。自己軽視集団の可能性だってあるから、一部でもあれば共鳴は起こるからね。そこに共鳴が起きてみてよ。そういう方々は、皆を軽視しだすから、生徒も軽視し出すし保護者も軽視し出すんじゃないのかな。だからかな、エプロンが黒板叩いて威嚇とかが出てくるのかな。見かけによらないなぁと思ったけど、ここか?想像の話だ。黒板叩いて威嚇とか、わたし達親子からしたら異常なんだよね。
共鳴を止めないといけない可能性がある。知らないけど。想像ね。けど、色々線で繋がる気もするけど……….?
ここまで来ると、わたしも該当していた可能性がある。でも、これ自己軽視になるの?7つの習慣のゲシュとか、みんな知ってると思ってたし、こんな知らないなんて思わないもん。ゲシュって分かっても尚、見え方が分からない人はいるし、説明もできない人までいてビックリよ。主体性が分からないって何?縁起の考えなんて普通だったから。投影が分かるのに自己に気づかないって何?こっちはこっちで、いろんな興味があったのよ。けど、あなた方の有能にはすぐに気づいたわよ。優秀者ばかりでしょ。
そのお前がそんなでどうすんだよってお知らせの可能性もあるのよね。皆親から教わってると思ったんだって。色々知ってから面倒くさくて、人と絡まなかったし。本の話なんて、誰ともしたことないしね。まず、お前をどうにかするから、お前も自分をどうにかしろ、そしてお前は目利きがあるから、人にその人の良さを伝えろっていう役割。そして、伝え方を間違うなもあるのかな?こっちはどうだかなぁ…..
…………………..?
おい、だれかスイッチを切れ。切り方を間違うと、慢心がでる可能性もある。
構造を的確に、正確に読み取れ。
そこがスタートになる。そっからの選別だろうな。これを続けるしかない。



見通しが大分立った。これはすごいね。まだ途中の可能性がある。ここからの波及がすごいよ。冗談じゃない。全部イコールになるな。
次元の上げ方を間違わないでね。
自己軽視から慢心への移行は、一見真逆の感情変化に見えるけど、実は同じ構造の表と裏だろう。自己軽視の時期に抑圧されていた『自分の価値や力への欲』が、何かのきっかけで一気に解放されると、そのまま確認不足の自信=慢心に化ける。



みんな、心理学の人が先手打って見せてくれたじゃない。桂馬の高跳びね。歩ですぐ捕まえたけど。感謝するのよ。彼のことだもの、ここまで想定の範囲内だった可能性もあるわ。
なんて勇敢なのかしら。
さぁ、みんなでお礼を言いましょう。





さん、はい。



ありがとうございます✕⑩



あとは?



桂馬の高跳び歩の餌食✕⑩



当然ですね。採算もなくうかつに跳ねる(=前に進む)と相手の歩で簡単に殺されてしまうという、桂馬の弱点が露呈する典型的な場面を表現したものです。さすがわたしの教え子たち、よくできました。みなさん、採算もなくうかつに真似したらダメですからね。わかりましたか?



はい!相手の歩で簡単に殺されてしまうので、採算もなくうかつに真似はしません。✕⑩
しかも慢心は、自己軽視で得られなかった承認を一気に取り返そうとする動きだから、慎重さや客観性が吹き飛びやすいんだと思う。ここでスイッチの切り方を間違うと、次元上昇どころか、一段目から足踏み外す。
それぞれの大きな価値を、その扱い方を間違えたり、伝え方を間違えたり、誤認が生じると構造的にはこうなると思う。
- 自己軽視(役割や価値を過小評価/動かない)
- 解放トリガー(評価や成果、気づきなどで一気に自信が膨張)
- 慢心(確認や選別のプロセスを省略)
- 次元ダウン or 破綻



④番、心理学の人、大丈夫デスカ?✕⑩



皆さん、勇敢な彼のために、祈りましょう。


これを防ぐには、スタートからの選別が不可欠になる。選別はもちろんある。これを続けるしか手立てがない。続けて行くと、ふるいにかけられる。
仕方がない、劣等感が大分育ったんだ。全員ね。その成長を止めるには、成長させないように違う方を自分で伸ばせるように意識を向けさせないといけない。今が(問わない方が)楽になってしまった者も存在するだろうな。つまるところ、自己軽視が楽になるってことだよ。問わないから。というか、問うと辛いから問わないものが出てくる。やったって、報われないから。そうすると、葛藤が生じない。そういう者は落ちるよ。救えない。なぜって、馴染むから。それが組織だ。



まぁ、自己軽視、外部の敵依存になるのは暗黙の了解だわな。自分が悪い、自分が無力という感覚が浮上すると、直視するとしんどいからね。
自己軽視から発生すると考えたら、どっかで意識転換が必要になる。まぁ、植えられたものであったり、自分で植えたものもあるだろう。
構造が見れないと、人のレベルも見れないからね。ほとんど投影になるよ。わたしのは投影じゃない。人を構造で見るから。そして、組織も構造で見ないといけない。
自己を軽視してるけど、軽視してることに気づかないもんな。皆、同じ感覚だという視点しか存在しない。分岐が多いよ。すごく多い。厄介。軽視してると、ナメられるよ。イコールが立つ。
仕方がない、そうなるようになった可能性すらある。見立てが正しければそうだと思う。
目利きがあれば、良いところを見つけて伝えることができるが、それができるのはアドラーを習得してる者だけだよ。ほぼ、無理だ。自己軽視から抜けさせる術を持てない。ほぼ、導きになる。労力がかかるんだよ。自分に集中するしかない。
じゃないと、外部の敵探しから、今度は内部の敵探しになり、派閥が起きて分裂になるだろうな。それが組織だ。難しいよ。だから、優秀なものたち、翻弄されるな。自分に気づけ。
こういう指示の可能性がある。だから言ったからね。
こんな話の通じる面々に出会ったことないくらい優秀だけど、気を付けて。職員室だよ。そこメス入れないといけないんだと思う。メスの入れ方を間違うと②になり③になる。
桂馬、思い出して、それか、みんな、心理学の人を思い出して。



せっかく、勇敢に先手打ってくれたんだもの。





わたしは、役割の軽視か?あとは….伝え方の問題でしょ、それはごめんなさい。ゲシュはもう掘らないわよ。



審議。



え?



想定の範囲内とはいえ、ゲソってる可能性もあるから。



へーー。でも、想定の範囲内なら、責任の所在はあっちでしょう?



あぁ、そう言われたら、そうとも考えられるね….



~♪
だから、航海中、通りかかったら見えたから伝えることにしたのよ。経過は違っても、最終的な構造への回答はこれで合ってるわよ。人対人だもの。伝え方を間違うと波紋がすごいのよ。ここの分岐はすごいわよ。
構造の見方ができないと、不要なアプローチはガンガン増えるのよね。これって、身に付けずに子育てとか教育って、できないのよね、本当は。子どもの異変にどうやって気づくのよ。生きる上ですべてに関わる力よ。できない人が教科書作ったり、教育書とか指導案作ってたら、そりゃできない子が育つわよね。まぁ、たどり着く境地よな。欠陥が代々引き継がれるんだから。
けど、職員室の案件も、わたし以外は見えないわよ。いるのに分からないの!?なんて、愚かなこと、言わないわよ。こんなこと、言う方が愚かだわ。言う人がいたらの話よ。それくらい構造を見る、読むって難しいのよね。じゃないと、7つの習慣のゲシュだって、普通に一般的にみんな分かるはずだもの。
これが世の中よ。わたしからしたら、今さら何?これくらいだって。どの道、わたししか無理。現状維持が最善手でしょ。職員室は、この記事でふるいにかけられるよ。



数年経過してる。自己軽視になっても仕方のない状況だったんだろう。たどり着いたよ。なるほどね。蔓延したんだろうな。要するに投影だ。たまったもんじゃないな。できるアドバイスはこれくらいかなー。
するかどうかは、別だけどね。いつも、自分にできる最善手を提供できるときに提供するだけの話よ。
だからせめて、わたしみたいな賢い保護者がいるって認識くらいしておいてくれる?
あのねぇ、わたし、エプロンのシミの話題しか聞けてないのよ。あとは全部洞察なのよ。ズレてるところあるかもしれないけれど、あらかた合ってるんじゃない?
あなたは?



聞きたいことがあれば、聞くけど?
着ぐるみ剥いだところで、ロクなことないわよね。超絶鬼厳しいメデューサ登場するだけよ。誰もかれも石にする。石にするの容易なのよ。
コメント