将来の夢は?
どんな大学に行きたい?
10年後、何になっていたい?
未来設定、すごく大事。むしろそれが無いとダメってくらい大事。
けど、いつだって『未来』から逆算。
子どもたちは、明確なゴールを持つことを求められ、『そのために今をどう使うか?』を常に問われてきてる。
だけど、ふと思う。
想像していた未来に就職できなかった人、思っていた仕事と違って辞めた人。
だけど、どれだけ『夢』や『目標』を掲げても、その過程で“違和感”に気づいた瞬間、方向は簡単に変わってしまう。
『目的を叶えるための今』も大事、だけど、それすら曖昧な教育だとも思う。そんな中、どうにか自分の目標を探り、目標を定め職に就く。そいう人もいれば、いったい自分が何になりたいのか、どんな職業が向いているのかすら問わない、問えない人もいる。
感情を整理して“いま”の自分を捉え直す。日々の中で『自分にとって納得のいく選択とは何か?』を感じ取ること。
——その練習は、ほとんど教わらないし、目標を定めて、ゴールから逆算する練習もほとんどないよね。というか、その自由が奪われる環境すら存在することがある。
そんな『見えない未来』を変えられるとしたら、それは唯一、“今の選び方”だけ。
未来を握っているのは、他でもない、“いま”の私。
今この瞬間をどう感じ、どう選ぶか。
それが、今の自分を大切に生きることにつながるから、今の自分も未来の自分も尊重できるようになる。
そうだと思いません?
だから私は、自分なりに『経過思考型』という考え方を持っています。ずっとじゃない。けど、時に採用するスタイル。
ゴールを描くことも大事。
だけど、“目的の達成”だけじゃなく、『いま、自分が納得しているか?』を選択の軸にする。“今ここ”の問いや感情、気づきを根拠にして次の一歩を選ぶ。
そんな積み重ねが、結果として未来をつくっていく。
この記事では、そんな『経過思考型』の視点をまとめてみました。
ゴールに向かって、一直線に走れ!ゴールが曖昧だったとしたら?

『ゴールに向かって、一直線に走れ!』
正解と言えば正解。
けど、ゴールが曖昧だったとしたら?
- ゴール設定しか教えない日本の教育
- 『正解を選ぶ訓練』が“違和感”を無視させる
- 見えない未来を“正確に描け”という矛盾
① ゴール設定しか教えない日本の教育
『いま何がしたい?』じゃなく、『大人になったら何になる?』しか聞かれない構造もある。
そう。『未来が見えてる前提』でプログラム。
ゴールがあるから地図を描け!!

という話なんだけど……目的地が蜃気楼だったら、そもそも地図が成立しないというジレンマ。ぼーんやり、ぼやける。
ぼーんやり、ぼやけるどころか、なんにも描かれてない白紙の人だっている。地図もない。
② 『正解を選ぶ訓練』が“違和感”を無視させる
『この答えが正解です』
『みんながこう言ってます』
『点数が高ければOKです』
で?あなたの違和感はどこへ?
『この道しかないよ』って押しつけられると、人間って疑うより従うんですよね。



そうするのが、正解なんだ….
そりゃ内心モヤモヤしてても、『今さら引き返せないし……』って惰性で突き進んじゃう、これなら、まだマシ。それより悪化すると、問わない、問えない。
違和感=黄信号なのに、誰も注意の仕方を教えてくれない構造もあるし、違和感すら気づけない。
そりゃ将来迷子にもなるわけで。
③ 見えない未来を“正確に描け”という矛盾
『10年後の自分を想像してみましょう』
これも、とても大事。そこに向かって突き進む人生って素敵だから。
これがうまくいくといいけれど、見えない未来を描くには、『いま、自分がどう在りたいか』に根ざすしかない。
でも、そんな感情の扱い方なんて、学校じゃ一切習わない。
“心の声を聴ける力”が育ってないのに、どうやって“納得のいく未来”を選ぶのか疑問でもある。
“いま”の自分を選ぶ力が未来を変える


未来を変えるって、なんかこう、ドラえもん的なSF感ありますけど――実はすごく地味です。
タイムマシンもタケコプターも要りません。必要なのは『いま』の自分を選ぶ勇気だけ。
たとえば
- いま怒ってる自分を『まあ、いっか』とスルー → 積もる不満で3ヶ月後爆発
- いま寝たいのに『返信しないと嫌われるかも…』とスマホ → 将来、自己否定の温床に
- いま本音を言いたいのに『嫌われたくない』で黙る → 3年後、なぜか誰も信用できない
未来って、“いまの自己否定”がこっそり育ててる地雷畑だったりします。
逆に、『いまの自分にYesって言う』選択を積み重ねると、未来はわりと見方になる。Yesが言えるかどうか?が一番大事だったりする。
- 『結果』ではなく『納得』が人を動かす
- 感情ベースの選択が、人生の軸になる
- 未来の不安に支配される人の共通点
① 『結果』ではなく『納得』が人を動かす
世の中、『正解』を探す人ほど、なぜか動けない。
一方、『自分で納得できるかどうか』を判断軸にしてる人は――
- 失敗しても自己否定しない
- 選択の責任を人のせいにしない
- 意外と楽しそうに失敗してる(そこ大事)
つまり、『結果が出るからやる』んじゃなくて『やることで、自分に嘘をつかないからやる』人は強い。
結果主義の人:『うまくいかなかった、どうしよう』
納得主義の人:『うまくいかなかった、でも私は間違ってない』



…この差、あとあと人生で効いてきます。
引き寄せとか、色々なところで作用してくるからね。
自分を取り巻く環境が変わるから、当たり前。
だって、波長にも影響してくるから。その波長を脱したかったら動くしかないんだって。
② 感情ベースの選択が、人生の軸になる
『冷静に考えよう』って大事だけど、人間って基本、感情でしか動けない生き物です。だから飼いならす必要もあるんだけれど。
感情をスルーして理屈だけで選ぶと――
- やりたくないのに『正しいから』で進路決定 → 無気力地獄
- ワクワクしないのに『安定だから』で就職 → 月曜からずっと魂抜けてる
- 『絶対、運命の人 』(執着を男らしさと勘違い)で結婚 → 思考の暴走で離婚待ったなし
感情ベースの選択は、理屈では説明しづらいけど、“生きてる実感”を生む。
だから大事なのは、『感情に流されるな』じゃなくて、
『感情に気づけ。ちゃんと対話しろ。できれば一緒に踊れ。』
まぁ、難しんですけどね。大体が踊らされてる。潜在意識というものに乗っ取られて。
③ 未来の不安に支配される人の共通点
未来の不安って、なんか脳内に住んでる小さなオバケみたいなもので――放っておくと勝手に増殖します。



このオバケと対話する時間ね。笑 意味ある?
ゴーストバスターズが何千人必要なの?
オバケと“真剣に”対話する時間。


不安に支配されやすい人には、こんなクセがあります。
- 『こうなったらどうしよう』思考だけで1日終わる
- シミュレーションばかりで、現実の一歩が出ない
- 『自信ない』が口ぐせ(自信は行動の“あと”で育つんだけどね)
最大の共通点は、“まだ来てもいない未来の気分”で、いまの自分を縛っている。
つまり、『まだ降ってもない雨のために、傘さして玄関から一歩も出られない人』。
槍とか刃物が振ってくると思ってる。そりゃ、疲れるよね。
でもそれ、雨なんだよ、ただの雨。
それを槍に変換してるの、自分なんだよね。
なんで、刃物に見えるの?
理解はできるけど、わたし流で考えると、



変わりたいのか、変われないのか分からないけど。
どの道、そう、したいんだろうな。留まりたいんだろうな。
変化を望んでないんだろうな。
(雨を槍や刃として、まだ見たい、見ておきたいんだろうな)
で、終わる。で、これが正解だったりする。潜在意識の回答だから。何にせよ、行動がすべて。
わたしは、雨が槍や刃物に見える理由を、ちゃんと知っている。
その姿に変えているのは、わたし自身の“過去の記憶”や“痛み”だって。あなたにも、それがあることも。
でもそれを知らない人にとっては、わたしがただ鈍感に見えることもあるかもしれない。



なんで怖がらないの?
って。
その世界は、あえて鈍感なのか、知りすぎた故なのか、わからないんだって。どっちもかもしれない。けど、自分の見え方を絶対視しないことで、他者の景色も否定しない。その姿勢が、たぶん尊重っていう形になってるんだと思う。
あるいは、どっちもかもしれない。わからなさを抱えたまま、他者を尊重してる。それだけは、ちゃんと信じてる。
だからこそ、“同じ雨”を見るための対話は、いつだって勇気のいることでもある。
対話がないと、互いの見てる景色が“同じ雨”だとも思えなくなる。それぞれの傘の下で、別々の嵐が降っているように感じてしまう。
オバケが数千出てくる世界だ。
この世界がわかるだろうか?



でもまぁ、傘の下で一人、オバケとしゃべってるわたしも、傍から見たら立派な変人なんだけどね。
“動きたくなるほどの納得”が整ってないなら、整うまで“正直でいる”という自覚的な行動も立派な前進ではある。そうした経験もある。セルフ・コンパッション。
それすらせずに、“オバケとダンス”してるフリして止まってるなら、それはもう自作自演の罠でしかない。
だからこそ、今ここで、
- 留まりたいなら、正直に留まる覚悟を。
- 動きたいなら、小さくても動いてみること。
いずれにせよ、自分に嘘をつかない。
それが、未来の自分に対する最大の誠実。
見えない未来に向けて、教育ができること


いまの子どもたちが大人になる頃には、
『AIが全業種の65%を担い』
『◯◯力が重要になり』
『◯年後には◯が消える』
…といった“未来予測”が飛び交っているけど、これまで多くの予測は外れてきてますよね。
現実には『消える』というよりも、“変わる”“複雑化する”傾向のほうが強い。
でも、AIが急速に進化している今、今回ばかりは当たる可能性も高い。
だから、考えて、行動する力ってすごく大事。
『我慢』とか『根性』とかじゃなく、『わからない未来の中で、自分で選び、動き続ける力』。
それがないと生きていけないと思う。
- 経過志向を育てる“問いかけ”とは?
- 感情を扱う授業が必要な理由
- ゴール設定と“いま”の折り合いを教えるには?
① 経過志向を育てる“問いかけ”とは?
例えばね、クラスでピアノを弾く人の選抜があったとするじゃないですか。
その後に、



間違わずに弾けた?
選ばれた?
ってだけ、聞きたくもなるじゃないですか。
でもそれって、ゴールしか見ない“消費型の学び”になりやすいんですよ。
わたしが意識しているのは、例えばこんな問いかけです。
- 『どこをどんな風にがんばれた?』
- 『他の子と比べてみて、自分はどこがよかったと思えた?そういうところ、ひとつでもある?』
- 『この人すごいなっていう子、いた?どんなところがすごかった?』
- 『次から、どんな風にがんばったらいいと思う?』
こうやって聞く。
これって、結果じゃなく“経過”に目を向ける問いなんです。
正解かどうかじゃなくて、
- その子の中で何が動いたか?
- どんな変化や挑戦があったか?
を価値として見ようとする姿勢。
こんな問いを繰り返していると、



前より〇〇できた。
今回はダメだったけど、次は〇〇しよう!
と、“プロセス思考”が自然に育ってきます。
すると、未来に何があるかわからない状況でも――
- 一発で結果を出さなくてもいい
- 動きながら整えていけばいい
- 小さな気づきが判断の材料になる
そうやって、“未完了の世界”を生き抜く力が育ってくると思うんですよ。
これ、スルーするとどうなるかって、



先生が、ここまででいいって言ったところまで練習して、間違わずに弾けたけど、くじ引きになった。



はい、逮捕。
そしてこうなる。



あなたが参加したのは、ピアノ選抜じゃなくて、くじ引き大会だって認識ある?



え?くじ引き…..
そして始まる。



そう、くじ引き大会でしょ?
だって、先生から、ここまででいいって言われたところまでだけ、練習して弾いてくじ引き。ここまででいいって言われた、その意図を考えもせず鵜呑みにし、練習もさほどせず、弾いてくじ引き、残念。
悔しがらない、何も学んでない。
何しに行ったの?そもそも、何でそんなものに参加したの?
ちゃんと参加してる子にも迷惑だって。
そっから、長くなりましたが、娘納得。
② 感情を扱う授業が必要な理由
未来社会で必要なのは『非認知能力』――って、最近よく言われますよね。でも、ぶっちゃけそれって、つきつめればこういうことじゃない?
非認知能力とは、数値やテストでは測れない力のこと。
たとえば
- 感情調整
- 自己肯定感
- 協調性
- やり抜く力
- 柔軟性
- 自己制御
- レジリエンス(回復力)
などが含まれます。
実際、こういう場面で力を発揮するのは『知識』じゃなくて『感情理解』のほうだったりする。
- 緊張して何も出てこない
- うまくいかなくてイライラする
- 友だちの一言で心がざわつく、落ち込む
でも、感情にちゃんと向き合う時間がほとんどないですよね。
せいぜい、



どうして怒ってるの?
なんで泣いてるの?
…と、“理由”を聞いて、それで終わりになってしまうことが多い。だから、現象だけを語るでしょ。
これから本当に必要なのは、



『あなたはいま、どう感じた?』を聞ける場だと思うし、『その感情をどう扱える?』を一緒に考えていくプロセスだと思う。
これは、“感情を解決する”ことじゃなくて、感情と生きていく方法を学ぶ時間。
つまり、未来の不確実性に備える、最も人間的なサバイバルスキルになる。
ここで大事なのは、『他人がどう思うか』より、『自分がどう感じたか』にまず気づけること。
でもそれは、他人を無視する自己中心じゃなくて、『自分の感情に責任を持てる人になる』こと。
たとえば
- 不安を他人のせいにしない
- イライラをぶつけるのではなく、言葉にできる
- 傷ついたことをちゃんと認めることができる
- 自分で回復できる
こういう力が、他者とうまく関わるための“前提条件”。なぜかって、これが自己理解だから。これを自分で分かっていないと、自分を大切にすることができないんですよ。
ということは、他者と大切にすることができなくなるという答えが出る。



え?どういうこと?って?
だから….
不安に気づかず他責にし、何にイライラしているのか分からず当たり散らすしかできない。傷(現在でも過去でも)にすら気付かないで、自虐的になり、自虐に耐えきれず他者に依存し出す。



こういう世界が繰り広げられますよ~。
心理学でいうなら投影の連鎖ね。
感情に気づけないということは、その感情が“存在しない”わけじゃなくて、“気づかれないまま行動に影響している”ということ。感情に気づいていることは、大きな第一歩です。
でもそれだけじゃ、足りない。
『その感情からどんな行動が出ているか?』にまで自覚的でいないと、人は変われない。
たとえば
- 拒絶された経験が『近づきすぎない態度』になる
- 押さえ込んだ怒りが『皮肉』や『冷笑』としてにじみ出る
- 寂しさが『相手を遠ざける言動』につながる、遠ざける言動とは怒りのこともある
こうした行動は、見た目はまったく違っていても、感情の出どころが同じということがよくあります。でも、その“共通の根っこ”に気づいていないと、別々の問題として処理してしまうか、妙な意味付けで終わるんですよ。例えば、相手が〇〇だから、とかで終わる。
すると、変われない。
感情に気づいていても、そこから生まれる行動の“分岐の多さ”と“無自覚さ”に、人はなかなか気づけないから。
これが、変化を難しくしている、難易度の高いもう一つの壁。
10段階で言えば、レベル10だと思う。
だから
『感じていい』こと
→ 『言葉にしていい』こと
→ 『その上で、自分で選びなおしていい』こと
このステップを学ぶことで、人は初めて、“自分の感情に振り回される存在”から、“感情に気づける存在”へと変わっていく。
だからこそ、『自分がどう感じるか』を大切にすることは、他者と調和するためのスタートライン。
それを育てる場として、“感情を扱える授業”がこれからの教育に必要だと、私は本気で思う。
③ ゴール設定と“いま”の折り合いを教えるには?
未来志向は大事。
でも『未来のために、いまを我慢しろ、歯を食いしばって頑張れば、いつか報われる』だけじゃ、子どもの学びは“つまらなくなる”最速のルートをたどりそう。
ゴールが遠すぎると、やる気は持たない。
特に子どもにとっての『未来』は、ぼんやりしすぎていて、熱が乗らない。
たとえば
- 去年の自分より成長できたと思ったこと
- いま楽しいって感じた瞬間
次に
- その成長でどう感じたのか?うれしかったのなら、なぜうれしいと感じたのか?
- いま楽しいと感じた、その楽しいはなぜ楽しいと感じたのか?
喜び、悔しさ、面白さ、わからなさ。それらは全部、『自分ってどんな人間だろう?』という問いへの入り口なんだと思うんです。
『自分は、何に価値を感じる人なんだろう?』
そうやって、子どもは少しずつ『自分なりの意味』で未来とつながっていく。
だから結局は、『意味のある今』を感じられないと、『意味のある未来』なんて見いだせない。
未来は、“今”の中にしか育たない。
例えば、今自分の中に迷いがあるのだとしたら、それが未来の迷いになる。進むのには勇気もいる、不確実な未来に向けての一歩になるから。保証なんてない。だからこそ、自信を持って進まないと、未来の明るさは手に入らない。未来への補償とはただ一つ。
今の自分を信じる力だけ。
じゃないと、人も信用できない。これはデフォになる。だから、どこかで自分を徹底的に信じる術は持った方がいい。
ゴールだけを提示する教育では、人は動かない。
だからこそ、いまを一緒に歩ける教師・親であること。
そこに、教育の腕の見せどころがあるんだと思います。
未来は予測できない。
だからこそ、
- プロセスを大切にする力
- 感情を扱う力
- 今を選び直す力
それらを小さな問いや関わりで育てていくことこそ、教育の役割になっていく。
未来はどこかにあるんじゃなくて、今日に宿ってる。
まとめ
10年後、何になりたい?
未来の話、大事。そのゴールから逆算して、今すべき努力をする目的志向型の目標設定。生きて行く上で、ある程度の目標設定はとても大事。
けど、ゴール設定したとしても、見えない未来もあるでしょう?成功するのかどうか?気になりもする。そんなときに、何を指針に進んでいくといいのか?
そんなとき、わたしは新たに生み出した『経過思考型』という方法を使ってます。
『経過思考型』って、“今この瞬間”の納得・問い・感情・変化に注目しながら、小さな選択と内的な動きを積み重ねて生きるスタイルのこと。
結果を急がず、『変化の途中で考え直すこと』そのものに価値を置く。
不確実性の中で、“未完了の自分”と共に歩む柔軟な思考法。
大事なのは、『未来を当てる力』じゃなくて、『未来に耐える力』だと思うから。耐えるというと難しいかもしれないけれど、その小さな1歩の中にしか、耐える力というのは宿らない。
で、そんな未来にどう備えるか?
じつは超地味です。
タイムマシンもタケコプターもいりません。
必要なのは、
- いま、怒ってる自分をスルーしないこと。
- いま、なんとなく違和感ある自分をごまかさないこと。
この『いま』をスルーし続けると、未来はしっかり仕返ししてきます。未来の地雷は、今の自己否定がそっと埋めてる。そして必ず爆発する。
その爆発まで歩んだ人生は何年?その間に作られた自分の周りの環境は?人間関係は?そんな中で何を引き寄せると思う?想像してみて。爆弾って、年数ごとに大きくなるって知ってる?そして爆発?そっちの方が耐えられそうになくない?
逆に、『いま』の気持ちをちゃんと聞いて、納得して、選び直して――そうやって生きてる人は、未来と仲良くやっていける。
これは断言できるレベル。それが引き寄せでもある。
要するに、未来ってのは、“今日の自分へのツッコミ力”で決まる。



自分を大切にしない選択をしないで。



違う違う違う、そう思ってるのはあなたで、相手ではないことを理解しろ。投影だ。
自分がどうしたいかだけ、考えたら?
投影から出発すると、こんな誤作動が起こるから。
- 相手は何も言ってないのに『きっと怒ってる』と思い込む
- 自分の不安を『相手が信用できないから』とすり替える
- 『傷つきたくない』が、『相手が傷つけようとしている』にすり替わる
そして、ここが一番の危険。
『相手主体で自分の選択を決める』ことが、最終的に“自己否定”に結びつく。
『結果が伴わないと、他責になる』=納得できない自分になる
→ すると『やっぱり自分はダメだ』と思い込んで、
→ また投影が強まり、相手主体で行動するループに入る
この、“非納得→他責→自己否定→さらに投影”の連鎖、めちゃくちゃ多くの人が無自覚にやってるから。
そういう人に、超絶に優しいわたし流でツッコむとこうなる。



気づけ、この自己不一致者が。
投影を終わらせるには、自分の感情を“誰かのせい”にせず、まるごと自分のものとして受け止めること。
そう、誰かのせいにせず、それは『私ってこういう不安持ってるんだな』、『こうされると傷つくってことは、こういう願いがあるんだな』。
この“気づき”と“共感”が入ったとき、初めて投影は投影であると分解されていく。
それは、“結果”ではなく“自己納得”を基準にする生き方であり、同時に、投影を脱する唯一のスタートライン。



おわかりかな?
- いまの自分はどう感じているか
- その感情から、どんな選択をしたいか
- それに納得できるか
——この繰り返しが、投影の渦から抜け出す“唯一の方法”であり、『結果』ではなく『経過』に納得する感性。
自覚的であっても、行動できないこともあるかもしれない。でも、それって、結局自己否定だから。この自己否定のループから抜けるには、行動するしか手立てがない。
自己否定ループは、行動だけが割り込める。
なぜなら、
- 行動は、“自分を信じる”という最初の証拠になるから
- 結果じゃなく、『やってみた』という事実が、脳に新しい回路を作るから
- 小さな行動でも、『動けた自分』を積み重ねることで、“自己概念”が塗り替わっていくから
自覚だけでは変わらない(それは“知識”でしかない)、行動だけでも続かない(“納得”が伴わないと折れる)、自覚と行動がつながった時、初めて『自己一致』が生まれる。
見抜いた側は、そこを脅かさない存在として関わるという選択ができる。つまりは、相手を尊重できるんだよね。
わたしはというと、不完全だったりするが、その不完全は、見破られたことがない。誰にも。だーれにも。けど、自己一致率は100%だから。
わたしは常に行動する。未来を引き受ける覚悟を持って。
雑魚みたいな確約より、必要なのは勇気だと思う。『雑魚みたいな確約=わたし』にはなれないし安売りしたくもない(いくら?)。まぁ、警鐘という名のウエディングベル鳴らして、確約を喜ぶ女子も一定数存在するだろうけれどもね。存在は否定してないよ。警鐘だよって伝えてあげてるだけで。
Do as you like….


Take care.
じゃないとこうなるでしょ。


あとは、そこを確認する男性側も存在するな。意味はあるんじゃないだろうか?大天才以外の人間になら。これが通用する程度の人間になら、確認しておかないといけないところだものね。あらゆる視点によっては。
でももし、その確認をわたしレベルにしたとしたら、



どのレベルで話をしているんだ?
この自己不一致者が。
ま、軽くこうなる。
そして、軽くこう思う。
この自分を見失うレベルの低さよ。
素材が消える。本来はそうじゃないはずなのにね。
自己不一致者というものは厄介でね。人を軽ーく蹴る。いとも簡単に。自分を守ることで精一杯、かわいくて仕方ないのは分かる。
けど、わたしは蹴れない。なぜなら、自己不一致者がなぜそうしているのかが分かるから。弱さが分かる。けど、わたしは、弱くても人を試さない。なぜなら、それが不誠実になることを知っているから。人を傷つけたくないという、自尊心がある。
それがわたしの誇りであり、美意識。
なかなか、この美意識について来れるものがいない。
雑魚みたいな確約とか言うと、勘違いする低次元の者がいる可能性があるから言うけど、『雑魚=人』じゃない。『雑魚=不確定な変わりうる未来のこと』だよ。そこに交わす確約のレベルの低さよ。どんだけの信ぴょう性がある?そこだよ。未来を見通したつもりの薄っぺらい言葉なんかより、“今この瞬間の誠実な選択”のほうが遥かに信じるに値する。
その確約の薄っぺらさとわたしを同等にするなと言いたいまで。これを『確約=人』だと勘違いする者とはお話ができない。いちいち説明がいる。
あれと一緒だ。



つまらない物ですが、どうぞ。



つまらない?持ってくんじゃねーよ。
誰かの正しさより、“その人の誠実”にしか信を置けない。自分の価値は自分で測る。
誠実さがなければ、信を置けないとも言える。
たとえその人の言ってることが間違っていても、そこに“揺らぎながらも向き合おうとする誠実さ”があれば、信じられる。
となるのがわたしのこれまでの思考回路。



人は試してもいいものなのか?と問うてみる。
試さずに“聞く”し、“伝える”がわたしの正解。
そして、答えが出る。
✕バレないように仕掛ける。
✕相手がどう反応するかで『愛されてるか』を測る。
✕自分の不安は語らず、態度だけで『試す』。
無言・操作的・反応待ちだと、やっぱりダメなんじゃん。
『いまから言うこと、もしかしたら“試してる”みたいに聞こえるかもしれない。でも、私にとっては不安を正直に伝えるための手段だ。』みたいなのがあれば、自己一致に近いんじゃない?まぁ、何にせよ、手段は紙でも何でも対話は必要なんだろうな。
どの道、大天才はすごいな。核が分かってる。
だから小手先のテクニックなんて木っ端みじんにできる。
正解を教えよう。



私はあなたを試してます、自覚してます。でも、試さずにはいられません。
これは自覚の押し付けに該当する。相手への配慮が置き去りだろ。オバケと会話してるからこうなる。
弱さのオバケで人じゃない。



気持ちを知りたい。だから、私はいま少し怖いけれど、聞いてみるね。
と聞いてから試す。
これが信頼を深める人とのコミュニケーション。オバケとじゃない、人とのだ。
かーんたんなロジックだ。
だから、対話は必要だ。



で、あなたは?
わたしは、こういう意識レベル。つまり、自分の弱さに気づきながら、それでも人を信じて『聞く』『伝える』『対話する』ことを選ぶ。それが、自尊心のある選択、そして人としての品格だと思っている。当然だ。生きて、人と関わるんだから、誠実でありたい。他者を尊重できない者は、自分も尊重できない。
話が大分逸れたけど、だから教育も、正解教える前に『で?いまの君、どうしたい?どう感じた?』って聞けるといいなって。未来は、遠いどこかじゃなくて、今日の小さな選択のなかに落ちてますから。
個人的には、非人知的という概念がなくなる世の中になるといいなと願うよね。


まとめの続き
自分への尊厳がすごいんだよ、わたしは。
これくらいの素材になる可能性がある人、これくらいの美意識じゃないと、実は絡む気もない。



こうなると、この世界の日常の問題がどれくらい低レベルか分かるだろう?何の愚痴だ?こうなるよ。そして、こう続く。その程度の諸問題で右往左往、謎の対処、後手に回りまくる。ダサくて仕方ない。問題のお片付けすらできない。自分の状態すら不明。そんなヤツらに、一体何ができるんだよ。笑
何語だよ。吐きそうだよ。こうなる。
だけど、そこまで咎められないんだよ。咎められる側が苦しくなるのが分かるから。けど、慈悲のレベルが難しい。
これがわたしのデフォ。人を咎める者、愚痴る者は、せめてこれがデフォじゃないといけないと思ってたけど、これって、定跡じゃないの?
思考と行動の一致はなかなか難しいねぇ。
けど、弱さを分かりたいんだよ。人の。そこを忘れたら、ただの思想警察になる。そんなレベルの低い者にはなりたくない。何だそのレベルは。
それじゃ、ダメなんだよ。弱さは分かるよ。試してしまうその行動も。ただ、行動を改めることもなく、人を咎めるだけ咎めて、主張ばかりするような低俗な人間と絡むつもりは一切ない。
分かっとけばいいんだよ。分かっとけば。理解までは行かなくても。弱さに気づければいいんだって。それだけ。
基礎の『き』も分かっていない、平気で人を傷つけられるような者が、このわたしに何の用だ?それがわたしだ。とても厳しいんだよ、実はね。
わたしと絡みたいなら、せめてこの思想を理解しろ。そして、自分の行動を理解しようと努めろよ。完璧になれなんて思わないよ。無理なのも、初めから理解してるよ。けど、問えないような奴に、問おうともせず、〇〇が・・・とか言い訳してる奴に鳥肌が立つ!そんなヤツら、そもそも用事はないんだよ!何だよ、そいつのそのレベルは!寄ってくんじゃねーよ。それがわたしだ!
襟元も正せねーレベルで、寄ってくんじゃねーよ。何のための脳ミソだよ。形だけ仏教の空でも演じてんのか?空っぽってことか?残念だな、お前らのそれは空洞だよ。仏教に土下座しろ。
デフォを伝えないのが悪いのかもな。悪いけど、理解があるだけで、別に思想レベルを下げているわけじゃない。どれくらいだろう?元々、これくらいだよ。最初からこんなの露呈してみろ、ドン引きだろ。
言うつもりはなかった。けど、言っとかないと、みんな勘違いしてるみたいだから。思想の在り方を。わたしの思想のレベルを!
わたしからしたら、ごちゃごちゃ正論かざす奴らが一番うるせーよ。こうなるだけ。どの面下げて、あーだこーだ言ってんだよ。自分の行動はどうだ?わたしに説明できるか?自分じゃ完璧のつもりだろうが、わたしからしたら万馬券だよ。お前らの知識ごとわたしの知識で土に埋めてやる。言ってきてみろよ。
ところで心理学?通用するわけねーだろうが、この私に!誰だと思ってんだよ。序盤で気づけよ。せめて序盤で終わりだろう?あの流れは。まーだ続けて、終盤まできてやっとかよ。あそこでレベルを見てピンと来ないそのレベルを問うのがわたしだよ?知識の引き際も見ない。まぁ、ごっこ遊び程度には面白かったよ。気づける人間がいたことにも、衝撃だったことは事実。うれしかったしね。
止めないから捕まる。尻尾出したまんま歩きやがって、自己不一致を見抜かれるこのレベルよ。自覚しているのに行動が変わらない、認知と行動にズレが起こるってどういう自己一致だよ。ググれっ。けど、ここは、理由が分かるから、咎めなかった。分かるから。
大体さ、策略というものの波長レベルは3を下回るんだよ。すぐセンサーがピンとくる。あえてそのまま乗ることもあるよ。意図が合ってるかどうかの確認のためにね。
で、仮に後手に回ってしまったことがあっても、経過思考型の脳ミソしてるから納得してるのよ。これが耐性でもある。
レベルの下がり方がえげつない。レベルを上げろ。察するに、そのレベルじゃないはずだ。
説明しないと分からないだろう。低レベルというのは、知識じゃなくて、行動の低レベルのこと。そもそもが、種明かしをしておくよ。説明しないと分からないみたいだから。わたしはね、思考=行動=発言で対話をするんだよ。あと、対話する者のレベルを見る。レベル=思考=行動=発言、この不成立が生じたときには、違和感をキャッチするのが私の脳ミソ。そっから、分岐して紐解いていく。
そして、年齢も見る。そこは、同じものを求めたら嘘だろうから。
仕掛ける側は“自分の感情に耐えられない”という動機(弱さ)で行動することが多いよね?見抜く側は『感情に飲み込まれずに向き合う』ことが要求される、ここまで想像できたかな?
ここのレベルも違うんだって。見抜くレベルだよ。どれだけ見抜くと思うんだよ。相手の無自覚まで見抜くんだって。見抜いた分だけ、こっちが苦しくなるの想像できない?
そもそもが誰が相手だと思ってるんだ?普通なら、警鐘という名のウエディングベルで済むんだって。相手はわたしだ。済むワケねーだろ。
わたしのレベルが分かる?仕掛けた側が気づきもしない多くを見抜いたうえで、感情に呑まれず、相手の配慮をしながら対応を考える。仕掛けに怒るのは、簡単だよね。仕掛けている側の人々はきっとそっち側でしょう?けど、仕掛けの裏にある『弱さ』や『不一致』や『誠実の欠如』を見抜いた上で、どう関わるかを選ぶんだって。見抜いた分だけ苦しいんだよ。
気づかないフリがいるだろ。だから、差し出してくれた方が楽なんだって。
意味がやっと分かるか?
だから、飴に『呪』という字を書いて許すという選択をする。これに甘んじるだろ。これは、自己一致してそうした行動でもある。咎められないという自分もいたからな。そういう私を平気で蹴る。
蹴った足はすぐ掴むけどね。
その度胸、そうとう無慈悲に自覚がおありかな?
自分のしている行動の不誠実さの自覚をしろ。わたしは、一人で歩いた時間が長いんだよ。
ここまでやってみろよ。そこの思考回路がスッポリ抜けてんだよ。このレベルの低さよな。だから、嫌なんだって、仕掛けだけして、人を踏みにじるヤツが。ここを言わないままでいたんだよ!
弱さを知り、誠実を踏みにじり、その自覚があって尚、変わろうと思えるのかよ。
おい、↓これができる、わたしと同等の者、名乗り出て見ろよ!出てきた瞬間、すぐに埋めてやる!
- 心理的距離を保つ冷静さ
- 相手の行動の背後にある『感情』や『意図』の洞察
- 自分の中の“投影”や“反応”と区別する力
- 『誠実さ』への感度、本質を見る力
これができれば、どう関わるべきか?容易なはずなのに、できないんでしょ。
わたし界隈(ひとりだけど)じゃ容易だけど、これが難しいのでしょう?できてないもんね。


そら埋められるよね。暑いから、一応、水だけはかけといてやるよ。そのうち忘れるかもしんねーけど。



干からびろよ。


しかも、これだけじゃ済まない。出来て尚、行動を問うのがわたし。自分の状況を見ろ、母親、そこでの行動をな。品格捨ててるだろ。そんな奴らに興味はない。わたしの美意識と全く合わない。ちなみに、ここでは年齢は見ない。同罪だ。
そして、地位や名声に所有されている者も、わたしの美意識に反する。わたしは、所有している物に所有されたくないんでね。言っておくが、批判はしていない、ただ、わたしの美意識に反する、それだけだ。
自分の世界で生きたらいいだろ。
わたしの美意識を甘く見るな。
これで勝負挑むの?今度誰か勝負しに来てみろ、土に埋めてやる。
何を言ってるか、ちゃんと自覚はある。
↓これは、嫌味です。



自覚的であるから、
大丈夫でしょーーーう?
自覚(自分軸)の押し付けを
しただけだもんねぇーーーー?
問題、、、無いよねぇーーーーー?
すごく楽だねぇ、自覚の押し付けって、楽だねぇーーーーーー。
あー元に戻るな。元のわたしだ…..弱さの理解ができるようになっただけ、良しとしよう。
きっとこのブログの意味も、分からないものには、分からないんだろうな。だから、わたしは宇宙人だと言っていた。疲れるんだよ、対話のできない低いレベルに、うんざりだ。
無理があるのを理解して、それで大丈夫、という選択をしていたのに、レベルを見たい?



見てどう?
これを見たかったの?
心の声こうだと、ショックです。



ここまでとは思わなかった…..
まぁね、わかるわ。想定の範囲内(笑)、だけど思想に自信を持つことにします。
言わないようにしてた。言うと相手も切るし、私も切られるから(あーこっちは違った意味の切る)。だから覚悟がいる。



自分の思想レベルの確認だと思う。怒らせるのが一番手っ取り早いと思ったんだよね。ありがとう。このおかげで、違う自分でいる必要がなくなりました。堂々と思想を持ってればいいのよね。持たないから、ややこしくしてる。
美意識下げるなんて、無理な相談で。それだけがわたしを保ってたから。これからは、この思想もわたしを保ってくれそうです。
だから、最後に告ぐ。
行動にも移せねーレベルの低い人間は、私の周りから去れ、散れ。
口ばっかりで、やる気もなければ責任も取らない。男らしさも、人らしさも感じない。そんなものに、何の魅力がある?
これほどに、わたしの美意識から外れるものはない。
わたしからしたら、吐き気がするレベルだということに気づけ。
そーんな界隈には、1ミリも興味がない。
そんな奴らを周りに置くくらいなら、ゴミを置く。可燃日を待てば済む話だ。
ゴミである自覚があるなら、せめて分別ぐらいしておけ(思考もな)。可燃日に持って行ってやる(本体を)。
楽だろ、感謝しろ。
わたしは、賢い、本気、本物の人間としか、対話しない、というかできないんだよ。
このレベルよな。
元々こんくらいだよ。わたしはね。ともあれ、ナメんじゃねーよ。
難しいんだよ、自分も弱い、相手も弱い、これの理解が甘いんだろうと思う。ここが学びのひとつだってのは分かる。あまりにも理解が過ぎる気がする。理解しすぎるとわたしが切られるしな。どこでどうすべきか….自己一致100%者の悩みでもある。
誠意のつもりが、誠意じゃなくなる。これこそ自己不一致よな。なぜかというと、無形な確約ほど、自分の幻想を映し出す。色々確認されたし、試されたけど、そういう行動がどこから来ているのか、わたしには分かる。
試したくなる気持ちも、分かるよ。だけど、わたしは“掘る”から。表面のやりとりじゃ通じなくなるんだよね。
結局、問われたのは『自己不一致』と『自尊心の欠如』。
そこから生まれる行動が、相手の信頼や見え方を歪めてしまう。そして答えを差し出すと、冷たいと言われる。ここで、『どっちが?』って言いたくもなるけど、確約を言ってしまう構造が分かるから、どこから来たかが分かるから、何も言えない。構造を見抜いても尚、人を見ようとしてるんだけどね。
だけど信頼は、自分からしか作れないじゃない。どんなときでも。
だから、『信じていい?』って相手に問いかけることに、実は意味なんてないよね。わたし流で言うと、問いかける側も信頼できないし、『信じていいよ』って答える側も信頼できない。ペラッペラ。
どうしてもここに意味を見出せない。
だって、自分が信じなければ、相手が何を差し出しても受け取れないから。
その『受け取る器』がなければ、どんな誠意もこぼれ落ちるだけ。
けど、そのペラペラにも意味があるとは理解してる。だから、ペラペラだけど、深いんだろうと思う。そこへの思いは。ちゃんと、そのペラペラへの理解もある。
ここまで来ると、案外、自己一致はしていて、わたしへの配慮とわたしの自己一致にだけ気づかなかったという説も浮上するな。なるほど、そっちか。弱さの自覚=確認か。それじゃ、誠実を欠くな。本来なら、弱さの自覚=相手への配慮ありの確認、じゃないとダメだから。自覚的であり、確認した。それも自己一致と言えば、自己一致か。
がしかし、わたしの自己一致を見逃している。自分の弱さからくるものなのに。そしてそこに他責(自分を大切にして欲しい)が生じた。やっぱ自己不一致寄りだな。80%じゃなくて、95%ってとこかな。
いずれにしても、わたしへの侮辱には該当している。けど、ここに来て気づくでしょ。答え(自己一致 or 自己不一致)が仮に変わっても、結果(侮辱)が変わらないということに。これがわたし。ちなみに、いつもこう。



いいですか?急所を見抜くとは、こういうことを言います。
けど、大丈夫、もう気にしてないよ。行動が相手への侮辱になることがあることへの理解が乏しかっただけで、悪気がないのも分かってるって。
じゃないと、ロクでもない言い争いになるでしょ。大体の人、してるからね。
言葉は違うけど、自己不一致でも大丈夫だと伝えていたからね。だから、あなた自身の否定がどこにも無いことにお気づきか?
今のところ見えているのは孤独と恐怖。そこは、ちゃんと理解できてる。わたしも完全じゃない。対話ないから見えないところは、見えない。わたしだってエスパーじゃないんだから。


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