前回の記事が長くなりすぎたから、独立させました。

わたし自身も親。
でも、母親という役割を放棄する人を見ると、本当に言いたくなる。
痛々しくて、見ていられない。
もちろん、誰もが完璧な親ではないし、時には逃げたくなるほど追い詰められることもあるだろう。
だけど──
『子どもを育てる』という基本すら見ようとせず、子どもを“自分の一部”かのように扱い、それを矢ではなく盾だと言い張る姿ほど、見ていてつらいものはない。
矢でも盾でも、子どもを道具にしている時点で、母親としての根本が問われるべきなのに。
盾だと言い張れば“守っている”と錯覚できる──この滑稽さ、そして恐ろしさよ。
矢: 子どもを自分の感情のはけ口として利用、無意識に傷つける行為(例:怒りや愚痴の対象、失望の投影)
盾: 子どもを自分の癒しの対象、あるいは存在理由とすることで、自身を守る(例:この子だけは私をわかってくれる、私の味方でいてくれるはず)
特に、母親が息子に執着する異常さ
──あれはどうしても受け入れられない。
母親が息子に執着する

たまに聞く話でしかないけれど、それを伝える立場として、一応ここに書いておく。
傍からどう見られているか、気にしたこともないのかと思う。
あまりにも痛々しくて、草も生えない。
“ダサいの極み”を体現しているような姿勢に、容赦は必要ない。
母親にとって息子は恋人のようだ…とか言われてたりするじゃない(爆笑)。
そういう文言見てさ、

わかるわかる!やっぱり、そうだよね。大丈夫。
どこが大丈夫なの?どこの育児書か知らないけど(呆)。
誰が言ったのコレ。ゾッとする。
全然わかんないんだって。だって、そういうのが基盤にあると、子育てに影響するもの。
形が崩れるでしょう?母と子じゃなくなるってことだよ。
異性になっちゃう。この弊害たるやよ。
多分これ、前提が違うのよ。



前提を疑うのがわたしだから。
事の全容を見ようとしないで作るから、こんな育児書ができるんじゃない?景色が全部見えてない状態で、語るから、こうなるだけの話。
全部見えてたら、なぜそうなるのか?
から問うことさえできたら、こうならないでしょ。
まず、問えよ。
息子を誰にも取られたくない。
その感性普通かな?
って思うよね。
わたしからしたら、規格外。
息子産んで、そう思えるのかな?
と思ったけど、一度も思ったことないし、この先も一生ねーよ。
恋人???何あれ、間違えてない?
真っ先にそう思ったよ(呆)。
わたし、息子には、



ママという人を見て、ママがどういう考えで、どういう風に生きているか、ママの人格を見ていてくれる?そして、取れるところは盗りなさい。
こう言ってるよ。
6歳だけど、自分を大切にする方法、挨拶、声の大きさ、お友達への対応、全部説明する。分かんなくても。



息子に執着して依存して、よく平然としていられるよね。
裸で闊歩する方がまだマシじゃない?この感覚、わかる?
『精神的なだらしなさ』の方が、物理的に裸で歩くより恥ずかしいって感覚。
見てて痛々しい以外ないんだって。
どれくらいいると思う?
母子で互いに執着してしまう人数は、1000人中およそ5〜6人


教えといてあげる。
あなた方(母子で互いに執着)の人数。
1000人中およそ5〜6人。
まず、これを自覚するところから始めたら?



え?もっといるはず…
と思うなら、波長の法則によるものが作用したか感化されたか、異質な環境があったか?じゃない?一歩外に出てみなよ。世間は広いんだよ。



会話ひと言、所作ひとつ、そこから見えるあなたと息子さんの関係、約995人くらいからどう映ってるか想像したことある?
正直に言って、痛烈だよ。
考えてもないでしょ?でも、伝わるときは一瞬だからね。
だって、995人と、5、6人の普通の感性って差異がある。
その異質さに995人側はすぐ気づくわけよ。
995人側の親子見て、どう思ってるか知らないけど、995人側からは、うわぁーー..(痛)見てらんない。
の世界だからね。
そのパラダイムが995人側に存在することを覚えておくといいよ。
見え方、分かりにくいかもしれないから、一応絵を使って表してみるよ。
995人からどういう風に映っているか。
絵で表すとね、
↓こういう感じだよ。
子どもに責はないけど、応じてる子どもごと冷ややかな目で見られてるからね。





犬も食わないって。
そういう母親だけど、例えば話すじゃない?
息子を語るときに、すごく異質だよ。
接し方も異質。
呼び方、声のトーン、密着度、目線、周りの子どもへの対応(特に女児)、どれだけ私にヒントを渡す気か知らないけど、ババ抜きしてたら、



わたしジョーカー持ってます!
しかも、ここにあります!
持ってるカードは『12』『』『13』『』!
情報がすごいのよ。
こっちから見たら、母子ごと滑稽で仕方ない。
それに尽きる。言い方きつくてごめんなさいね。
これが普通でしょ?って思ってる?
まぁ、そう思うなら、それはそれでいいんじゃない?
どこの街道歩こうが勝手といえば勝手だし。
踊りたきゃ、踊ってりゃいい話だものね。
けど、誰か言わないとさ、5~6人の世界をさ、自分たちが995人側だと思ってないか修正しとかないとと思って、一応書いとくよ。
わかってるかな?ダサいって。
母親の背景を背負うべきは母親自身


だって、母親の背景を背負うべきは母親自身でしょ?
子どもにその背負う役割はない。
するかどうかは、自由だけどね。



私はとても辛かった。
分かってほしい!



まずはお前が、“子ども”という立場を理解しろ。
それから、“母親”という役割を理解しろよ。
それを放棄して子どもに理解を求めるなんて、本末転倒だろうが。
自分の理解は、自分でやれ。
子どもを肩代わりさせるな。
母親としてではなく、人として痛々しい。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』、その第5の習慣『まず理解に徹し、そして理解される』は、人との信頼関係や対話の基本を説いたものだよ。
自分を理解してもらいたいなら、まず相手を理解しようと努める──すごく当たり前だけど、実は一番忘れがちな視点。
読んでみたら?
『わかってほしい』って叫ぶ前に、『じゃあ、母親のあなたは子どものこと、どれだけわかろうとしたの?』。
しかも、子どもなのにねぇ。
こう言うとさ、子ども側が『母親を理解しなくては…』って背負っちゃうことがあるんだって。
こういう環境下では、どういうワケか、母親よりも子どもの精神性が発達するから。
『親役化/役割逆転』の現象でしょ。
そうなるように育てた、育てられたと言っても過言じゃない。
規定路線でしょ?将棋で言えば定跡。
コレ、ご存じ?セオリーだって。
はい、ここから来る行動もありますからね。
長いですよ、歴史は。
割愛しますけど、波及がすごいんだから。



勝手にしたらいいけど、一応言うよ。考え方だけ。
違うんだよ。パラダイム──見方や立ち位置を変えてみなよ。
まず、主張すべき子どもの立場はどうなってるの?
あなたは“育てられる側”であって、“支える側”じゃないはずでしょう?
徹底的に守られる側が、何支えちゃってんの?
ちなみに、守られてない人が支えられると思う?人生そんな甘くないよ。
守られた経験がない者が、支え方なんて分かるワケがないだろう。
必然だ。
でもせめてさ、それが親なら、守られていない子どもの経験があるのなら、分かるだろうと思うんだって。
先に生きてんだからさ。
何を見てきた?何を見てる?
何のために、先に生きたんだ?
お前の過去を、未来の誰かのために使わずして、何のための痛みだったんだ?
痛みをただ抱えて終わらせたら、何も変わらない。
それを使って、次の誰かを守ることができたなら、少なくとも、過去は無駄じゃなくなるんだよ。
まだ、抱えて終わらせるならいいよ。
子どもに背負わせるよりマシ。
こういうパラダイムの存在を忘れてない?
親も子もさ。
子ども側もさ、その主張も忘れてりゃ、人生路頭に迷うはずだよ。
主張すべきときに、主張はできない人生になる。
当然だよね。主張しなくても、まずは“自分が主張する権利を持っていた”と、そう信じられなきゃ、前に進めないんだって。
まず、どこに立ってんの?
わたしは、守られていなかった。子どもの権利を奪われた。
でも、その事実に気づいていなかった。



この自覚のないまま、どうやって自分の人生を守れる?ど
うやって、誰かを守れるの?
守る人、守られる人、守り方、支え方、そのタイミング、この辺りの知識は更地だろうが。
火事で、消火訓練も受けてないのにリーダー任される感じじゃない?
ここからまた嚙み砕く説明になってしまう。
キリがない。
けど言うよ、子どもが理解しないといけないのは、守られなかった自分の理解だよ。
守れなかった母親の理解じゃなくて。
自己理解ができないものが、他者理解できるわけがないだろう。
ここも必然。
他人にやさしくする余裕があるふりして、自分の中は空っぽってこと、よくある。
これはもう、避けようのない“順番”なんだよ。
自己理解が先。
守られなかった自分を理解しない限り、守れなかった母を無理に理解する意味がない。
それ、逆順だし、潰れるだけなんだって。
わかるかな?
与えよ、さらば与えられんの2つの意味


……誰だって、自分が傷ついたことを知ってほしい。
守られなかった痛みを分かってほしい。
だけどさ、
与えよ、さらば与えられん。
理解も同じ。誰かに理解されたいなら、まず相手の理解が先。
人のことを考えられない人に、何かが渡されることはない──断言する。
でもその前に必要なのは、『まず自分を理解すること』。
子どもも、母親も、誰だって。
自分に与えることができなければ、誰にも何も与えることなんてできない。
だから私は娘にも言ってる。



泥船に、人を乗せてもすぐ沈む。
まずは自分の船をちゃんと作れ。
その順番を間違えたら、すべてが崩れる。
『与えよ、さらば与えられん』
自分に与えよ、そうでなければ他者に与えることはできない(東洋)。
他者に与えよ、そうすれば自分にも与えらえる(西洋)。



わたしは、2つの意味があると思ってます。
持論ですけどね。
西洋では、自分に与えよなんて説えなかっただろうけど。
社会構造が過酷で危険すぎる。
だから聖書は、他者に与えよ…こちらの意味しか含んでない。
現代は2つ必要でしょ。
自分がどこに立っているのか、何を感じてきたのか、何を求めていたのか。
それを置き去りにして、『わかってほしい』って他人に手を伸ばしても、それはもう“対話”じゃない。
ただの依存になる。
依存のままじゃ、どんな理解も、どんな関係も、長くはもたないよ。
必然だ。



自分を守れてはじめて、他人と向き合える。
支えられる。
これは順番の話。
絶対に逆にしちゃいけないんだよ。
逆にしてしまえば、土台のない家と同じで、すぐに崩れてしまう。
そんなことするから、他人軸が出来上がる。
だから、絶対に逆にしちゃいけない。
咀嚼すると、自分の痛みを知って初めて、他人に優しくできるんだって。
当然だろ。
痛みを知らないものが、痛みを知ろうともしないものが、人の痛みを分かるワケがない。
そして、人の優しさにも気づけない。
これも必然だ。
もっと咀嚼すると、自分の痛みをも引き受けられない者が、他人の痛みを引き受けられるワケがないんだよ。
それこそ、チープな紙芝居だよ。



かわいそうに。



うん、ありがとう。



何これ。うわっつらだけの、愛情表現。
引き受けられないってことは、人の痛みだから、他人事で聞けるんだよね。
他人事の痛みは痛くない。
自分の痛みは痛いもの。
そんな関係性に、何の意味があるの?
お互いに他人事。
だから依存ってとても便利。
互いに自分を見ようともしない、相手も見ようともしない、どこを見てるか不明。
チープな紙芝居を永遠と繰り返す人生。
そして、人の役に立てた。
謎の自己防衛、謎の承認欲求、自分の不安を埋めたいだけの関係性。
そうなりたくないなら、互いに自己理解がないとダメなんだって。
ここに両者がたどり着く確率は、1%あるか、ないかくらいだと思う。
片方だけでもダメなのよ。
両者がたどり着かないといけない。
気付いたとして、できるかどうか。
だって、自己理解には、自分の傷を引き受ける覚悟が必要だから。
自分自身が扱い切れてないんだよね。
自己中心ならまだしも、自己未満。
だから、他人軸になる。今いくつ?
要するにさ…
母性でも愛でもない。
そこにあるのは、孤独や未処理の感情の代償行為。
気づかない子ども側を見るのも、悲痛。



この子だけは裏切らない♪
私を愛してくれる唯一の存在♪



母さん、大丈夫、ずっと支えるよ。



それを本気で言えるのか。せいぜい気をつけろ。
ご苦労なこった。
真っ先に裏切られていることに気づきもせず。
あれを“愛情”だと錯覚させる、ある意味敏腕だよな。
どのレベルだよ。
まんまと餌食になるのはごめんだ。
それは、子どもから『人としての自由』を奪う行為だ。



――餌食にはなりたくない。



そう思えるようにならないものかね?
とも思うよ、気づけよ。
その超簡単なロジックに──。
草も生えない。
色々気付いてて支えるなら、いいんじゃない?
このブログ読んで、ハッとしてるようじゃ、どうかと思う。
知らなすぎだって。
無知は怖いよ。
だけど、わたしは他人。
餌食としての権限を奪う理由も権利もない。
もちろん、裁くつもりもない。
ただ、こうやって『言うこと』が私の自由。
言及する人がいないじゃない?勝手にしたらいい世界の話なんだろうけど、わたしはさ、子どもの人権を無視するのが嫌いなだけなのよ。



わたしにも息子がいるけれど、執着なんて一切ない。
むしろ、どうやったらそんな執着を持てるのか、まったく意味がわからない。
『わたしも辛かった』?
ならなおさら、子どもを理解しようとするのが先じゃないのか?
わたしにとっての“普通”はただひとつ。
子どもにだけは、同じ思いをさせたくない。
それが、親としての出発点であり、最低ラインだよ。
早く素敵な彼女を見つけてほしい。まだ6歳だけどさ。
娘にも同じ。
子どもは“私の人生の代わり”じゃない。
それぞれが、自分の人生を自由に選べる存在であってほしい。
それが、わたしの願いだ。
わたしの、デフォルト。



この辺りの理解がな……….
と思うけど、それでも理解が追い付かないことはあると思う。
だから、気の済むようにしたらいんじゃないかなと思う。
ロジック説明したところで、胸につかえる何かがあれば、それがあなたの答えだもの。
それ(自分)に従う以外ないのよ。
認める、それが自己理解。
認めてから行動を選ばなくてはならない。
選ばない選択も選択だ。
いずれにしても、認めるが先なんだよ。
『嫌だ』『嫌だ』、本当にそう?
これは羅針盤のようなもの。
こういう見解、パラダイムが存在することを、明記する。
皆、知らなすぎるから。
この羅針盤を元に、母親をフォローでもすればいいんじゃないのか。
どんな生き方を子どもに示してる?


『子ども依存』とか言われても、正直わかりたくもないのよ。
だって、子どもは子ども、わたしはわたし。
愛情を履き違えたくないし、自己正当化に逃げるような生き方だけはしたくないから。
で、あなたは?
──どんな生き方を子どもに示してるの?
もしかして──自分はこんなに不幸だっていう“悲運さ”を、子どもに示してる?必死で話してるの?(笑笑)
してるとしたら、自覚はあるの?
その波紋が、自分と子どもにどう影響していくか、数十年先の未来まで想像したことある?
ないでしょうね。だから、平気でできる、親子で千日手。
怖いもの知らず、それとも、知らぬが仏?
知った後は、時代か誰かのせいにする?



それは分かったわ。で、あなたは子どもを道具にする件について、どう感じる?
時代が、誰かが、



子ども、道具化OK。
そう言って、だから大丈夫♪ってなるあなたのレベルの低さを問うてるの。



親には感謝しなくちゃ!感謝すべきよ!誰のおかげで大きくなれたと思ってるの?誰がどんな思いでご飯食べさせたと思ってるの!
で、あなたは誰のおかげで大きくなれたの?
誰にご飯を食べさせてもらったの?
そこに感謝はあるのかしら?
あなたに無ければ子どもにも無いんじゃない?笑
何、自分に無いものを人に求めてんの?
またどっかの浅知恵?
どんな思いで?
ご飯食べさせるのは親の義務だけどご存知?
日本の法律でも子育ての義務、明記されてるけど知らないの?
やりたくないことをやってきたの?
それをやると決めたのは誰?
あなたでしょ?
何急に子どもとか周りの責任にしてるの?
例え強要させられたとしても、最後にそれをやるって決めたのは自分でしょ?
他の誰のせいでもない、自分の責任よ。
わたしの中じゃぁ、これくらい常識だけどね。
常識じゃなかったらアドラー読め。
あと、仏教を理解しろ。
感謝の強要と自分の義務を叫ぶ親の図。



こんな図、仏教に無いから。
あったら持って来てくれる?
ちょっと見てみたい。
だから、滑稽だって言ってるんだけどね。



愛し方、愛情表現が違うだけだって!わたしなりに愛はあるし!



おぉっと、残念ながら、愛情表現は愛情があってこそ成立するものでね。何を表現してるか自覚がないのかな?
さっきから言ってる滑稽さだよ。
承認欲求と執着。
そして、基本的にね、構造自体は変わらないんだよ。
愛情も成功の法則も大昔から普遍なんだよ。
愛情を知らなくても、かけようと試行錯誤するくらいはできるだろ。
その試行錯誤が伝われば、そこから愛情が伝わるだろ。
かけてもないモノを貰おうだなんて、ムシが良すぎなんだって。
自分が受けた愛情が正しいものだとしたら、あなたは今幸せなはずなのよ。
そして子どものころから幸せに過ごしてきたはず。
指針にしたらどう?
そしたら、その幸せは子どもに分けたらいいだけよ。
簡単ね。
再現可能な体験だもの。



幸せじゃなかったけど、わたしもそうやって育てられたから。
今は息子がいてくれるし、それでわたしは幸せ♪
このレベルの低さよ。
近辺にいたら挨拶も勘弁。
それって、ただの傲慢でしょ?



え?傲慢じゃない?
じゃ、説明してあげる。
母親が自分の人生で満たされなかった承認欲求や愛情欲求を、パートナーではなく“子ども”に求める、子どもが精神的なパートナーの代替になるのよね。
母親が自分の人生で満たされなかった承認欲求・愛情欲求を、“子ども”という存在で代理充足しようとする、そして恋人と同じ枠組みで扱うという、哀れで滑稽な図ね。



息子が一番わかってくれる。
あの子がいないと生きていけない!
こういう言葉が出るとき、すでに対象が“子”ではなく“拠り所”になってるのよね、ゾッとする。



息子はわたしの分身、理想通りに育てたい。
今までの人生で得られなかったものを得るチャンス!
息子はわたしを満たす存在。
これが出てくるとね、こうなるのよ。
子どもを一個の人格として尊重していない。
つまり、自分の一部として息子を見る、それが強くなると、他の女性に対して敵意を抱く=所有物を奪われるような感覚になるんだって。
恋愛的な嫉妬に近い行動が出てくる。
あらあら….ほらほら….


わたしは所有物を奪われるという感覚に陥ったことがないから、分からないけれど、プライドは無いの?と思う。
よくもそんな滑稽さを露呈できるよね。
何の宗教だよ。



まるで、神殿を建てて、自分だけが祭壇に立てると思ってる神職者。
息子の愛情は神聖なものであり、自分以外が触れることは冒涜とみなす。寄ってくる他の女性は皆『異教徒』。
そして追い払う。
こんな感じでしょ。



お前はわたしの幸せを担う存在。
担うべき、わたしが苦労して育てたんだから、わたしの幸せを担って当然。お前だけが幸せなんて許せない!
わたしが産んだんだから一蓮托生でしょ。
わたしの権利。
わたしは息子がいないと、幸せになれないから。
あんな目にあったんだもの、わたしだけが何で辛い目に合わないといけないの?
わたしのために生きるべき。
神様がわたしにくれたプレゼントよ。
今度こそ、わたしは(息子を使って)幸せになってやる!
あらあら…..まぁまぁ…..都合のいいサンタさん(神様)登場。


クリスマスでもねーのに呼んで、意味の分からねー呪文唱えてんじゃねーよ。
サンタもビックリ、休暇中だし読解不能だよ。
わたしは子どもは、神様からの預かりものだと思ってるよ。



母さんの幸せを、自分が叶えないといけない。
こういう罪悪感を子どもに植え付けるっていうね。
子どもは親の機嫌を取ることがアイデンティティになるじゃない。



親の七掛け幸福論?
え?知らないの?
親の七掛け幸福論
幸せになることを怖がり、幸せを避けてしまう現象、子ども本人にその自覚はないのよ。
親から自分の幸せを嫉妬されながら育つことで、親の嫉妬を避けて生きるようになる現象が起こるの。
親の7割くらいの幸せでっていうね。
親が不幸せだったとして、子どもはどれくらいかしらね?
問わなくても分かるとおもうけど、不幸せなら、まずマイナスの符号がついてることは、確かよ。
どんくらいになった?
-13~の数値は間違いなくて、それくらいじゃないと親も満足しないのよ。
知識って大事よね。
幸せを分けられないのだとしたら、ロジック崩壊じゃない?じゃぁ、あなたが受けたものは何だったのかしらね。
子どもの頃から幸せ、充足を感じてないのに、それに問いもしなかったの?
これが、考える力、知るってことなのよ。
あらあら、千日手成立。笑
もしかして、このロジックすらも知らなかったの?
つくづく思うけど、問えないってほんっと、愚かよね。
あと、言い忘れ。



親にどんな覚悟が必要かと言うと、笑って生きる覚悟だよ。
笑って人生を謳歌しないといけないの。
環境を愚痴り、それを子どもと共有するようじゃぁ、親失格よ。
笑って人生を謳歌し、わたしは幸せだと子どもに見せる覚悟だよ。
不幸でも笑えって言ってるわけじゃないのよ。
笑えるようにしないといけないから。
自分との対話は欠かせないんだってねぇ。
常にそうよ。
なぜ七掛け論があるのか?
そこを問えば、必然なことだよ。
七掛け論になっちゃうんじゃないんだよ。
させちゃうし、しちゃうんだよね。
この無自覚さよな。
なぜ私がこんなにもキツく罵倒するのか?
そんくらい言わないと、気合い入らないからだよ。
どんだけ難易度高いと思ってるんだ。
子ども側にとってだよ。



それを考えたことないのかと思うよ。
親側だよ。
だったら気合い入れて生きろってんだよ。
なさけねぇ。
自分の足で立ちやがれよ。
そんな言うと、わたしはそんなに強くないとか言い出すんだろうな。
誰だって弱さ抱えてんだよ。
甘えんじゃねぇ。
自分だけ特別だと思うな。
息子に恋愛感情?ダメ育児書に載ってたか知らないけど、それって、恋愛感情の仮面を被った依存・支配・代替の感情でしょ。
問えないと、無知が際立つなぁ。
持ってる自覚ができた時点で、自分を問わないとね。
普通と思ってるそのものを疑う知能って持ってないの?
1局目:戦型『依存・支配・代替』、
先手:母、後手:息子※先後入替自由、
持ち時間:無制限。
千日手指し直し局:戦型『依存・支配・代替』
先手:母、後手:息子※先後入替自由
持ち時間:無制限。
今何千日手目くらいなの?
どの角度から見ても、道具なのよ。
違うって言っても、道具なの。
まず、せめて、それに気づけ。
こっからの波及もあるけど、割愛するよ。
あえて見ない選択をする”防衛本能”も分かるんだって。
だからって、人を粗末にしていい免罪符にはならないのよ。
都合のいい代名詞登場。
言い訳の世界から逃がさないって、絶対に。
『でも』『だって』、これ、ぜーったい言わせないから。
歩なんて打たない、常に飛車切って、詰ましにいってやる。
無知をさらけ出し、愚かさと滑稽さのアピ―ルをまーだ続けたいかしら?



おい、母親、千日手になったらどうしよう?
一度でも問うたことあるか?
ひどい虐待受けてる子どものニュースを見ることあるじゃない?
児相に保護されてるのに、家に帰りたがったりさ。
そんな母親の側にいるなよ!
こっちがどんなに思っても、母親という人の見え方が違うんだろうね。
そのニュース見て思う訳よ、どんな母親でも親は親なんだろうなって。
その子にとっての普通が、他の子の普通と違うんだなって。
一度だけもらえた飴、それは、他の子には当たり前なのに、虐待を受けてる子にはとてつもない優しさに思える。
異質な環境下で貰える飴はとても甘いから。
それを優しさだと勘違いし、その一度だけ貰えた飴を一生求めるのかもしれない、という子ども側のわずかだけど大きな期待。
そう、考えたことある?
子ども側の母を思う気持ち、それを思うと、母親批判ってできないのよ、どんなに劣悪だとわたしが思っても、そこにイコールが成り立たないから。
けど、そのわたしがここまで言う。
ニュース見て、母親という肩書の重さを何度も問うのよ。
飴を求めるように、育てないように。
あなたは?
私は、違う、千日手なんか誰がするか。
だから数十年先の見方を学んだ、このロジックも、独学で全部学んだのよ。
そういう私だって、理想の母親・父親像を知らない。
自分が我が子に愛情をかけられているか、悩むこともある。
ほとんど教育者だと思う。
母親じゃないかもしれない、あと、人形劇とか遊ぶのが好きなお友達。
そういう形しか体現できないけれど、それが私の身勝手な愛情のかけ方でもある。



けどさ、その身勝手な愛情をさ、子どもが愛情だと受けてくれるかどうかは分からないじゃない。
だから、わたしは親としてできることをするまで。
子どもから愛情を貰いたいとは思わないよ。
千日手にだけはさせない。
子ども側の人に何度も伝えているけれど、「あの親でなければ、今の自分の考えまで到達できなかったかもしれない。」そう思ったことはあるか?
あの親だから、今の現時点でのわたしがいる。
そう思えるように人生のコマを進めることに意味があると思ってここまで来たよ。
わたしはね。
もし、あの親でなければ「永劫回帰」だっただろう。
問いもせずに、生きただろうな。
自分の思う「普通」に生まれたかった。
叶わなかった。
なぜか、そこに意味があるのだろうか。
あるとしたら、普通じゃないからこそできたことって何だろう。
自分が思う「普通」じゃないからこそ、得られたものだよ。
そう思ってるわたし自身は「普通」だ。
特段、何か他の人よりも秀でている才能もない。
思い立ったときは20代後半かな。
多分、それくらいだ。
嘆きたい状況で、そう思うしか術がなかった。
そういう考えになったとしても、解せなかった。
未来が見えないからだ。
こっからどうなるんだよ。
だから知識を貯め込んだ。
その知識があるから何になるんだとも思ったけど、とにかく怖かったし。
未来も見えない。
だって、何の才能もないんだもの。
それでもわたしにできることは何かあるのだろうか。
問い続けたよ。
それなら、取り返す、納得するまで回収するまで。
人生というのは、そういうものだと思ってきたよ。
じゃないと、生きれないだろう。
回収してこその経験だったと思いたいからね。
経験を無駄にしたくないんだよ。
あれが人生、これが人生って諦めたくないんだよ。
あれが経験、これも経験、そう思いたいし、そう思ってる。
人より先に経験を買えたんだ。
買うことができたんだよ。
他の人は、買えないんだよ。それを、買えたんだ。
お前なら大丈夫。
そういう采配だろう。
そうやって考えるのが一番楽だろう。



途中、もう、いらねぇよ。
とも思ったこと何度もあるけどさ。
言われたくない、愛情のこもってない言葉たち、思い出すだけでも、よく子どもに言えたよねって思うもんね。
透けて見える、本心がね。
永遠に言わないけどね。
うちのは、明らかじゃないから。
明らかなのは、わたしの中だけ。
本人に自覚があるなら、責められるだろう。
外界が基準をくれるじゃない。
そうできないんだよ。
ずっと自分に問い続ける図だ。
けど、親もそれくらい摩耗してたんだろうなとも思うから。
「普通」を問わせるわけにもいかないだろう。
だけど、その状況を作ったのはお前だろ。
とも思う、これをグルグルだよ。
怒りのやり場もないんだよ。
けど、もういいんだよ。
考えても、伝えても仕方のないことだと分かったから。
小さなわたしの自慢話を、他者にしている話を聞くだけでも、辟易する。
昔っからそうだ。
わたしの知らないところで、わたしをネタにする。
まだ、そこにいたのかと思うことだってあるよ。
わたしが自慢じゃないんだよ。
自分の自慢なんだよね。
何でそう思うかって、わたしの前じゃ、一切言わないからだよ。
普通、逆だろ。
仏教の「許し」ってこうだと思うよ。
感情を残したまま、因果として置く。
それを選んだ自分を責めない。
そういうことだろう。
選択の仕方の記事でも書いたけど、そこで生を受けた以上、それを正解にするしかないよな。
そういう考えだよ、わたしはね。
というか、わたしが正解にしてやる。
こっちのが強いかな。
力になれるかどうか?子ども側の人がいたら、告ぐ
あと、これを読んでる子ども側の人がいたら、告ぐ。
これは“あなたの母親”を断罪するためじゃない。
構造を、見えるようにするために書いたものだ。
スッキリしただろうか?これが全貌だ。
ここが分からないと、迷うんだよ。
そして自責にもなる。
母親には母親の人生があり、子ども側のあなたに責任は何もない。
もっと言うなら、こうも言える。そうなりたくてなってるんだよ。
表面で何を言おうが、潜在意識にひっぱられる。
分からないだろう?そうしたくてしてるんだ、なぜか?
それが母親にとって楽だからだよ。
他責にし、子どもに依存し、生きることが。
え?あれが?とも思える状況だったとしても、相手から語られる現実は幻想だ。
過酷な環境に見えても、本人がそうしたいんだ。
それに気づくまい。
物事の本質を見るって、表面だけ(見えてるものだけ)見たところで、何も見えないのよ。
そこに翻弄されるんだよね、無知は。
そして、その現実を変えようと躍起になる。
幻想だとも知らずにね。
複雑だよな。分かるかな。
見えてるものは、潜在意識。
だけど本人は顕在意識を語るから、翻弄される。



救おうとするほど、幻想に巻き込まれる。
だからこそ『騙されない目』としての知識が必要になる。
変えられないんだよ。外からは。
言っても変わらないのはそのせいだ。
そしてその、潜在意識の意図にわたしはもう、騙されないけどさ。
そのために付けた知識だ。
けど、その楽さ(自分の本質)に気づいてなくて、それを正当化してるだけの話だよ。多くはね。
その楽さを、どう理解するかは、個人個人違うんじゃない?
楽に生きたいのなら、楽に生きればいいとも思うから。
その楽さに、あなたが一蓮托生するかどうかも、あなた次第なんじゃないの?
問題行動の分岐



怪我、するじゃない。
怪我を治癒したところで、また怪我したと言い出す。



なんで怪我するような遊びばかりするの!
なんで注意しないの!



あそこに危険な遊具があったのよ!あれのせいなの!



あそこの危険な遊具をどかせばいいんだね!?



今度はここを怪我したのよー



何?また怪我?今度はどこでしたんだ!



今度はあの人がわたしを押して転んだの!



注意してやる!



今度はここが痛いんだってー



どこ!?またどっかで怪我したの?



そうなのー。今度はね手を捻ってー



どっちが困ったちゃん?正解はどっちも困ったちゃん。
怪我してる本人はさ、怪我して困りたいんだって。
怪我すればどうなってるかわかるかな?このロジックよ。笑笑
無知って怖いよな。そして、もっと怖いのは互いに無自覚。ここよ。
気づいてたらいいんじゃない?
怪我みたいなもんならいいけど、これがなかなかの過酷な状況下だったりする。それも、好んでそうしてる。わかるかな?
『心配されたい』が根底にある以上、状況は変わらないんだよ。
別記事でも書いたけど、この助ける側をやりたい人もいるんだよ。
共依存の片側ね。
それを止めることすらも、1度きりだね、わたしの場合は。
助けることを止めないじゃなくて、止められないんだよね。


そういう人に限って、



わたしがあれだけしたのに、全然わかってくれない!どう思う?おかしいよね!?何も分かってない!



お前もおかしいよ。
そしてお前もわかってねーよ。
キャッチボールじゃなくて、ドリブルばっかしやがって。
もうこの人々に関わると、疲れるのよ。
勝手にやってろって思うから。
で、上のやり取りの女性側は、多分、心配してくれる対象は誰でもいいと思うよ。
だって『心配されたい』だから、人は問わないでしょ。
問えてれば、状況はもっと軽いよ。持論だけど多分合ってると思う。
で、その『心配されたい』から来る行動、フローチャートどれくらいに分かれると思う?
想像してみなよ。
無数の枝分かれの問題たち。
どんだけあるかな。
みんなさ、
『行動だけ変えよう』
『人間関係だけどうにかしよう』
『環境を整えよう』
とか、“結果だけ”に手を出す。
でもそれ、根から出てきた“症状”の取り違え、要するに、枝や葉だよ。
正直、人間のあらゆる未解決な『承認欲求・依存・自己否定』のほとんどに接続してるから、軽く見積もっても、100以上の分岐があると思うよ。
心配されたい=存在価値の確認
↓
【1st分岐】
病気系(体調不良アピール、睡眠障害、過食)
不幸話系(過去のトラウマ、被害者エピソード)
自己否定系(私はダメ、自信ないアピール)
無理な頑張り系(頑張りすぎて倒れる)
情緒不安定系(情緒を揺らして注目させる)
SNS依存系(匂わせ、意味深投稿)
【2nd分岐】
相手の反応によって戦略が変わる
- 思ったように心配されない → 攻撃・被害者化
- 優しくされる → より依存、エスカレート
- 無視される → 新たな問題演出(例:音信不通、泣く、LINE未読)
- 誰かが心配してくれる → その人に執着する
【3rd分岐】
それが続くとどうなる?
- 人間関係の破綻
- 共依存ループ
- 『人に頼れない』に転じて自責の沼
- 自己防衛と攻撃が交互に出る(認知の分裂)
- 子どもやパートナーに過剰な期待を向け始める(世代間連鎖)
- SNSに『わたしのつらさは誰にもわからない』系の投稿連投
このフローチャートを見抜ける視点がないと、ずっと“症状”を追いかけ続ける羽目になるのよ。
しかも、問いから逃げてることに自覚的じゃない人は、『助けて』と言いながら“責任は持たない”行動に出る。
で、それを見抜けずに“ただ寄り添う”だけだと、共依存が加速するんだよね。



力になりたいと思うなら、『その人が“問える段階”にいるのかどうか』を見極めることが、本質的な支援の分かれ目になる。
話ができる環境なら、容易なんじゃない?
あとは、読書して知識があるかどうか?とかも指針にはなる。
どんだけの力が必要になるか想像できる?
自分を過信するなって、こういうことね。
だから私も、誰でも彼でもの力になろう、そうは判断しないもの。
自己防衛の基本だよ。



例えば、『〇〇しない方がいいよ』ってアドバイスしても相手が行動にうつす。
そういうときには、サッと支援を絶つ。
当然だ。根っこを見るから。
その人の背景を見るってことだね。
ループする問題の支援はしないでしょ。
現実に見える行動や問題が全部違うから、様々な問題を抱えてると思うだろうけれど、違うんだよね。
全ては同じところから波及して行く。
これに皆気が付かないのよ。
そして現実に見える問題の厄介なところは、同じところから波及してるのに、問題の形が変わって見えるところだ。
同じ問題を違う問題だとはき違える。
ここは私でも、立ち止まるのが難しく感じることがあったから、難易度は高いかもしれない。
だって、さっきの心配されたいから来る行動だって、過食に走る人もいれば、被害者エピソードの人もいるわけよ。
それを自分に当てはめて、この感情・行動は何?から始まるからね。
過食と被害者エピソードの葉っぱが同じ植物だって見抜かないといけないんだって。
結構大変よ。
こっちは薔薇、こっちはチューリップ、じゃないのよ。
どっちも薔薇なの。
途中で気づくのよ、トゲあるよね…葉っぱギザギザじゃんって。
だから、自分に『なぜ?』これを問えないと、ずっとそこに留まるのよ。
問いたくない人もいるでしょ。
問いたくないってことを自分で理解しているかどうか?
問いたくないのに、人に頼ろうとだけする人なのかどうか、力になるって、見えてないとできないよ。
大体、恋愛対象の人に心配されたいと思わないでしょ?おかしいんだって。
幸せを分かち合う存在のはずが、なぜそうなる?ロジックがおかしい。
穴があるからだ。埋める作業。
そんなもの、パテでいいだろ?
心配してくれてうれしい、くらいなら分かるよ。
相手のこと思うなら、頼れない、甘えすぎたくないって感覚が自然に出てくるんじゃない?
それを互いがどうするかは置いといて。
まぁ、自己防衛は批判しない。
したけりゃすればいんじゃない?
けど、それを免罪符にして人を傷つけるのはおかしいでしょ。
これが大前提なんだって。
だから、自分の船をしっかり作れって言ってる。
自己防衛が過ぎるから、それに傷つけられるだろう、それが全貌だよ。
まぁ、思いっきり心配して、飛び込むのも一手。
相手の『心配されたい』は満たされるよね。
で、ずっとそれが続くのは一目瞭然ではある。



これが、知識。
だから、何手先も読めるんだよ。
巻き込まれない選択ができるんだ。
問題の本質を見る力があるかどうか?
さぁ、説明はした。
今度は自分側に、巻き込まれたいがあるかどうか?
問われるな。
色々分岐が多いんだよ。
あれば、行動が変わらない。
まぁ、それも自分に沿うってことだから、仕方ないことでもあるんだって。自覚があるかどうか?が鍵だから。
ここなんだよね。
サラっと説明したけれど、現実はもっと複雑だったりするよ。
ボーっと生きてると、様々なことを見逃すんだよね。
それも人生だと思えば、それはそれだけど、わたしは流されたくないと思ったから。
人の自己防衛に巻き込まれてんじゃねーよ。
読め、問え、嗅ぎ取れ、そして行動しろ、そうも思うが、そうもできない状況もあるかもしれないし、自己防衛を嗅ぎ取れる術があるかどうか。
自分にも、相手にもだ。
あなたにも楽があるなら、その楽と向き合う必要もあるしね。
だから私は自己理解、自己一致を目指した。
まぁ、険しい道だったよ。
だけど、それはわたしの話。
その辺りは、わたしには助言する立場がない。


まとめ
- 『子ども』は加害も被害も超えた“巻き込まれ”の存在
- 『楽でいること』が無自覚な暴力になりうる
- 『気づいた子ども』は二重にしんどい
- それでも問え。『誰かを責める』ではなく『自分の航路を決める』ために。
① 『子ども』は加害も被害も超えた“巻き込まれ”の存在
- 子どもは、自分の選択なしに“母親の構造”に入れられる。
- それなのに、なぜか『私が悪いのかも』という感覚を背負わされる。
- それに気づけない限り、一生かけて“説明不能な違和感”を抱えることになる。
② 『楽でいること』が無自覚な暴力になりうる
- 親の側は、本人にとって“楽”だからその構造に居続ける。
- しかもそれを、『正しい愛情』『母親らしさ』として偽装してしまう。
- 無意識に正当化されるその構造が、子どもの自己形成に決定的な歪みを与える。
③ 『気づいた子ども』は二重にしんどい
- 知ってしまったことで、自分の母を“裏切るような痛み”を感じる。
- でも知らなければ、ずっと自分の中に“なぜ?”を飼い続ける。
- そのしんどさを抜けるには、『知ること』と『選ぶこと』が必要になる。それができないと選びさえできない。
だから、ここに書いた。あとは、選ぶだけだ。選ばないもまた、選ぶことだ。
④ それでも問え。『誰かを責める』ではなく『自分の航路を決める』ために。
- 親も“構造の犠牲者”である可能性はある。でも、それは免罪符にはならない。
- 子ども側のあなたは、『同じループ』に巻き込まれない権利がある。
- 自分が“道具”として扱われていた構造に気づいたら、そこから離れる自由を持て。
しかし、そこからの行動もまた自由。
迷わず、自分の航路をつくれ。そして、巻き込まれたなら出ろ。
しかし、出るも出ないもあなたの自由。
こんな感じだよね。
これをずっと言ってるんだよ。
伝わらないのよ。
しっかし長くなったわ。
これで終わりかな。
学生になって、学び続ける者であれ
教師になって、人を導く者であれ
社会を動かす責任を、背負える者であれ
信念を語り、生き方を示せる者であれ希望や理想を信じる者であれ
率先して周囲を動かす者であれ
宇宙飛行士にだってなれる
チャンピオンにだってなれる
真実を求め続ける者であれ
Hall of Fame ザ・スクリプト (The Script ft. will.i.am) 和訳
母親の影響を受け続けると、生きにくくなるのよ。
受けるも受けないも、自由だけどさ。
自己防衛に巻き込まれる可能性があれば、回避した方がいい、なぜなら知識がないからだ。
知識を付けようとすれば、痛みを知ることにもなる。
知識が増えると、自分や親を直視しなきゃいけなくなる。
それが痛い、だから、安易に言えない。
けど、これも縁起かもしれない。
どの道、ある意味素直すぎると鵜呑みにしすぎるから、苦言がいる。
軸がないとブレる。
だから軸を授けるつもりで書いた。
前知識もある。
迷うより、全貌が分かった方が楽だと思った。
羅針盤程度には、なるだろう。
羅針盤になるということは、わたしが頭で換算して、20年程度は得できたんじゃないかな。
得でも、痛みを考えたら言えないこともあるのよ。
結局、書いたけどね。
正解じゃないと思えば、それがあなたの答えだもの。
自己防衛に翻弄されなくなったのなら、フォローも可能なんじゃない?どの道、わたしには助言する立場はない。
これが正解とは言い切らないが、得できたことに違いはない。
これは言い切るよ。
20年彷徨ってみろよ、いくつだ?
だけど、書いてあることすら、疑え。
羅針盤って、そういうものだから。大体の方向が分かるもの。
そうやって、自分の思考で選ぶといいよ。
それでいい。
それが“自分の人生”だ。
歩けるようになったら、歩くといい。






コメント