ヘーゲルの「世界精神」と「絶対精神」って、言葉だけで読むと難しいですよね。
でも、ある見方を一つ持つと、わかりやすい。
独自の見解としてわたしは、マズローの「自己超越」とヘーゲルの「絶対精神」は、「個の枠を越えて、より大きな全体の秩序に接続する」という方向性が似ていると思ってます。
だから結果として、他者貢献にも向かいやすい。
さらに、そうした人が増えることで、社会の価値観や制度は“結果として”更新され、新しい時代が立ち上がる。
マズローが個人の成長として語ったことを、ヘーゲルは歴史と社会のスケールで語った——そんなふうに読める。
そしてこの読み方は、アドラーの共同体感覚にも接続できる。
この記事では、その接続を「世界精神 → 絶対精神 → マズロー → アドラー」の順に整理してみます。
まず、ヘーゲルの世界精神・絶対精神について、個人が勝手にナポレオン・ボナパルト(1769-1821)を例に詳しくまとめてみました。
『世界精神が馬に乗っている』気になるでしょ。
どういうこと?って。
そしたら、あぁ、そいうことってなったから。
こういう視点で見たら面白いよね?という記事。
先に言っときます。

知識は疑え。
無責任だけど、専門家じゃないから。
多分、こうなんじゃない?って記事。
何事も自分で考えることは大事だから。
興味のある方は一読くださるとうれしいです。
ヘーゲルの世界精神と絶対精神を現代的に解釈してみた


- 世界精神=歴史を通じた経験の積み重ね
- 絶対精神=世界精神に伴う、精神の成長
- まとめ
① 世界精神=歴史を通じた経験の積み重ね
ヘーゲルにとって世界精神は、抽象的な観念ではなく、現実の中で歴史を動かす力。
個人の行為が積み重なり、国家・制度・文化として外に固定されていく。
その「外に出た形」を見れば、その時代が自由をどう理解していたかも透けて見える。
世界精神は、人々の行為を素材にしながら、国家や文明というスケールで展開していく。
個人はその流れを「作る」こともあるし、気づかないまま「担わされる」こともある。
つまり、歴史は“誰かの善意”だけでは動かない。
構造として動く。
② 絶対精神=世界精神に伴う、精神の成長
絶対精神は、世界精神の歩み(歴史)を、芸術・宗教・哲学として“理解”し直すとき。
世界精神が歴史を動かす中で、制度や価値観、文化、知の形が更新されていく。
その積み重ねの先で、人間の意識は
「自分たちは何をしてきたのか」
「世界をどう理解してきたのか」
を、より透明に理解できるようになる。
つまり、ヘーゲルの精神って、頭の中の気分じゃなくて、人間が作ってきた世界そのものも含む。
たとえば、
法・制度・国家
慣習・道徳・家族
科学・技術・経済
芸術・宗教・哲学(=世界の見方の形式)
これらは自然に勝手に生えたというより、人間の理解と実践が外に現れたもの。
だから「世界を理解する」ってのは、突き詰めると、
自分たち(精神)が、どう世界を作り、どう理解してきたかを理解することになる。
その理解が、絶対精神。
その自己理解が更新されるたびに、次に作る世界の前提が変わる。
だから未来の形も変わっていく。
③ まとめ
世界精神の運動とは、日々の行為や制度更新、価値観の組み替えといった現実の出来事を通して、歴史が展開していくこと。
未来は固定された設計図ではない。
だけど同時に、矛盾が放置される限り、歴史はどこかで清算を迫られる。
現在の選択や行動、制度の更新によって、未来は形を取っていく。
そして、その積み重ねが進むほど、
「自分たちは何をしてきたのか」
「何を前提に世界を作ってきたのか」
が見えるようになる。
この流れは、パラダイムの話にも似ている。
行為と選択の積み重ねの中で複数の価値観(パラダイム)が併存し、衝突し、取捨選択されながら展開していく。
そのプロセスを弁証法的発展として見れば、対立は単に勝敗がつくだけではなく、より高い枠組みへ作り替えられていくことがある。
そして絶対精神は、起きたことを「何が起きていたのか」という自己理解として整理し、その理解が次の実践の前提(次の更新)としてフィードバックしていく。
具体例として、戦争やフランス革命のような出来事がある。
戦争は、国家や制度の矛盾が表面化し、次の枠組みへ押し出す局面として現れうる。
ナポレオンは、その転換が「個人」を通して可視化された例として読める。
こうした出来事の積み重ねの中で、人類の世界理解が更新され、その更新が、芸術・宗教・哲学として外に現れる。
そして、その更新を自分たちの理解として回収した形が、絶対精神。
大体、そういうことだと思う。
矛盾って、放置しても消えない。
むしろ放置する間に、
- 矛盾を隠すための嘘・言い訳・制度の継ぎ足しが増える
- 関係者が増える(利害が絡む)
- 正当化が積み上がる(引っ込みがつかない)
- 依存が増える(その矛盾に乗っかって生活してる人が出る)
結果、矛盾の“総量”が膨らむ。
これが「因果が大きくなる」に近い。
じゃぁ、「清算」とは何か。
清算ってのは、道徳的に罰が当たる話じゃなくて、
- もう帳尻を合わせないとシステムが回らない
- どこかで現実が破綻して、強制的に整合が取られる
ってこと。
ヘーゲルの歴史哲学と『世界精神』『絶対精神』


ヘーゲルの歴史哲学では、世界史は『世界精神』が自己展開し、自由を実現していく過程とされてます(自由を求める時代だからこその発想でもあると思う)。
この中で、偉人は世界精神の担い手として用いられるけど、最終的にはその役割を終えれば『消費される』ように没落するのが宿命。
ナポレオンは、ヘーゲルが『世界精神が馬に乗っている』と評したように、歴史の流れを加速させた存在。
世界精神が、ナポレオンという個人を媒介にして歴史に現れた、ってこと。
フランス革命の理念(自由・平等・博愛)をヨーロッパに広め、歴史的に大きな役割を果たす。



しかし、彼の没落は単なる個人の失敗ではなくて、
『世界精神の局面が変わり、結果としてナポレオンが不要になった』
と解釈できる。
- ナポレオンの没落の仕方は問題の本質ではない
- 没落すること自体に意味がある
- まとめ
① ナポレオンの没落の仕方は問題の本質ではない
ナポレオンがどのように没落したか(ロシア遠征の失敗、ライプツィヒの戦い、エルバ島流刑、ワーテルローの敗北、セントヘレナでの死)という詳細は、ヘーゲル的観点では二次的な要素になる。
重要なのは、彼の没落“という結果”が、単なる個人の失策以上のものとして読める点。
つまり、歴史の世界精神の局面が変わったとき、ナポレオンという形で果たされた役割は終わり、以後は別の形で時代が進み始める。
ナポレオン個人の幸福や成功は、そこでは保証されない。
だから結論としてはこうなる。
- 没落のプロセスは本質ではない
- 本質は「局面が変わったあと、彼の役割が歴史の中で終わっていく」こと
- その退場の仕方は偶然や戦術の失敗も含むが、退場そのものは“結果として必然に見える”
② 没落すること自体に意味がある
ヘーゲルの見方だと、歴史の主役は「個人」じゃなくて「時代の流れ」。
だからナポレオンの没落も、世界精神によってそうなったと解釈できる。
大事なのはここ。
- ナポレオンは“時代の仕事”をやった
- 仕事が終わったら、歴史の流れは次へ行く
- その結果として、ナポレオンは退場する(没落する)
没落の細かいプロセス(どの戦で負けたか)は二次的で、「退場した」という事実のほうが重要になる。
たとえば歴史のつながりはこう。
- ナポレオンが崩れる
→ ウィーン体制ができる
→ 19世紀ヨーロッパの秩序が固まる
また、ナポレオンが広めた革命の空気は残る。
- 革命の理念(自由・平等など)が広がる
→ その後の民主主義の流れに影響する
つまり、ナポレオンは「時代を動かす役」をやり切った。
だから歴史は次の段階へ進み、その流れの中で彼は退場した――
ヘーゲル的に言うと、そういう読み方ができる。
③ まとめ
ナポレオンは、世界精神の担い手になった人だと思う。
彼はフランス革命の勢いを背負って、ヨーロッパの秩序を一気に揺らし、時代を前に進めた。
でも、ここがポイントで。
彼の没落は「失敗したから終わった」というより、「時代を動かす役をやり切ったから退場した」と読める。
ナポレオンが動いたことで、制度も価値観も空気も変わった。
すると、次の時代は、もうナポレオンのやり方では回らない。
だから、歴史は次の段階へ進み、その流れの中で彼は退場せざるを得なくなる。
ヘーゲル的に言うと、歴史の主役は個人じゃなくて「時代の流れ」。
ナポレオンはその流れを運ぶために立ち上がり、役目を終えた瞬間に、歴史に“消費される”側へ回ることになった。



ヘーゲル的に言うなら、世界精神としての『あやつり人形』に過ぎなかったんだろうなと。
けれど、ナポレオン個人の視点から見るとどう映るんだろう?と考えるんですよね。
ナポレオンの視点からはどう見えるか?


歴史的な視点から、ナポレオンの没落を見ると、没落は必然であり、没落の仕方は問われない、ただ、没落することに意味がある、と見られる。


① ナポレオン個人の視点※欲をかきすぎた結果
ナポレオンの行動を追ってみると、彼の没落はある意味で『自業自得』だったのではないか?
1. 大陸封鎖令の失敗(1806年~)※経済戦略の失敗
- イギリスを孤立させるため、ヨーロッパ全土に大陸封鎖令(イギリスとの貿易禁止)を強制。
- しかし、ヨーロッパの経済にも打撃を与え、フランス自身が苦しむことに。
- 結果的にロシアの反発を招き、ロシア遠征へとつながる。
2. ロシア遠征(1812年)※過剰な野心
- ヨーロッパ大陸の大部分を支配していたにもかかわらず、ロシアまで征服しようとした。
- しかし、ロシアの厳しい冬、補給の困難、焦土戦術によって、大軍のほとんどを失う。
- これが決定的な転落の始まり。
3. エルバ島からの復帰(百日天下、1815年)※しがみついた末の敗北
- 一度退位し、エルバ島に追放されていたにもかかわらず、再び政権を取り戻そうとする。
- ワーテルローの戦いで敗れ、完全に没落。
ここまでを見ると、ナポレオン個人の視点では、彼の没落は単純に『身の程をわきまえず、欲をかきすぎたから』と解釈するのが妥当に見える。
もし最盛期、あるいはエルバの時点で「ここまで」と線を引けていれば、少なくとも最後がセントヘレナになるルートは避けられたかもしれない….という妄想ね。



けど、彼の性格がそうさせなかったのか、立場が彼をそうさせたのか、あるいは時代の流れがそういう局面に彼を置いたのか。
そこは簡単に言い切れない。
つまり、個人の物語として見れば「欲の末路」。
でも歴史の物語として見れば「役割を終えた退場」。
ここが面白い。
② 世界史的な視点※没落することに意味があった
- フランス革命の理念をヨーロッパに広めた後、封建的な秩序と対立し、ナポレオン帝国は歴史的役割を終えた。
- 彼の支配によって各国でナショナリズム(民族や国民の統一や独立、発展を目的とする思想や運動)が芽生え、結果的に近代国家の形成につながる。
- 彼の没落後、ウィーン体制が築かれ、19世紀ヨーロッパの政治的枠組みが作られた。
こうして歴史全体から見ると、ナポレオンの没落は、
「彼が担った役割が終わったあとに、時代の流れが次へ進んだサイン」
——そんなふうに説明できる。
③ どちらの視点が正しいのか?
結局のところ、どちらの視点も正しい。
ただ、見ている“高さ”が違うだけ。
ナポレオン本人の視点では、
「欲をコントロールできず、自滅した」
歴史全体の視点では、
「世界精神の流れの中で局面が変わり、結果としてナポレオンは退場した」
この二つは矛盾するようで、実は同じ出来事を違う角度から見ているだけだものね。
ナポレオン自身は「世界精神の流れ」なんて意識していなかったはず。
彼の目にあったのは、
「もっと征服したい」
「もっと支配を広げたい(広げなければ)」
という野心だけだったろうから。恐らくね。
でも、その野心の動きそのものが歴史の流れに組み込まれ、役割が終わった時点で彼は退場せざるを得なくなった。
つまり、個人の欲望の動きと、歴史の大きな転換が、同じ一点で噛み合っていた――そう言える。
④もしナポレオンが『気づき』を得ていたら?
もし彼が『もうここで引退すべきだ』と気づいていたら、違う未来はあったのか?
- 例えば、1809年の時点で戦争をやめ、フランス帝国を安定させる道を選んでいたら?
- あるいは、ロシア遠征を避け、外交で関係を維持する道を探っていたら?
- エルバ島で満足し、復帰しなかったら?
この可能性もゼロではないでしょ。
だけど、彼の『覇道的な性格』と『歴史の流れ』がそれを許さなかったとも言える。
やっぱり双方が一致。
1809年で戦争を終わらせれば、フランス中心のヨーロッパ秩序を一時的には維持できた可能性はある。
だけど、イギリスはナポレオンを脅威と見なしており、長期的な和平は難しい。
ロシア、オーストリア、プロイセンもフランス支配を快く思っておらず、数年後には戦争が再燃する可能性が高い。
ナポレオンが大陸を制覇しても、イギリスを屈服させない限り、帝国の安定は保証されなかった。
そのため彼は大陸封鎖令を強化し、スペイン戦線も続けざるを得なかった。
1809年の時点ではロシアは同盟国。
しかし、大陸封鎖令の問題とポーランド問題がある限り、ロシアとの対立は先送りにできても、完全には避けにくい。
つまり、1809年で戦争を終わらせたとしても「フランス中心の秩序」が安定する保証はなく、むしろ他国が反撃の準備を進めるだけだった可能性も高い。



結局、ナポレオンに「気づき」があったとしても、当時の国際関係と各国の利害が、選べる幅を狭くしていたのは間違いない。
ただ、その中でも、退き方・終わり方は変えられた可能性がある。
ここに、個人の欲望が歴史の流れと噛み合った瞬間に起きる“加速”の怖さがある。
欲望が燃料になる(推進力)。
歴史の流れが追い風になる(外部条件)。
その結果、本人の制御感覚を超えて “止まれなくなる”。
止まれないまま、構造が要求する方向へ走らされる。
役割が終わった瞬間、燃料ごと切り捨てられる。
つまり怖いのは「野心」じゃなくて、野心が構造に接続されたときの自動運転化。
自覚でブレーキは踏める。
でも、路面が凍ってた可能性も否定できないのよね。
唯一踏めるところがあったとしたら、エルバ復帰の前かな。
⑤ まとめ
ナポレオンの没落は、個人の視点から見れば「欲をかきすぎた結果」に見える。
一方で、歴史全体の視点から見れば、「没落そのものが起こるべくして起きた」とも読める。
結局、ナポレオンは「もうここで引くべきだ」という気づきを得ないまま突き進む。
もし気づきを得ていたとすれば、没落の“形”や“タイミング”は変えられたかもしれない。
でも、歴史の大きな流れそのものを止められたかは分からない。
そして、この構造はナポレオンに限らず、私たち個人の人生にも通じるところがある。
登場人物と舞台がそろった瞬間、現実の歯車が回り始め、個人の意思だけでは止めにくくなる——世界精神が動き出す、という感覚に近い。
これは、歴史の転換点に現れる人物に共通するパターン、と私は考えています。



登場人物と舞台がそろった瞬間、歯車は回り始める。
そして回り始めた歴史は、個人の都合では止まらない。
歴史の歯車が動く条件とは?


- 歴史の歯車が動く条件
- ナポレオンのケース※歯車が回り始めた瞬間
- 歯車が回り始めたら止められない
- 世界精神・絶対精神が動くとき
① 歴史の歯車が動く条件
「歴史の必然」と「個人の欲望・願望」が噛み合うと、不可逆っぽい力が生まれる。
まるで導かれるように、出来事が連鎖して進み出す。
その条件を整理すると、こうなる。
1) 舞台が整う(歴史的状況)
- 社会が大きな変化を求めている
- 既存の秩序が崩れかけ、新しい秩序が必要になっている
例:フランス革命後の混乱
2) 登場人物が現れる(歴史的個人)
- その時代に適応し、突き進む意志を持つ人物が出てくる
- その資質や欲望が、時代の要請と一致する
例:ナポレオン
3) 歯車が噛み合う(歴史の加速)
- その人物が動き始めると、偶然みたいに出来事が連鎖する
- 一種の「流れ」が生まれ、止めにくくなる
例:台頭 → 戦争の拡大 → 没落 → ウィーン体制
この三つが揃うと、「世界精神が働いた」と呼びたくなるような、大きな流れ起こる。
② ナポレオンのケース※歯車が回り始めた瞬間
ナポレオンが単なる一軍人で終わらず、歴史を変える存在になったのは、まさに「舞台」と「登場人物」が揃ったから、と見るのが自然。
- 舞台が整う:フランス革命による混乱/王政の崩壊/戦乱の時代
- 登場人物が現れる:若きナポレオン/軍事の才能/革命の理念を武力で推進
- 歯車が動き出す:イタリア遠征、エジプト遠征、クーデター、大陸支配
ナポレオン自身は、おそらく「世界精神」や「絶対精神」なんて意識していなかった。
でも彼の意志と行動が時代の流れと噛み合った瞬間、彼の意思を超えた形で歴史が動き出した。
——本人の感覚としては「自分が動かしてる」でも、構造としては「動かされてもいる」。
③ 歯車が回り始めたら止められない
一度、歯車が回り始めると止めにくい。
ナポレオンは最初から「皇帝になりたかった」というより、フランスを安定させる最適解を探した結果、皇帝になった(ならざるを得なかった)とも言える。
でも、一度皇帝になれば、もう「革命の英雄」ではいられない。
戦争を止めれば権力は弱まり、周囲の国も反撃の準備を始める。
結果として、征服に向かい、最後は没落する。
ここがヘーゲル的に面白いところで、
ナポレオンは「自分で選んでいるつもり」でも、同時に「時代の歯車の中で選ばされてもいる」。
あやつり人形。
この二重構造がある。
④ 世界精神・絶対精神っぽい現象
この「歯車が噛み合う感じ」は、歴史の転換点だけじゃなく、日常にも小さく起きる。
- 人生の転機:ある出会い/出来事がきっかけで、方向性が決まる
- 時代の波:技術革新や社会変化で、可能性が急に開く
- 欲望と環境が一致する:やりたいことと需要が噛み合って、流れが加速する
つまり、「舞台」と「登場人物」が揃うと、歯車が回ることがある。
そして回り始めた流れの中で、
- 流されるのか
- 気づきを得て、どこかでハンドルを切るのか
ここが人生の分岐点になりやすい。
歯車が動き出した状態での選択は、転機になりやすい。
そう思ってる。
歯車が動き出すとはどういうことか?


人生には、ある瞬間から物事が連鎖的に展開して、流れが戻らなくなる局面がある。
「たまたま起きた偶然」に見える。
でも実際には、過去の選択や環境の積み重ねが“舞台”を作り、そこに“登場人物(自分)”として立った瞬間に、連鎖が始まる。
運命という言葉を使うなら、こういうことだと思う。
運命とは、突然降ってくるものではなく、噛み合った瞬間に立ち上がる流れ。
- 人生の転機としての『歯車が動く瞬間』
- 歯車が動く瞬間=運命の転機
- 歯車が動き出したとき、どうすればいいのか?
① 人生の転機としての『歯車が動く瞬間』
歯車が動くのは、「一つの出来事」や「一つの選択」が引き金になって、次の出来事を呼び、さらに次が生まれていくとき。
たとえば、
- ある出会いがきっかけで人生が変わる
師匠やメンター、重要なパートナー、偶然の紹介がチャンスになる - ある選択が、その後の道を決める
どの学校・職場を選ぶか、どこに住むか、独立・転職のタイミング - 小さなきっかけが、大きな変化につながる
趣味が本業になる、偶然読んだ本が人生観を変える、些細な決断が後で効いてくる
ポイントは、最初は小さいのに、展開が連鎖して“戻れない感じ”になること。
これが「歯車が動く」状態。
② 歯車が動く瞬間=運命の転機
ナポレオンのような偉人だけじゃなく、私たちの人生にも「この瞬間から流れが変わった」と感じる点がある。
歯車が動き出すときのサインは、だいたいこう。
- 直感的に「これは大事だ」と感じる
- 偶然に見えるのに、妙に噛み合っている
- その後、立て続けに新しい展開が起こる
- 元に戻ろうとしても、もう戻れない
「たまたま読んだ本」が転職のきっかけになった。
「たまたま行った場所」で人生の師に出会った。
「たまたま始めたこと」が仕事になる。
こういう話はよくある。
でも、それは単なる偶然というより、その人の積み上げが舞台を整えていたから、噛み合った——そうも言える。
③ 歯車が動き出したとき、どうすればいいのか?
「歯車が動いた」と感じたときに大事なのは、勢いでも恐れでもなく、判断の質。
私が考える対応は3つ。
乗る(加速させる)
チャンスが来たら動く。
出会い・挑戦・提案を大切にする。
流れが本物なら、動いた方が展開する。
見極める(距離を取る)
全部の流れに乗ればいいわけじゃない。
「これは自分の道か?」を問い直す時間も必要。
「勢いがある=正しい」ではない。
気づきを拾う
転機は、派手な確信じゃなく、小さな違和感や直感から始まることが多い。
「違和感」を無視しない。
ここを無視すると、あとで大きな迂回になる。
けど、迂回が必要になるときもある。
歯車が動き出す瞬間を見逃さない
転機は、偶然の顔をして来る。
そして一度回り始めると、元の状態には戻りにくい。
だから大事なのは、
歯車が動く“その瞬間”に、自分がどんな状態でいるか。
ここで私は「高次元」という言葉を使いたい。
ただし、スピっぽい話じゃなくて、意味はシンプル。
なぜ『歯車が動き出す瞬間に高次元でいること』がいいのか?
低い状態(視野が狭い状態)だと、迂回しちゃうのよ。
- 恐れで逃げる
- 欲で飛びつく
- 承認で選ぶ
- 目先の安心で妥協する
- 過信でサインを見逃す
結果として「大きな迂回」が起こる。
逆に、状態が整っていると、
- 何が起きているかを冷静に見れる
- 何を守り、何を捨てるかの優先順位が立つ
- 「必要な痛み」と「不要な痛み」の区別がつく
- 自分の道を選びやすい
だから普段の在り方が効いてくる。
生活を整える。
心を荒らさない。
関係を雑にしない。
この積み上げが、転機での判断の質を上げる。






結論
歯車が回り始めたとき、人は「加速する」か「降りる」かを迫られる。
そのときの判断の質は、普段の在り方で決まる。
「運命が決まる」というより、
運命っぽく見える流れに対して、自分の手綱が残るかどうかが決まる。
私はそう捉えてる。


個人が自己の本質を理解し、それを実践することは、より良い人生を築くための原則でもあると思う。
これは、マズローの自己超越の概念と完全に一致すると思う。
ヘーゲルの絶対精神=マズローの自己超越


マズローの自己超越は、個人側で起きる“全体化”。
ヘーゲルの絶対精神は、歴史側で起きる“全体の自己理解”。
ベクトルは違う。でも、どちらも「部分の視野が全体へ接続される」という点で相似形。
マズローの自己超越とは、自己を超えて、より大きな存在と一体化すること。
エゴを超え、すべてのものをあるがままに理解し、受け入れる境地。
ちなみにアドラーは、人の幸福は「共同体感覚」にかかってると考える。
ここで言う“全体”は、ヘーゲルの歴史論やマズローの自己超越ではなく、もっと地上の——人間の共同体のこと。
それでも構造としては共通していて、どれも「エゴ中心から、より大きい全体へ視点が開く」という一点で相似形なんですよね。


ヘーゲルの絶対精神=アドラーの共同体感覚


アドラー心理学では、成熟の方向として「共同体感覚」が語られます。
それは、自己中心の関心から抜けて、他者・社会という全体に参加し、貢献できる状態のこと。
アドラーにとって「全体」とは、地上の共同体。
「自分は世界の一部であり、世界は自分の一部である」という言い方をするなら、それは所属と責任の感覚に近い。
一方ヘーゲルの絶対精神は、歴史(世界精神)が経験を通じて自己理解を深め、芸術・宗教・哲学の次元で、全体を“知”として把握する段階。
ここでの「全体」は共同体ではなく、歴史の理性そのもの。
ベクトルも“全体”の定義も違うけど、それでも構造としては似ていて、どちらも
「自己中心の視野から、より大きい全体へ視野が開く」
という一点では相似形だと言えますよね。



“全体”の定義と、到達の形は違う。
ヘーゲルは歴史の理性を知として把握し、マズローは存在全体へ体験として接続し、アドラーは共同体へ貢献として接続する。
——あくまで私の仮説。
まとめ
ヘーゲルは「絶対精神」を、宇宙的なスピリチュアル理論として語っているわけではなくて、あくまで、歴史の展開のなかで理性(世界精神)が自己理解を深めていく——その到達点として説いている。
ただ、個人的にはここに「宇宙的法則」と呼ばれるものに似たものを感じていて、なぜなら、どの時代でも、どの人間でも、原則(因果)を無視したままでは整合が取れず、結局どこかで回収されるから。
とはいえ、ここで宇宙論に寄せすぎるとズレる。
それはヘーゲルというより、スピノザ的な一元論(神=自然)の方向に傾きやすい。
ヘーゲル自身がスピノザを近代哲学の起点として評価したのは確かに重要だけれど、ヘーゲルがやっているのは「歴史」という運動の記述。
世界精神は歴史を通じて自己理解を更新していく。
その運動のなかで、芸術・宗教・哲学としての絶対精神も、より明晰なかたちで自己を表現していく。
そして整理していくと、ヘーゲル(歴史の理性)、マズロー(個人の自己超越)、アドラー(共同体感覚)は、同じことを言っているようにも見えてくる。
同一概念ではない。けれど、どれも「自己中心の視野から、より大きい全体へ接続される」という構造を共有していると見た。
知識は疑え。



こういう風に考えると、面白いかなって言う持論。





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