認知不協和こそ、心の筋トレ※やさしさが止める“挑戦”のブレーキを外す方法

例えば….

『これ、やってみたいんだよね!』ってワクワクしながら言ったのに、その3秒後に『……でも、失敗したらヤバくない?』って、脳内の“やさしい警察”がサイレン鳴らしてくる。

『これ、やったほうがいいかな』って、相手のために動きすぎて自分が疲弊……

別に誰にも迷惑かける予定もない。

それなのに、“挑戦”という文字を思い浮かべただけで、全力でブレーキを踏んでくる。相手の期待に応えないといけない呪縛にかられてとことん限界まで動いてポシャリ。

そして出てくるセリフがこれ。

  • 自分が失敗して(自分のせいで)、誰かに迷惑かけたらどうするの?(お前はどうしたいの?)
  • ちゃんと結果出せなかったら、期待を裏切るんじゃない?(お前はどうしたいの?)
  • 相手の迷惑になるんじゃない?(それは相手が考えることだよ)
  • こんなにしたのに(尽くしたのに)…..(それ、頼まれたの?で、やるって決めたのは誰?)

……いや、思ったより“やさしい”….いいえ、とても自分に“不誠実”じゃない?全部軸が相手だもの。

誰の人生、生きてる?

しかも、これって誰かのためっぽく見えて、実は自分の評価も気になってる。『いい人でいたい』『迷惑かけたくない』『見放されたくない』──ああ、これ、ギバー特有の自分への呪いだったりする。

このロジックに気が付いていればまだ、マシ。

そう、アダム・グラントの名著『GIVE & TAKE』によると、人間には『与える人(ギバー)』と『奪う人(テイカー)』と『バランスを取る人(マッチャー)』がいる。

で、ギバーは親切で優しい。けど、つい自分のことは後回しにしがち。自覚があればいいけど、なければ悲惨。自覚がないと他責になるから、人を責め出す、それか自責が過ぎて潰れる。

その『他人へのやさしさという名の自分への不誠実』が、行動のストッパーになってることあるし、人生を樹海の森へと導いてしまう。

今日はそんな、『やりたいのに動けない』『人生樹海の森』という、あなたのために、アダム・グラントが提唱している『心の筋トレ』のお話です。

目次

動けない“やさしさ”の正体

  • 行動を止めるのは『他人を思う気持ち』?
  • やさしさが自己不一致を生むとき

① 行動を止めるのは『他人を思う気持ち』?

『やりたいけど、やっぱりやめとこうかな』と、あなたが立ち止まるとき。その理由を一度じっくり観察してみてほしいんです。

多くの場合、そこにあるのは、

  • 迷惑かけたらどうしよう
  • 失敗して誰かをガッカリさせたくない

という、他者に対する“やさしさ”のようなもの

でもその感情の奥を、さらに深く掘っていくと──

  • 迷惑をかけて、色々言われたくない
  • いい人だと思われたい
  • 見放されたくない

…実はそれ、相手のためのように見えて、自分の“評価”を守るためのブレーキになっていることがあります。

アダム・グラントの言葉を借りるなら、これは“ギバー”特有のジレンマ。

人のために動くことが多いギバーは、自分を犠牲にする形で『他者への優しさ』を優先する傾向があります。わたし調で言えば、『他者への優しさという名の自分への不誠実』。自己犠牲型ギバーの典型。

けれど、やりたいことすら『迷惑かけるかも』『相手が嫌がるかも』で止めてしまうなら、そのやさしさは行動を奪う“呪い”になってしまうかもしれません。

② やさしさ(仮)が自己不一致を生むとき

『自分はこうしたい。でも、やめておいた方がいいかもしれない。』

この瞬間に起きているのは、他人への“気遣い”ではなく、自分の本音とのズレ──つまり“自己不一致”。

そして、その不一致を繰り返すと、自分の人生を自分で生きていないような感覚に陥っていく。

ここで大事なのは、『優しさ』が本当に誠実なものかどうかを自分に問い直すこと。ここで言う誠実は、自分への誠実。

誰かを思って動けないとき、その感情はあなた自身の『評価されたい』『嫌われたくない』という恐れに根ざしていないか?

やさしさは本来、行動を促す力であるはず。

それが“足止め”になっているとしたら──そのやさしさ(仮)は、自分に誠実ではないかもしれません。

本当に大切なのは、『自分に誠実でいること』。それが結果として、他人にも誠実であれる唯一の土台です。

認知不協和と“心の筋肉”

  • 違和感=成長のサイン?
  • 『手放す』ことは自分を信じる力
  • どの部分が心の筋肉を鍛えるのか?

① 違和感=成長のサイン?

『やりたいのに、動けない』
『やらないと決めたのに、気になってしまう』

──こんな風に、内側にズレやモヤモヤが生まれるとき、それは“認知不協和”のサインです。

でも、実はその違和感こそが、『今、あなたの心が筋トレ中』である証拠。

アダム・グラントの提唱する“心のレジリエンス(回復力)”の理論では、以下のようなプロセスが成長の鍵になるとされています。

  • 自分の感情に気づく(自己一致)
  • 思考パターンを疑う(スキーマの更新)
  • 新しい視点で再解釈する(認知不協和の解消)
  • より柔軟で誠実な選択をする(アタッチメント理論)

これって、まさに“心の筋肉”の鍛錬。

つまり、『ああ、今ちょっとツラいな』『どうして疲れるんだろう』に気づくことに、意味がある。

筋肉痛があるから筋肉が育つように、違和感があるからこそ、感情と行動の一致が育っていく。違和感にも気づけないなら、もう…..そこ、どこ?地図で言えば、歩いてんの砂漠じゃない?たまに都合のいい蜃気楼見たりして走ってくやつ。それ、消えるやつ。
わたしで言う、ポジティブ(蜃気楼)探し。意味ないと思う。

② 『手放す』ことは自分を信じる力

  • 状況が悪くても、“このままでは終わらない”と思える力
  • ネガティブな現実を否定せずに、“その中に希望の芽を見出す”力

『このままじゃ終わらない』と思える強さ。それは、“希望を捨てない力”ではありません。“状況の意味を自分で引き受ける力”のこと。

たとえ現実がネガティブでも、『今ここにあるこの経験の中に、未来へつながる何かがある』そう信じることができるかどうか。

これが、アダム・グラントの言う『心のレジリエンス』だと思う。そして、わたしが実践している“心の筋トレ”の正体。

ネガティブ想像で『感情の未来予測』をする

例えば、あなたが何かに挑戦しようとしているとする。でも、不安が押し寄せてきて、動けなくなる。

そこでわたしは、あえて『悪い結果が起きたら、自分はどう感じるか?』をひたすら想像します。仏教でいう『三毒(貪・瞋・痴)』のオンパレードです。笑

三毒を無くすんじゃないの、見るの。ただ、ただ、眺めて感じるだけ。

  • Aという選択肢を選んで失敗したら?
  • Bだったら、後悔しない?
  • でもCもあるよね、いや、Cはやっぱり……

この地獄ループを繰り返していくと、ふっと『どの結果でも、多分、大丈夫』と思える瞬間がくるんですよ。諦めとかじゃななくて、委ねられる状態になったという感じ。フっと凪になるときがくる。やってみて体感した人じゃないと、想像しがたいかもだけれど。

けど、翌日また再発することもあるから、まぁ、感情という生き物を飼いならすのって大変ではある。あぁ….また戻ってる…!よくあるよ。やり直し。これを内省とも言う。

ジャッジせずに“ただ感じる”という筋トレ

このプロセスで大事なのは、『答えを出すこと』ではなくて、『自分の感情がどれだけ揺れて、どう変わっていくか』を観察することに尽きる。というか、それ以外ない。あれはダメ、これはダメ、を思わないこと。あぁ、こういう感情が浮かんできた….あぁ…とかそんな感じ。

ジャッジは不要。ただ、感じる。苦痛? そう、それで正解。笑
それ以外ないから。

でも、それを繰り返していくと、『結果がどうなっても、自分でいられる』って感覚が育ってくるんですよ。不思議と。

慣れてくると、重い案件だと1日も考えたら凪になる。大体半日もすれば、凪を保てるようにはなるんです。わたしの体験ですけれど。感じてる間は苦痛しかないけど、凪を保ったまま結果を祈る。結果が出ても、なるほど、となる。

それでも残る答えがあれば、例えばAだと思えば、それは本当の答えだと思う。だから拘りもする、祈る。

でも、これしてると、よく誤解されるんです。

何言っても大丈夫な人でしょ?

って。

傷つかない人はいない

そんなワケあるか。

わたしは自分に欠陥がたくさんあって、ポンコツで、人を介して自分をすごく傷つけてしまうタイプだから、自分の感情に付き合って、ちゃんと扱うためにこの方法を使ってるんです。

だって、安全基地が自分なんだもん。基地は守らないと帰る場所がなくなるでしょう?彷徨うわけにはいかないから。

となると、

自分だけ安全基地の確保なんてズルくない?

と思う人もいるかもしれないけど、それでいいんですよ。だって、わたしは相手の安全基地でもあれたらという考えの持ち主だから。当然、誰彼かまわずの安全基地にはならないけど。

でも、いかんせんポンコツの安全基地。だから対話が必要になる。色々知識はあるけれど、全然完璧じゃない。ガタがすごい。

わたしにとって、言葉は『表現』でもあり、『道』でもある。“思考を扱う言葉”と“感情をつなぐ言葉”がない場所では息が苦しい。

だからこそ、わたしにとっての『誠実にあれる場所』には、“言葉の往復が生きていること”が条件になる。

そして、それがないと、わたしは“誠実に関われない”。

もともと、見たもの、本人から聞いたものしか信じないから。息をしたい。

アタッチメント理論↓

これを数値で例えるなら、10傷つくとして、結果を得たときに、ゼロ、もしくは1とか2くらいの傷で済ませられるから。何も考えずに結果を聞いて10傷つくとして、感情が乱れてそこから内省?遅くない?とわたしは思うから。とりあえず、常に先手思考。

けど、安全基地を引き受けるなら、相手の数値に気を付けたいんですよ。自分が4だと思っていても、相手は10の可能性がある。だったら、残りの6を聞く。逆なら聞いてもらいたい。

わたしはそうだけど、人がどうかは知らない。

感情が乱れてから内省しようとすると、その時点ですでに『反応』の渦中でしょ?

冷静さを保つのが難しいじゃないですか。結果として、自己防衛的な思考とか、極端な結論に走りやすくなって、結果的に『自分らしい選択』や『望む未来』から逸れてしまう。

だから、感情という生き物が暴走する前に一度立ち止まって、認知のズレやモヤモヤに意識を向けておくことを大切にしてる。

『道から逸れないための内省』は、いわば“軌道修正の筋肉”とも言えるかもしれない。軌道修正力。だから、わたしは躊躇なくすぐ動けるだけの話で、そこに至るまでの内省はすごいんですよ。

心の筋肉とは、“戻れる力”

このプロセスは、ポジティブ思考じゃない。だって、ネガティブがあるから迷うワケでしょう?なのに、そのネガティブを無視して、他のポジティブを探そうなんて、何に意味もないと思う。

そう、蜃気楼探しの旅。

それって逃避でしょ?逆行してない?

持論でしょって?持論ですよ。
でも、何度も繰り返すうちに、『感情がブレたとき、自分に戻るスピード』が早くなる。確実に早くなります、これは事実。

これが、レジリエンスじゃないかと思う。『未来の、もっと自由な自分』を作る筋肉になる。

③ どの部分が心の筋肉を鍛えるのか?

どこの部分が筋肉を鍛えるかというと、相手に委ねる部分まで浸食しないという決断でしょうね。相手が決断する部分を自分が決めちゃいけないんですよ。それは依存を呼ぶから。

『手放す』ことは、“相手に委ねるライン”を守ることでもある

心の筋肉を鍛えるうえで最も大事なのは、『自分の領域』と『相手の領域』をきちんと分けて考えること。

つまり——相手が決断するべき部分に、自分が踏み込まないという選択。

だって、無理に操作しようとして拗れるでしょう?感情ぶちまけてスッキリ。その感情に揺さぶられて優越?傷心?これが判断を不正解にしていく気がする。

つまり、人生の流れに乗れなくなってしまう。わたしは、乗っていたいから。

相手の部分に侵入しないって、簡単そうで難しいかもしれないですね。だって、不安だし、結果が気になるから。でも、そこにまで浸食してしまうと、それは“信頼”ではなく“コントロール”になるんですよ。

コントロールは、たとえ善意からでも、依存を呼び込む。『あなたのために』なんて言って、相手の自由を奪うことになりかねない。

わかります?

あなたのために….

お前のためだろ。黙れこの偽善者が。寝言は寝て言え。

もっと酷いと、『偽善』にすら気づいてない人もいますからね。

ずっと蜃気楼見てんの。

あなたのために言ってるのが分からないの?

それはお前が見た蜃気楼だってのが分からないの?

蜃気楼?

そう、奇冷(きれい)な蜃気楼。

綺麗?なんかうれしい。綺麗な蜃気楼って、よく見られるの?

いえいえ。場所や時期によって見え方は違うだろうけど、たまに、みかけますよね。でも、見えにくいみたいで。わたしには、奇冷(きれい)に見えます。

わたしも見てみたい。

見ようと思ったら見えるんですけど、基本、探さないと、見えないです。

だからこそ、手放すには“自分の意思の責任を引き受ける力”と同時に、“相手に判断を委ねる勇気”が必要。

まぁ、偽善であっても、人のための行動に繋がってるなら、いいと思う。明らかな自利のためだけの行動で、周りを見ないのであれば、どうでしょう?というのが私の持論。

自覚的な依存なら、別にいい

依存を否定するわけじゃない。人は誰しも、何かに頼って生きている。当然。

でも、自覚的な依存はコントロールできるじゃないですか。『これは依存だ』と理解していれば、自分で線を引けるし、相手がいれば相談もできる、必要なときに自立の選択もできる。

逆に、自覚のない依存は——

  • 決断をすべて相手に委ねる
  • 自分では何も決められない
  • 相手の言葉ひとつでブレる

無数にありますよ、①・②からから波及する行動は。依存に自覚がある人は、せめて①・②からくる行動を自覚するんですよ。で、小さなことからでも決めようとしてみる。

③は仕方がない部分、これは誰にでもあるところだと思うから。そこは理解者がいればどうにでもなると思う。

自覚なく、それが続くと、相手も苦しくなるし、関係そのものが壊れて行きやすいと思いますよ。

だってそこには、他責しかないから、喧嘩やもめ事しか存在しなくなるんですよ。常に『あなたが悪い』そうとしかならないから。

だからこそ、『わたしはどこまで決めてよくて、どこからは手放すべきか?』このラインを自分で見極める力こそ、心の筋肉の要だと思う。

持論だから。

何を隠そう、持論です。けど、心に筋肉の鍛え方は、合ってると思う。相手ありきで、自分の行動を考えて動くから、その決断が心の筋肉になって行く。そこに貪・瞋・痴(とん・じん・ち)が見えれば、話せる相手であれば、話せばいいだけの話だし。そこには信頼が必要ですけどね。

ギバーとして、自分も満たす方法

  • 他人にやさしくする前に、自分に誠実であれ
  • 挑戦は“祈り”から始まる

① 他人にやさしくする前に、自分に誠実であれ

『人に優しくありたい』『誰かのためになりたい』——それ自体はとても素晴らしいと思う。

けれど、ギバー気質の人が見落としがちなのが、“自分の声”。

誰かに手を差し伸べる前に、自分の感情や願いをちゃんと見てます?

  • わたしは、何を望んでいるのか
  • どう在りたいのか

この問いを避けたまま“やさしさ”を振る舞うと、だんだんと自分の輪郭が曖昧になっていく。

ギバーだからこそ、『まず自分に誠実であること』が必要。誠実さは、“誰かの期待に応える”ことじゃない。自分の本音に気づいて、それを丁寧に扱うこと。

自己認識、カール・ロジャースの自己一致は、ギバーの最初の筋トレ種目。

誠実であろうとするその姿勢が、他者との関係にも、深みを生むと思う。

② 挑戦は“祈り”から始まる

挑戦って、戦略的に動くことだけじゃないと思うんです。どちらかというと、『こう生きたい』という、“祈り”のような願いから始まる。

『こうしてみたい』『こんな風になれたら』——その声に、自分に誠実に行動していく。

これは、誰かを出し抜こうとか、自分だけ得をしようなんてものじゃない。むしろ、『誠実な自分で在りたい』という切なる想いの表れでもある。

もちろん、そこには覚悟がいる。

失敗するかもしれないし、誰にも理解されないかもしれない。どれだけの道を歩くだろう。南に向かって歩いていたら、こっちは北だと言われる。惨敗。それはきっととても怖い。

信じていた道が違うと言われる絶望。見ていたものは蜃気楼。

歩く道のりは?

でも、それでも歩くしかない。これで、『違う、西だ東だ』と言われたら、もう壊れる。

だけど、色々試して、それ以外の選択肢がなくなる。

色々言って伝えて惨敗。たくさん読んで学んで、合わせて聞いて惨敗。ただ、いるだけでも惨敗。

どの道、自分を生きるしかなくなる。

覚悟がいる。

読むのも疲れる。

その瞬間、『他人を優先する姿勢』ではなく、『本音に正直に生きる強さ』に変えてみる。

心の筋トレ。

これが、『ただいる』、じゃなくて、『ただある』?

間違えていたらどうしよう、ふと過る。

けど、心の筋トレ。信じて歩くしかない、術が無い。

与えることを大切にしてきて、与え方を間違えて、挑戦はまた“自分を差し出す行為”になる。

分からない中、祈りを行動に変えていくことしか、できない。

それは不器用にしか見えないだろうけど、それが自分なら仕方がない。

どの道、自分を生きるしかなくなる。

それは、本当に不器用だけど、嘘のない生き方だと思える。

何が正解かは、自分次第。

それを自分が望むのなら、仕方がない。

周りとは乖離があるかもしれないけれど、自分とは乖離がないと思う。

これが正解とも言い切れない。

それでもこれを、選べるかどうか。

自分にとっての正解は何か?自分にとっての誠実とは何か?

でも、それがたとえ不器用でも、誠実に選んだ道なら、きっとどこかにつながっている。自分に嘘をつかない選択が、未来のどこかで自分を助けてくれると、信じるしかない。

歩くとどうだろう。

知識つめこみ、学んだら、楽になると思ってたけど。知ってる分、先を行く分….

結局は『非常識』というカテゴリの中にいる。

もっと適当でいいんだろうな。

適当でいいくらいの安全基地….

もっと適当にしたらどうなの?あなたみたいに考える人、めんどくさい。悩み多くて疲れそう。あぁ、あなたみたいな人になりたくないっ。

その割に….

けど、伝えたわたしが悪い、言わなければよかった。器が存在しない。引き受けられない。

存在しない器。だから、わたしは知識をつける。自分の防護服。

わたしが適当にできない理由は弱さ。

着てきた防護服は、他者には『脅威』に映るらしい。自然な反応だと思う。健全だ。

けど、ないと自分が余裕で潰れるから、着続ける。

弱いくせに自責。

それがわたし、仕方がない。

それでも『非常識』を歩く。

わたしは、ただただ、弱い。

世間でいう『常識』が大嫌い。

だから、防護服は着続ける。

まとめ

このブログに書いていることが、容易でないことくらい分かってる。

容易なワケがない。他者にこれを求めているワケじゃない。ただ、この見解は合ってるとは思う、それだけの話。

たまに思う。

知識は知識。わたしはわたし。でも、その線がごちゃごちゃにされることがある。

誰かにとっては、『知っているわたし』『話せるわたし』『書けるわたし』が、そのまま『難しい人』『圧をかける人』になるみたいに。

それでも、わたしは思う。

わたしを“わたし”として見てくれる人は、いるんだろうか。

知識どころじゃない、見かけもそう。

何だろう、この世界は。

もうひとつのパラダイムを思いつく。

そういえば、権力や地位、肩書、そういうものに反応して動く仕組みが、自分にはまったく馴染まない。小さいころからそうだ。そこをつかみ取った経緯は賞賛したいと思うけど。

わたしの知っている世界。

でも、だからといって、持っている人を否定したいわけじゃない。それを持つなら、それはそれでいいと思ってる。

でも、ゲームに乗らない人間に対して、ゲームのルールで敵意が向けられる。

そういえば、あの敵意は何なんだろう。

また思い出す。

持ったらどうなるんだ?そこを見たいと思ったのかもしれない。景色が変わるのか?自分を保てるのか?そのときの自分を見たいとも思ってる。

違う、見てるパラダイムが足りないかもしれない。違うのかもしれない。考えよう。

……….と思ったけれど、縁起を見ると『今のままで行け』そういうことなのかもしれない—————————

その後のまとめ(裸の王様編)

人間的な揺れを封じてでも、自分の望む姿であろうとしてしまう。だけど、それがわたしだし、仕方がない。そうやって生きてしまう。そうとしか生きれない。

愚かさを知ってしまったら、そうなってしまう。

けど、そう生きることが正しいとも思わないし、思ってもない。できないことも知ってる。難しいことだとも知ってる。

求められないことも知ってる。

ただ、ゲームに乗らない人間に対して、ゲームのルールで敵意が向けられる。

こういう、愚か者にもなれない。

じゃ、『ゲームするなよっ』て叫びたいけど、叫ばない。だって、相手がゲームしたくないのか、したいのかも分からないから。

ゲームを降りるのに覚悟がいるのも知ってる。

だけど….

やっぱり、ゲームに乗らない人間に対して、ゲームのルールで敵意が向けられる。

ゲームから降りたら?

何のこと?ゲーム?

ゲームを知ろうともしない。こっちからしたら、そっちの方が不可思議だ。

だからわたしは、異質・非常識に見えるんだろうけど。

何を考えているのか分からない。たまには甘えてみたらいんじゃない?自分をそんなにいじめなくても。

自分をいじめる?甘える?

笑える。もう爆笑だ。と思いきや、失笑にもなる。

うん。ありがとう。

とでも言うと思ったか?
チープな紙芝居の始まり始まり。

幕あけるほど愚かじゃないよ。何を見ている?何を見てきた?

何の浅知恵か知らないが、見えてる景色が全然違うんだよ。

そこを問うても仕方がない。

共感できないことへの共感のなさよ。

その景色は、画用紙全面か?わたしのは多分、全面だよ。それとも、もっと壮大な景色が見えてるのかな?だったら、聞いてみたい、見てみたい。

その景色は綺麗なの?何が見えるの?

綺麗なピンクの花。

やっぱり、見た景色。

あのね、あれは、イモカタバミ。イモカタバミとムラサキカタバミは似てるけど、イモカタバミは花の中心が濃い赤紫色で、ムラサキカタバミは花の中心が薄い緑色なの。

イモ・・・?

花なんか、咲いてる?

………あぁ、割いてるよ(さいてるよ)。(無駄な時間を)。

何を隠そうこの私は、このレベルの会話をされると、もう吐きそうになる。

ピンク色のお花畑の世界。

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