
ほめられたい!って思ったことある?



ある。



なんで、ほめられたいと思ったの?



……え?なんで?って……ほめられたらうれしいじゃん。



なんでうれしいの?



……えー……なんで???
とたんに、言葉が出てこなくなる。
自分の感情に、うまくアクセスできない。実は、そんな大人はたくさんいます。
仕事もこなしてる。日々はちゃんと回っている。
でも、ふと立ち止まったとき──『この人生、ほんとうに自分で選んでるのかな?』そんな、不確かな感覚に胸をつかまれる。
感情に疎いってことは、“人生のハンドル”を、知らない誰かに預けてるようなものかもしれません。
感情は、“生き方(人生)の方位磁針”です。
見失えば、どこに向かいたいのかも、今どこにいるのかも、わからなくなる。
……けれど。
この『気づく力』は、あとからでも育てられます。むしろ、大人になった今だからこそ、育て直すチャンスがある。
そしてその力は、自分にも、子どもにも、きっと役に立ちます。
感情は、未来へのナビになる。忘れかけていた自分を、もう一度迎えにいく手がかりになる。
このブログでは、思考のフレーム渡し(このブログは考え方のツールボックス)をしているとプロフィールでも書いているんですが、感情と思考は、どちらも『人生のナビ』になります。
→ 喜び・不快・違和感・安心などから、『こっちへ進みたい』『それはやめたい』と教えてくれる
→ 優先順位、道筋、合理性、長期的視点から、『どう実現するか』を支える
まずは、感情に気づかないと進み方もわからない。



この記事では、『感情に気づく』ことの意味と、その育て方について──子どもにも、大人にも通じる“やさしい問いかけ”から、一緒に考えてみようと思います。
感情に疎いと、何が起きるのか?


感情に気づかず生きるのって、ナビも地図もないまま、運転してるようなものです。
1. 感情=ナビ
- 感情は、自分が『何を大事にしているか』『今何を感じているか』を指し示す。
- つまり『どこに行きたいのか』を感じ取る装置。
2. ナビがない=方向性がわからない
- 感情にアクセスできない(無視する・抑える・否定する)と、“自分がどこへ向かうべきか”が見えなくなる。
3. 地図=自分の人生観や価値観の全体像
- 地図は『世界の構造』と『自分の立ち位置』を理解するもの。
でもナビ(感情)がなければ、その地図のどこを目指すかも、今どこにいるかも、わからないから、地図があっても無いのと一緒。
4. 教育は通り方の“マニュアル”
- 教育が与えてくれるのは、『交差点では止まる』『青信号で進む』といったルール。
- でも、それは目的地がある前提の話。
- ナビも地図もないままでは、そのマニュアルが“ただの動作”になってしまう。
『感情がないということは、そもそも“どこへ行きたいか”すらわからなくなる』
『そして、それがわからなければ、どんな知識も技術も意味を持たない、交差点にすら気づかない』
事故るまで気づかない。曲がり角が見えてこない。
感情が“ない”わけではなく、“感じていない”か、“感じてはいけない”と思い込まされている可能性。
つまり
- ナビは壊れているのではなく、ミュートされている/信じられなくなっているだけかもしれない。
- 教育や社会の『ルールに従え』で、自分のナビを信用しなくなった人が増えている可能性。



とりま、今日も元気に迷子。
- 経験を『感情ベース』で振り返る力が育っていない
- 感情の語彙が乏しいと、自己理解も曖昧になる
- 『やさしさ』に気づくことができない。“気もちのセンサー”が反応しない
- 感情を“素直に語る”ことにブレーキがかかる社会性
① 経験を『感情ベース』で振り返る力が育っていない
行動の記憶はあっても、『どう感じたか』が語れない人の多さ。
──『何をしたか』は覚えてる。でも『どう感じたか』は…?
たとえば。



今日どんなだった?



◯◯に行って、△△をして、そのあと□□して…
とスラスラ答えられる人は多い。



どう思ったの??
どう….思った???



“楽しかった、かな”“まあ、普通?”



……おや、語彙が迷子になっている。
子どもだけじゃなくて、大人もです。行動のログはあるのに、感情のラベルが貼られていない。だから自己理解が深まらない。だから選択にも自信が持てない。
感情を言語化する力がないって、自分の『YES』や『NO』が曖昧なまま生きるということでもあるから。これ、人生の舵取りにおいてはけっこう致命傷です。
② 感情の語彙が乏しいと、自己理解も曖昧になる
『好き・嫌い』や『嬉しい・悲しい』以外が分からない危うさ。『うれしい or つらい』しかない世界、ちょっと狭すぎない?もしくは、『うれしい or つらい』すらも不明なことがあるかもしれない、それくらい鈍感になっていってる可能性。



“喜怒哀楽”って、もはや四畳半、ううん、一畳かもしれない。
大人になるって、感情の間取りを拡げていくことだと思うんですよ、通常は。
でも現実は?
『うれしい』か『かなしい』かの2択。『ムカついた』か『まあいいや』の往復。
そのあいだにあるはずの、悲しい・悔しい・残念・誇らしい・ほっとした・不安定・照れくさい……が、ぜんぶすり抜けていく。すり抜けていくというか、気づかないに近いかも。
語れない感情は、気づけない。気づけない感情は、対処できない。結果、『自分が何を大切にしてるのか』が、ぼやけたままになるんですよ。
言葉は、感情のハンドル。握らなければ、ただ流されるだけ。
③ 『やさしさ』に気づくことができない。“気もちのセンサー”が反応しない
やさしさ、それは、『自分がどう感じたか』『相手がどう感じるか』にアンテナが立ってはじめて機能する“感情のやりとり”でもありますよね。
でも、感情に疎くなっていると──
- 相手のやさしさに気づけない
- 自分のやさしさを自分で認められない
- すれ違っても、何がズレたのかが見えない
こんなことが、余裕で起こります、日常茶飯事。人間関係悪化の一途をたどる図。
たとえば、こちらは『そっとしておくのがやさしさ』だと思っていたのに、あとで『なんで声かけてくれなかったの?』と言われて落ち込む。
逆に、『元気?』と毎日声をかけられていたのに、ある日『ちょっと、放っといて』と言ってしまう。



普通声かけるよね?放っておいてほしい日もあるでしょ。
とても主観的になって行くの図。



普通って何?
これはつまり、“気持ちのセンサー”が反応していない状態で起こります。
でも、自分の中に『こういう“やさしさ”を大事にしてたんだな』と気づいて言葉にできると、少し状況が変わってきます。
- 自分のやさしさが、相手にどう見えたかは、自分にはコントロールできないこともある
- 『私は、自分なりに考えて動いた』と言える
- 伝わらなくても変な罪悪感は抱えなくていい
そのとき生まれるのが、“自負”です。自分で自分のやさしさに〇をつける感覚。それが、関係の中に『ちがいを許せる余白』になるから。そして、相手のやさしさにも、もしかして….と気づくことができるようになる。
④ 感情を“素直に語る”ことにブレーキがかかる社会性
『正解っぽい答え』ばかり出そうとしてしまう大人たち。
──『正解っぽい答え』ばかり出そうとして、気づけば“自分不在”。どこ?



本当はこう感じたけど、言うと変かな?
正直ムカついたけど、角が立つから言わない。
泣きたかったけど、大人だし我慢した。
──そのまま何年も経ってません?
子どもの頃は、感情をまっすぐ出していた(できなかった人もいるかもしれない)。
でも、大人になると“素直”にはリスクがつく。空気、立場、雰囲気、大人の対応……。
そうやって『正しさ』は増していくけど、『自分らしさ』は削られていく。子どもの頃に、感情をまっすぐ出すことができなかった人は、削られるのではなく、そのまま(我慢の癖がつく感じ)大人になっていきます。
気づけば、自分の気持ちより、“世の中にウケのいい答え”を出すことに最適化された存在になっている。
その道の先にあるのは、立派な“空洞”かもしれない。
感情に気づけないって、ちょっと恥ずかしいとか、ちょっと不便って話じゃない。
『自分がどこに向かって生きてるのか』を見失うってこと。



でも大丈夫。これは練習すれば取り戻せます。そしてそれは、子どもにも、大人にも、“もう一度、自分に出会う力”になる。
感情を見失うと、人生の“ハンドル”を手放すことになる


人生は、ドライブにちょっと似ています。
どこに行きたいかはっきりしていれば、遠回りしてもまあ納得できる。
でも、『どこ行きたい?』と聞かれて『どこでもいい』と答えたまま乗ったら…たいてい、よくわからないところで降ろされます。しかも、靴も服もびしょびしょ。
じゃあ、その“どこに行きたいか”を教えてくれるのは何か?
地図?ナビ?……違います。それは、自分の感情です。
『楽しいかも』『なんか違う』『ムリっぽい』『やってみたい』──そういう心のハンドル感覚がないまま進んでしまうと、気づいたら、『え、なんでここに?』という場所に立っていることになります。
- 『何となく』で進路や人間関係を選んでしまう
- 『自分がない』まま他人に流される危うさ
① 『何となく』で進路や人間関係を選んでしまう
感情がナビにならない状態とはどういうことか。
中学・高校・進学・就職・恋愛・結婚・人づきあい──『なんとなく』で決めて、『なんか違う』と感じて、『でも理由がわからない』っていう人、実はけっこう多い。
この『なんとなく症候群』、根っこには共通点があります。
それは、『自分が何を感じてるかがわかってない』こと。
- 楽しい?…たぶん。
- 嫌?…まあまあ。
- 本当にこれでいい?…さあ…多分。
感情のナビが反応しないと、道が正しいかどうかもわからない。
しかも、一緒にいる人が『こっちだよ』『こうしなさい』と言えば、『うん…そうかも、そうする』とついていってしまうし、いつも聞いてしまう。自分で判断ができない。
──自分がいない旅のはじまりです。
② 『自分がない』まま他人に流される危うさ
嫌でも断れず、期待に応え続けて疲弊する構造。
たとえば
- 『手伝ってくれる?』→(断れない)『うん』
- 『こういうの得意だよね?』→(断れない)『うん』
- 『これもお願いね』→(だんだん顔が死んでる)『うん…』
本当は嫌だ。



でも、断ったら嫌われるかも、キレられるかも、理由が言えない….
→ 結果、“NO”を出せないまま、ずっと“YES”を出し続ける人間自動販売機へ。
周囲からは『気が利く子』『やさしい子』って言われるけど、本人の心の中では、バッテリーがじわじわ減っていく。
そのうち、笑ってる顔と、感じてることがどんどんズレてきて──自分の中の“ハンドル”を完全に手放すことになるんですよ。元気に迷子なら、まだマシかも。そのうち、ただの迷子になる。
だからこそ──
“今の自分”が、
- 何に『ワクワク』して
- 何に『イヤだな』と感じて
- いつ『ちょっと無理』と思っているのか



それを少しずつ、自分でつかんでおくこと。そして、言葉にできれば、言葉に残すこと。それが、ハンドルを他人に預けずにすむための唯一の方法なんです。
『いま、自分はどう感じてる?』
『それ、ほんとはどうしたい?』
この2つを丁寧に扱える人は、『NOを言えないままYESばかり言って疲れる』状態を少しずつ抜け出せます。まずは、自分の感情に気づき、それを否定しないことが大事だと思うんですよ。
持論ですけど、空気を読みすぎて、自分の声を消し続けることに、何の意味があるんでしょうね。
わたしはそう思っています。
でも同時に、『自分はこう思ってる』と明け渡すことは、鎧を脱ぐような行為でもあって、多くの人にとって、それは怖いものかもしれない。
だから、自分の気持ちを濁す。引っ込める。気づかないふりをするか、本当に気づかないか。どちらかだ。
わたしは、それを言葉にしてしまうから。
だからそんな私は、人によっては、『怖い』と感じられることもあるんだとは思う。今度はそれが、自分のつらさになることもあって、わたしみたいな本質を突く人は、ときに不安のタネとして映るのかもしれない。



そういう理解されない悲しさは、たしかに、わたしの中にもあります。けど、それが私なりの誠実さでもあって、わたしはわたしで、わたしを否定できない。
周りとよく、揉めたから。けど、自分の怒りだと思ってた感情が、実は悲しみから来ていたことに気づきだすと、周りのことも見たままみてはいけないことに気づいたから。
そういう私の姿勢がきっと、本当の気持ちまで見られているような気がして、ザワつくのかもしれない。
だから私は、異質に映ることがあるのかもしれない。でも、それが私だし。
わたしは誰も責めないし、試さないんだけれど、わたしの存在自体が、何かを“突きつける”ようにも思えるんだとも考えられる。
それでも、わたしはこう思います。
見つかった感情を、誰かに託すという選択もある。『感じたこと』を、自分に正直に扱えた時点で、もう一歩、自由に近づいていると。



言葉にすることで孤独になることもあるけれど、言葉にしないことで迷子になることもある。迷子になるくらいなら、わたしは言葉にすることを迷わない。
それが、“自分の人生を、自分の手で選び直す力”につながっていく。わたしは、そう思っています。
感情との接続を取り戻すには?


一度手放してしまった“感情とのつながり”は、もう戻らないのか?
──そんなことはありません。
むしろ、現代では、誰もが一度は感情から切り離されてしまう瞬間がある。
でも、『わからないままにしない』ことで、もう一度自分の心とつながることはできる。
それは、“感情を感じる力”というより、『自分に問いかける習慣』を少しずつ取り戻すこと。
- 子どものうちから育てたい、“感情と行動”の接続
- 大人が『問い』を投げかけることの価値
- 後天的に“感情の感度”を取り戻すことはできる
① 子どものうちから育てたい、“感情と行動”の接続
感情を言語化し、自覚する習慣をどう育てるか。たとえばこんなこと、子どもたちは日々感じている。
- 『イライラしてて友だちにきつく言っちゃった』
- 『悲しかったけど、がんばった』
- 『うれしい気もちを、うまく言えなかった』
でも、ここで止まってしまうと、感情はただ通り過ぎていくだけで、自分の中に残らない。
だからこそ必要なのが、『今どんな気もちだった?』と自分に問いかけること。
それを日常の中でくり返すことで、『気もち→行動→ふり返り→次の行動』へとつながる感覚が育っていく。
感情を感じることと、感情を言葉にして扱えることは、まったく別の力。
そしてその力は、習慣として育てることができる。
もう少し具体的に説明すると
感情を『感じる』だけなら…
- 赤ちゃんでも動物でもできる
- 驚く、泣く、笑う、怒る、など生理的・自動的な反応
- たとえば『なんかイライラする』『ざわざわする』という、漠然とした体感
→ これは感情の発生。でも、ここではまだ『それをどう扱うか』はできない。
感情を『言葉にして扱う』とは…



私は今イライラしている。それは期待が裏切られたからかもしれない。このモヤモヤは、きっと不安。はっきりしない未来に対する不安だ。
→ これは、感情の認識・意味づけ・表現・共有・選択のための力。つまり、『感情をナビとして使えるようにするための言語スキル』になります。
なぜこの違いが重要なのか?
感情は『感じただけ』だとただの反応で終わってしまいます。でも『言葉にする』と──
- 自分の状態に気づける(自己認識)
- 他人に伝えられる(対話)
- 自分で対処できる(感情調整)
- 次の行動を選べる(意思決定)
つまり、感情が“道具”になる。人生を運転するハンドルになる。
感情を感じるだけでは、それはただの“波”でしかないんですよ。感情を言葉にできてはじめて、その波に“舵”をつけられるようになる。
② 大人が『問い』を投げかけることの価値
誰かの寄り添いや言葉が、気づき直しの起点になる。
感情は、外から見えないじゃないですか。
でも、誰かが『それって悲しかった?』と聞いてくれることで、自分でも『あ、悲しかったんだ』と気づくことがある。
これは、子どもだけでなく、大人も同じです。
だから大人ができることは、『こうしなさい』と言うことではなくて、『今、どんなふうに感じてた?』と問いを差し出すこと。
それだけで、子どもの中に眠っていた気もちが浮かび上がってくることがあります。
問いは正解を求めるものではなく、“ふり返りの回路”をつくるきっかけになる。
③ 後天的に“感情の感度”を取り戻すことはできる
自分の人生を“引き受ける力”は育てられる。
『私は何が好きか』『何を大事にしたいか』そんな問いに即答できない大人も結構多い。
でもそれは、“感情が育っていない人”ではなく、“感情に耳をすませる機会を与えられなかった人”とも言える。
後天的でも、



イライラしてたけど、多分、悲しかったんだな..
と気づき始めることはできる。
そしてその小さな発見が、『自分の人生を自分で引き受ける力』につながっていきます。
感情は、生まれつきの能力じゃない。
使って、気づいて、ことばにして。
ようやくハンドルにできる。



そうやって、『自分の中のセンサー』を自分のものにしていくプロセスこそが、生きる力の本体だと、わたしは思っています。
だって、誰のものでもない、自分の人生だから。
まとめ
なぜ、ここまで感情にフォーカスしているかというと、自分の内側を知ることが、人生に影響を与えるからです。これは、大人にも子どもにも共通することでもあります。
→ 苦しいのに『苦しい』と言えず、助けも求められない。
→ 自分の価値観が持てず、『目標』や『やりたいこと』が持てない。
→ 嫌なのに断れない、人の期待を背負って疲弊する。
→ 就職も進路も人間関係も、何となくで選んで、選ばされて?何となく不満を抱えて生きる。
こうなると、自分の感情がナビにならない。つまり、“生きるために必要な人生のコンパス、方位磁針”が壊れた状態で人生を歩くことになる。
実際、以下のような大人は少なくないと思います。
- 『うれしい』『たのしい』『つらい』『悲しい』以上の語彙を持たない
- 感情を聞かれると黙る、あるいは理屈で答える、理屈ばっかり
- 『あなたはどうしたいの?』に即答できない
- 『なんかモヤモヤするけど、何が嫌なのか分からない』と言う
だから人に流される、判断を人任せにする。表面的にはちゃんとして見えるから、見過ごされやすいんです。
じゃあどうすればいいのかというと、この危機感を持っている人が子ども期の“感情と行動の接続”をていねいに育てることにあります。
話は逸れるけど、その意味で、わたしの作っている道徳補強教材は、生きる力の根っこに水をやる教育だと思っています。私たちが子どもの感情に丁寧に付き合うことは、その子が“自分の人生を引き受けられるようになる”ための種まきです。




自分の感情にうとくても、後天的に気づき直すことはできる。でも、それには誰かが問いを投げかけたり、寄り添ってくれる環境が必要です。
今、あなたのナビ(感情)は『どこに行きたい』と言っている気がしますか?
あるいは、『どこから離れたい』と感じているのか。
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