この間、自己一致のさせて認知不協和を解消する独自の方法を記事にしたんですが、わたしがなぜ自己一致にこだわるかと言うと、感情に呑まれるほど、人生の良い流れに乗ることができなくなるからです。
つまり、自分がこう生きたいと思える人生を歩めなくなる。
実はその背後には、感情のもつれ・視点のクセ・過去の思い込み(スキーマ)といった、“心の地下システム”が関わってる。つまりは潜在意識なので、感情に気づかないことには、流れが読めても動けない、動いてもミスる。
今回の記事でも——心理学の王道からちょっと踏み込んでみようと思います。結局は哲学も心理学もスピリチュアルも似てるって話にはなる。
- 自己一致(カール・ロジャース)
- 認知的不協和(モヤる正義感)
- スキーマの更新(信念のリニューアル)
- アタッチメント理論(人間関係のクセ)
- そして、チクセントミハイの『フロー理論』(スポーツ界では、ゾーンとも言う)
こういった理論をひとつの道筋としてつなげながら、どうしたら人生の良い流れに乗ることができるのか?をまとめてみました。
自己一致とスキーマの更新——整うための土台づくり

流れに乗るとか、タイミングを読むとか、言うのは簡単だけど、そもそも“自分”がグラグラしてたら、その流れに乗ってどこ行くの?って話になる。
風に乗ったとしても、帆が穴だらけなら進まないし、舵がぶれてたらグルグル回るだけ。
だからまずは、“自分という船”を整えるところからスタート。これが自己信頼になる。ここがないと、全部が『流されてるだけ』になります。
- カール・ロジャースの『自己一致』とは何か
- 『選択の明確化』とスキーマの再構築
① カール・ロジャースの『自己一致』とは何か
カール・ロジャースっていう心理学界のレジェンドがいますが、この人が言ったのが、『自己一致』という考え方。
ざっくり言うと
自分の理想の姿(こうあるべき)と、実際の本音や感情(こうしたい)が、ちゃんと手をつないでる状態。
たとえば
- 『人は優しくあるべき』と思ってるのに、内心イライラしてる
- 『我慢強くなきゃ』と言い聞かせてるけど、もう限界を超えてる
こういうべき論のとき、“自己不一致”が起きてます。そしてこのズレこそが、モヤモヤ・ストレス・不安の温床になる。
じゃあどうすればいいかというと、『自分の感情に誠実である』という選択をすること。
怒ってるなら怒ってる
悲しいなら悲しい
恋してるなら恋してる
『でもこんなこと思っちゃいけないよね』じゃなくて、『あ、いま私こう感じてるんだ』ってまずは認める。
これができてくると、心の中が“ぐるぐる会議”じゃなくて、1人の総合司会付きチームになるから。
さて、感情と向き合えるようになってきたら、次はもっと根っこの部分。
② 『選択の明確化』とスキーマの再構築
『自分の中の“当たり前”を疑ってみる』ってことです。

心理学ではこれをスキーマの更新って呼んだりします。
スキーマとは何かというと、
- 人はこうあるべき
- 与えなければ、愛されない
- 自分がどんな状況でも人を助けるべき
みたいに、無意識で握りしめてる“自分の世界の前提”のこと。



でもそれって、本当に“真実”なんですかね?それ、子どもの頃に刷り込まれただけじゃないですか?
ここで必要なのは、
社会的役割や過去のラベルじゃなく、“今の私”が選びたい選択肢をちゃんと見直す。
これができると、『こうすべき』じゃなくて『こうありたい』で生きられるようになります。まず、ここに気づかないといけない。だから感情が大事。
あなたの正しいは、あなたの正さであり、他の誰の正しさでもない。間違えてるもそう。あなたの間違えてるは、あなたの間違えているであり、誰の間違えてるでもない。自分が正しいと思うものを正しいとだけ解釈し、間違えていると思うものに間違えているというラベリングをする、その無意味さ。



生きてる?
感情が見えてきたら、最終段階。
矛盾に向き合う——揺れながらも進む知性


ここからはいよいよ、“内省最大のボス戦”とも言えるフェーズ。
流れに乗るどころか、自分の中で『右に行きたい』『でも左にいたい』が同時に起きてる状態。
そう、矛盾。葛藤。内ゲバ。
でもそれって、“未熟”なんじゃなくて、“進化の途中”ってことなんです。
- 認知的不協和の処理——葛藤を統合する
- アタッチメント理論から見る“挑戦と恐れ”の関係
① 認知的不協和の処理——葛藤を統合『新しい挑戦がしたい』vs『失敗したくない』
こんな場面、ないですか?



これ、やってみたいんだよな…
でもすぐに心の声が返ってくる。



いや、失敗したらどうするの?
一歩踏み出したい気持ちと、それを引き戻す恐れ。この心の綱引きこそが、認知的不協和の正体。
心理学者フェスティンガーはこれを、『矛盾する2つの認知を同時に持っている状態』と定義してます。
- やりたい(挑戦欲・成長欲)
- でも失敗したくない(安全欲・防衛本能)
どちらも“あなたの中にある大事な声”。
ここでやりがちなのは、
- 『失敗なんて気にするな!』と自分を鼓舞して無理をする
- 逆に『やめといたほうが安全だよね…』と気持ちをごまかす
どちらも、一方を“切り捨てる”方法。これが私にとってみたら、自分に、実に不誠実な方法でもある。
一般に『認知的不協和の解消』と聞くと──
- 行動を変えるか
- 信念を捻じ曲げるか
- 情報を都合よく解釈して意味付けし直すか
といった“ずらし”による対処が紹介されがちじゃないですか?つまり、『矛盾のどちらかを消すことでバランスを取る』という解消の仕方。



でもわたしがしている独自の認知不協和の解消法は、“両方を握ったまま、そのうえで進む”という選択です。かなり覚悟のいる作業だとは思う。
『挑戦したい』側の声を深掘る
- なぜ、それをやりたいのか?
- それが叶ったとき、自分はどんな状態になっているか?
- そこに、自分のどんな価値観が宿っているのか?
『失敗したくない』側の声も深掘る
- どんな失敗が一番怖いのか?
- その恐れは、どんな記憶・経験とつながっているか?
- それが起きたら、自分はどうなると思っているか?
そのうえで、こう決めるのがわたし。
たとえば
- 失敗するかもしれない。でも、それでも進もうと思う
- 怖い。でも、その怖さを抱えてまで進もうとする自分は、めちゃくちゃ偉い
これは、どちらの声も“自分を守るための善意”だと理解したからこそできる、統合の選択。
これが、“内なるチームが分裂せずに進む”ということだと、私は思っています。
つまり、解消=『矛盾をなくす』じゃなくて、『矛盾を矛盾のまま受け入れたうえで、なお自分で選ぶ』という、自我強度と信念の照合がセットになったプロセス。



それができるのは、内面に対して相当な信頼(自己信頼)があるか、あるいはそれを鍛えてきた人、鍛えないとどうしようもなかった人だけかもしれない。
葛藤の中にあるのは、『本当はこうしたい』という希望と、『でも傷つきたくない』という過去からの知恵。
どちらかが間違ってるんじゃない。どちらも、“今のあなた”を守ろうとしてる。だから、答えはいつも『YESかNO』じゃなくて、“どうしたら両方の声を裏切らずに進めるか”を探ることにある。
このプロセスそのものが、あなたの思考力・感受性・そして“静かな勇気”の証明になるから。


② アタッチメント理論から見る“挑戦と恐れ”の関係
『挑戦したいのに、怖くて動けない』それって、ただの自己肯定感の低さじゃないかもしれない。
その背後には、『失敗したときに自分は見捨てられる』という、もっと深いレベルの怖れが眠っていることがあるんです。
安心できる人間関係が“挑戦の土台”になる
アタッチメント理論では、人は『安全基地』があるときに、安心して探検に出られる、と言われます。
子どもにとっての安全基地は親、大人になってからは『信頼できる誰か』だったり、『自分との信頼関係』だったりする。
ちなみに、わたしの場合は自分。
だからこそ
- 失敗=否定される/見放される
- 挑戦=愛されなくなるかも
という記憶の刷り込みがあると、『やりたいのに動けない』が起こる。だから、わたしの場合は、記憶の刷り込みがあっても、それを解除する働きをする。
ここで別に活用するのが、アドラー心理学になると思う。相手への信頼。
独自論だけれども。



わたしの見解は、アドラーの『信頼する』は、『相手の未熟さや揺れをも“その人”として受け取る』という覚悟、ロジャースの『自己一致する』は、『その覚悟が自分にとって誠実かどうかを問い続ける』こと。
つまり、未熟さをも受容するには覚悟がいる作業だけど、そこで信頼すると決めた選択があれば、それに沿って行動する。それがわたしの誠実。そんな感じ。
つまり、
- 『信頼する』は他者に向けられた姿勢であり、
- 『自己一致する』はその姿勢を選ぶ自分の“芯”を確かめる作業。
つまり、『他者に対してどうあるか』と『その姿勢が自分にとって納得できるか』を同時に成り立たせます。
合ってるの?と思うだろけれど、そうじゃないと私は関係が築けないから。
信頼も“意志”から“状態”になっていくかもしれない。
でも、その“自然さ”に至るまでには、やっぱり一度は『覚悟』を通らないといけない。過去に裏切られたり、否定された経験があると、『信じること自体が怖い』から。



だから、覚悟を通過したうえで『本当は覚悟すらいらない』境地は見てます。そこに至るかどうかも、覚悟しないと見えないでしょ。
覚悟を通らないと、覚悟がいらない場所にたどり着けない。
『失敗しても、私は大丈夫』と思えるか?
アタッチメントが安定していると、失敗は“関係や自尊心を壊すもの”ではなく、“経験として受け止められるもの”になる。
逆に不安定な愛着を持っていると、失敗したときに『人から見捨てられる』『価値がなくなる』と強く感じやすい。
この違いが、挑戦への姿勢に直結してると思う。
だから、相手の反応を見て、自分が反応することはなく、プロセスで自分に誠実であったと自負が残る。
その後どうする?
- まず、自分自身が“安全基地”になれること
- 失敗しても自分を見放さない態度
- 恥ずかしさ・怖さを『ダメなもの』としない姿勢
- 人との関係でも“信頼ベース”で動けること
- 結果ではなくプロセスを見てくれる人との関係性(ここに出会えたら奇跡)
- 批判ではなく、対話が生まれる環境(ここに出会えたら奇跡)
人との関係でも信頼ベースで動けることは、とても理想。けど、だれもがそこの境地に行けるか?というと、なかなか行けないのが現実だと思う。なぜならEQが低いと成り立たないから。
けど、人間関係でこのベースはとても大事だから、やっぱり自分の感情に向き合うことには意味があると思う。
思考の構造プロセスを見てくれる人がいたときの奇跡と衝撃はすごいですよ。
その人自身が『プロセスの苦しさ』を知っているからか、あるいは、見ようとする目を持つことを、日々選び取ってきたからか。
皆が結果だけみて、意見したり批判したりするんですよ。なのに、思考のプロセスに気づいてくれる人がいることの奇跡。
ここに言葉に表せないくらいの感動があるから、とても勇気のいる行動だけど、やっぱり関わろうとする意志は大事だと思う。



あなたにとって、思考のプロセスを見てくれた“誰か”はいますか?それは、どんな瞬間で、どんな感情が残りましたか?あなたは、誰かの“プロセス”に寄り添ったことがありますか?
いずれにせよ、それは当たり前には存在しない人間性の在り方であって、『奇跡』と言っていいほどの尊さがあります。
だからこそ、その奇跡に出会ったとき、わたしは癒され、信じ直すことができた。『自分の選んできた道に意味があったんだ』と、やっと肯定された気分。
やっと報われた気分。“わかってもらえる可能性がある”と感じた、その経験自体が、今のわたしを少しだけ前に進めてくれてる気がしてます。
自負だけで生きるって、なんだか気高いけれど、とても孤独でもあるんですよね。
自分の中で『これでよかった』と確かに思えていても、誰にもそのプロセスや選択の重みをわかってもらえないと、時にそれは“自信”ではなく、“孤高”になってしまう。
無意味に思えても、誠実さだけは残ってくれる。
『ちゃんと自分を信じて進んだ』
『感情とも向き合って、誠実に選んだ』
——それがどれほど価値あることか、自分ではわかってる。でも、それを誰かの視点で“理解される”という経験が、心を支えてくれることもある。
つまり、自負とともに、『共感』が少しでもあると、人はもっと強く、優しく、進めるという気づきに感謝。
だからやっぱり、『わかろうとする人』『気づいてくれる人』との出会いって、ものすごく大きいですよ。そして、自分が誰かにとってそういう人になれたら….それもまたひとつの祈りになる。これは人生の醍醐味だとも思える。
カール・ロジャースに気づかれたのが、とても嬉しかった。
挑戦の土台に必要なのは、“自己信頼”という愛着
つまり、挑戦したいのに動けないときには、ただ『勇気が足りない』わけじゃない。
それは、『失敗しても、私は私でいられる』という感覚が、どこかで揺らいでいるというサイン。
だから、行動を焦る前に、
『わたしは、自分を信じられるか?』
という問いを挟むことが、挑戦の足場を強くします。結果がどうであっても、そうやって自己一致させながら選んだ結果のプロセスで自己を信頼できる、つまり自己肯定できるから自負しかできないんです。
結果がどうであれ『自分に誠実であった』という土台が残る。
そして、フローへ——自己一致と願いが一致したとき


- チクセントミハイのフロー理論とは
- フローが“引き寄せ”の土台になる理由
① チクセントミハイのフロー理論とは
突然ですが、みなさん、『今、めっちゃ集中してて時間忘れた。』って経験ありますか?
たとえば──
- 没頭して読書して、気づいたら夜中の2時。
- 試験を受けるときに、『合格』しか頭に湧かない、不安も一切ない、それくらい努力をした自負がある。
- ミシンで創作していて、気づいたら朝
この状態、心理学では『フロー』と呼ばれます。ハンガリーの心理学者チクセントミハイの理論です。
彼曰く、『人はフロー状態、すなわち何かに完全に集中し、流れに乗っている過程そのものから、深い満足感や幸福感を得る』とのこと。つまり、人が感じる深い充実感は、『達成そのもの』ではなく、『没頭しているプロセス』にあるということです。
特徴としては、
- 時間の感覚がなくなる
- 雑念が消える
- 外からの評価とかどうでもよくなる
- 今この瞬間の“やってること”が楽しい
要は、『没頭』×『内的な満足』=フローです。ご褒美も拍手もいらない。やってることが、すでに最高。そんなゾーン。
② フローが“引き寄せ”の土台になるのでは?という持論
で、このフロー、ただの集中状態と思ったら大間違い。
これこそが──“自己一致した願い”が動き出す瞬間だと思うんですよ。
どういうことかというと、
『結果が来て初めて願いが叶った』と思いがちだけど、本当は、
『その願いに誠実に向かっている今この瞬間こそが、“願いが形になる道そのもの”だった』
こう気づいたとき、人は結果への執着を超えて、今を信じられるようになる。
そんな感じです。
たとえば、何かを達成したくて、めちゃくちゃ自分を整えたり、正直に気持ちを表現しようとしてるとき。そのプロセスがすでに願いの本体だったりする。
『結果』じゃなくて、『今この選択』に意味がある。どういうことかと言うと、例えば、対人があるときに、自分の内側の気持ちを吐露するって勇気がいるじゃないですか。
だって、そこから来る拒絶って怖いでしょ?
その怖さは何から来ているのか?これを見ていかないといけない。その怖さごと引き受けたうえで、自分の気持ちを吐露することができるかどうか?
どうですか?怖くないですか?ここからくる拒絶想像してみましょう。



さんハイ。
…………….絶望?恐怖?
大体、そんな感じでしょ。
たとえば
1. 過去の傷と結びついている
子どもの頃に『本音を言って否定された』『期待を裏切られた』『感情を出したら笑われた』などの体験があると、それがトラウマのように残ります。
→ 『本音を出すと、人は離れていく』 という信念が無意識にできあがる。
2. 『自分には価値がないかもしれない』という自己否定の影
人は、誰かに拒絶されると、自分の全存在を否定されたように感じてしまう。だから、相手の反応=自己価値の審判、みたいになってしまうんですよね。
→ 『もし断られたら、自分の価値がなかった証拠になる』 という恐れ。
3. 『受け入れられたい』欲求と『傷つきたくない』恐れのジレンマ
人間の本能には『つながりたい』という欲求があります。一方で、傷つくのも極端に怖れる。このジレンマが、『拒絶されるくらいなら、最初から言わない方がいい』という行動に繋がる。
→ つながりたいからこそ、切り離されるリスクに敏感になる。
4. 未来の自己像の喪失
気持ちを伝えるということは、自分の中で『こうなってほしい未来』を描いているということ。その未来が崩れるかもしれないという怖さでもある。
→ 『願いを込めた分だけ、ダメだったときの喪失が怖い』



つまり、『拒絶されるかもしれない』という怖さの本質は、“自分の存在が否定されるかもしれない”という恐怖。
でも、それを見尽くしたうえで『それでも言いたい』『それでも信じたい』と思えるなら、まさにそれは自己一致の行動であり、願いが“今ここ”に形になった瞬間。
ここまで来れます?行けます?
けど、ここを乗り越えた先にあるのが多分、『フロー状態』と言えると思う。
これがフロー的“引き寄せ”。
希望も怖さも全部見尽くして、認めた状態が『手放し』。
願いを掲げて、でも執着しすぎず、でも本気で向き合って、そしたら不思議と現実が動き出す。
なんか知らんけど、道がひらける。
『今ここ』に意識があると、未来を引き寄せようとしてるつもりが、気づいたらもう“そこにいた”みたいな感覚です。
まぁー語るのは簡単だけど、難しいですよね。だから貴重なのかもしれない。
感情を扱い、流れに応答するためにできること


感情を扱うって難しいんですけど、わたしはちょっと珍しくて、出来事が起こる前にあらかたのことを想定して動くので、先に全部感情を味わいつくします。ネガティブな方は特に。
ここはカール・ロジャースで言う自己一致、独自の認知不協和解消をするから。
それくらい自分と向き合ってから行動するから、滅多に怒ったり泣いたりということは無いに等しい。
けど、それでも内省不足で、泣きたくなることもあるんですよね。完璧じゃない。やっぱそれくらい自分のことを分かっておくって難しいとも感じる。予期せぬ感情が湧くこともあるから。良くも悪くもね。
- くるくる視点の活用——感情の静め方
- 願いとは『ワクワク』ではなく、『誠実な祈り』
① くるくる視点の活用——感情の静め方
怒ったとき、泣いたとき、やけ食いしたくなったとき——『なんでこうなった!?』って、自分会議が緊急招集されることありますよね?



そんなときにオススメなのが、“くるくる視点”です。わたしのオリジナル。感情にのまれそうなとき、自分の視点をくるくると回すことで、見え方が変わることに気づいたのがきっかけです。
- 主観視点:私、つらい。これは何?
- 相手視点:わたしに見えてる世界と、相手に見えてる世界(捉え方)が違うのかも。
- メタ視点:結果が伴わなくても、自分に誠実だったから大丈夫。
- 未来視点:全部わたしの糧になる。
この視点を“くるくる”回すことで、感情の波が少しずつ落ち着いていくんです。感じて、理解して、意味づける。
すると、不思議とあの嵐のような感情が『おやすみ』してくれるんです。



わたしの場合は、事象が起こる前に、これをして、全部内省完了させる。


② 願いとは『ワクワク』ではなく、『誠実な祈り』
世の中には『ワクワクに従え!』っていう魔法の呪文みたいな教えもあるけれど、ぶっちゃけワクワクって、3日坊主になりますよね。
願いって、『本当にこれが自分にとって大切か?』と問われ続けたあとに残るものだと思う。
たとえば、『推しに会いたい』でも『世界平和』でもいい。
でも、その願いが“逃げ”じゃなく、“祈り”になったとき、それは感情に呑まれず、ちゃんと自分の中に“根”を張ります。
願いが“逃げ”になっているとき
たとえば『恋人がほしい』『成功したい』という願いが、
- 寂しさから逃れるため
- 不安を消すため
- 誰かに認めてもらいたいから
という“欠乏”や“恐れ”から来ている場合、それは『逃げ』。一見ポジティブに見えるけれど、動機の根っこは不安や不足。
このときの願いって、実は感情(特にネガティブなもの)に引っ張られてるんです。だから、状況が少し変わるとブレたり、焦ったり、他人の言葉に揺さぶられたりしやすい。
願いが“祈り”になるとき
一方で、同じ『恋人がほしい』『成功したい』でも、
- 本当の自分で誰かとつながりたい
- 与えられた力を誠実に活かしたい
というように、『本当の自分を生きたい』という静かな願いから生まれたとしたら、それは“祈り”。
“祈り”には欠乏から来る焦りがなく、むしろ『どんな結果であっても、これは自分にとって大切なことだ』と思えるような安定感がある。
このときの願いは、感情に振り回されず、『自分がどう在りたいか』に根ざしてる。だから、長く深く続いていくし、少しずつでも現実を動かしていく力になる。
つまり
“逃げ”の願いは『今の不快さをなんとかしたい』
“祈り”の願いは『未来の自分に誠実でありたい』
そんな違いがある。
だけど
欠乏が出発点であることは、全然悪くないです。むしろ、人の動機って多くの場合、最初は『痛み』や『不足』から始まることがほとんどだと思うから。
大事なのは、その出発点に自覚的であることと、そこからどう成長していくかというプロセス。
たとえば
- 寂しいから恋人がほしい
- 誰かに認められたいから成功したい
これって一見“逃げ”のように見えても、それをちゃんと見て、自分の癒しと向き合っていく中で、
- 誰かと心からつながることが、自分にとって大事
- この事業で色々な人の役に立ちたい
と気づいた瞬間、それは“誠実な祈り”に変わることもある。
つまり、欠乏は“未熟”ではなく、“素直な出発点”。そこに気づいて、向き合って、整えていくことが『願いに根を張らせる』ということで、祈りというのは、逃げの否定ではなく、逃げの昇華。
欠乏に気づき、それを丁寧に扱った結果として生まれるものでもある。だから、欠乏のある願いも、ちゃんと向き合えば育つし、祈りにもなる。
ある日、何の気なしに願った『誰かの役に立ちたい』という気持ちが、自分の過去の孤独からきていると気づいた瞬間、『本当は、心からつながりたいだけだった』とわかった。そこから、その願いが、ただの虚栄心じゃなくて、祈りに変わる。
だから、願いは『選び抜かれた静かな意志』になる。大声じゃなくて、心の奥でふっと立ち上がってくるようなもの。
それがあると、人生の荒波も少しだけ乗りこなせる気がしてくるから。
まとめ
『流れに乗る』ってよく聞くけど、その“流れ”って何?
実はそれ、自分の内と外がぴたりと重なったときに感じる“自然な動き”のこと。焦っても進まず、委ねすぎても止まる。鍵は、感情の霧を晴らし、自分の状態を正確に“読む”こと。
ロジャースの『自己一致』では、自分の感情と理想が繋がることが土台。
そこにスキーマ(思い込み)を更新する意識が加われば、『今、自分が何を選びたいか』がクリアになる。そして、その選択が心からのものであるほど、フロー(没頭)状態に入りやすくなる。
願いは“ワクワク”じゃなく、“静かな祈り”。
欠乏や不安から始まったとしても、それを丁寧に扱えば、根を持った祈りへと育つ。自己一致した願いに沿って生きるとき、不思議と世界が後押ししてくれる感覚がある。
これだけじゃないけれど、それが『流れに乗る』ということです。
感情を把握するのって難しいですよね。日本では、感情の言語化・自己理解・他者理解といった『情緒的知性(EQ)』にほとんど触れない。結果、感情を押し殺す・他人の反応に過敏になる・本音を出さない文化が根付く。不思議なことでもないかもしれない。
『相手と本音で関わるのが怖い』
『好かれなければ価値がない』
という思いが、大人になっても関係性に影を落とすのかもしれない。この波及たるや。
わたしは今、願いが整っていて、それは祈りになっている。あなたの中には、いま、どんな願いがありますか?
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