前回の記事が長くなりすぎたから、独立させました。

わたし自身も親。
でも、母親という役割を放棄する人を見ると、本当に言いたくなる。
痛々しくて、見ていられない。
もちろん、誰もが完璧な親ではないし、時には逃げたくなるほど追い詰められることもあるだろう。
だけど──
『子どもを育てる』という基本すら見ようとせず、子どもを“自分の一部”かのように扱い、それを矢ではなく盾だと言い張る姿ほど、見ていてつらいものはない。
矢でも盾でも、子どもを道具にしている時点で、母親としての根本が問われるべきなのに。盾だと言い張れば“守っている”と錯覚できる──この滑稽さ、そして恐ろしさよ。
矢: 子どもを自分の感情のはけ口として利用、無意識に傷つける行為(例:怒りや愚痴の対象、失望の投影)
盾: 子どもを自分の癒しの対象、あるいは存在理由とすることで、自身を守る(例:この子だけは私をわかってくれる、私の味方でいてくれるはず)
特に、母親が息子に執着する異常さ──あれはどうしても受け入れられない。
母親が息子に執着する

たまに聞く話でしかないけれど、それを伝える立場として、一応ここに書いておく。
傍からどう見られているか、気にしたこともないのかと思う。あまりにも痛々しくて、草も生えない。“ダサいの極み”を体現しているような姿勢に、容赦は必要ない。
母親にとって息子は恋人のようだ…とか言われてたりするじゃない(爆笑)。
そういう文言見てさ、

わかるわかる!やっぱり、そうだよね。大丈夫。
どこが大丈夫なの?どこの育児書か知らないけど(呆)。
誰が言ったのコレ。ゾッとする。
全然わかんないんだって。だって、そういうのが基盤にあると、子育てに影響するもの。形が崩れるでしょう?母と子じゃなくなるってことだよ。異性になっちゃう。この弊害たるやよ。
多分これ、前提が違うのよ。



前提を疑うのがわたしだから。事の全容を見ようとしないで作るから、こんな育児書ができるんじゃない?景色が全部見えてない状態で、語るから、こうなるだけの話。全部見えてたら、なぜそうなるのか?から問うことさえできたら、こうならないでしょ。まず、問えよ。
息子を誰にも取られたくない。その感性普通かな?って思うよね。わたしからしたら、規格外。
息子産んで、そう思えるのかな?と思ったけど、一度も思ったことないし、この先も一生ねーよ。恋人???何あれ、間違えてない?真っ先にそう思ったよ(呆)。
わたし、息子には、



ママという人を見て、ママがどういう考えで、どういう風に生きているか、ママの人格を見ていてくれる?そして、取れるところは盗りなさい。
こう言ってるよ。
6歳だけど、自分を大切にする方法、挨拶、声の大きさ、お友達への対応、全部説明する。分かんなくても。



息子に執着して依存して、よく平然としていられるよね。裸で闊歩する方がまだマシじゃない?この感覚、わかる?
『精神的なだらしなさ』の方が、物理的に裸で歩くより恥ずかしいって感覚。見てて痛々しい以外ないんだって。
どれくらいいると思う?
母子で互いに執着してしまう人数は、1000人中およそ5〜6人


教えといてあげる。あなた方(母子で互いに執着)の人数。1000人中およそ5〜6人。
まず、これを自覚するところから始めたら?



え?もっといるはず…
と思うなら、波長の法則によるものが作用したか感化されたか、異質な環境があったか?じゃない?一歩外に出てみなよ。世間は広いんだよ。



会話ひと言、所作ひとつ、そこから見えるあなたと息子さんの関係、約995人くらいからどう映ってるか想像したことある?正直に言って、痛烈だよ。考えてもないでしょ?でも、伝わるときは一瞬だからね。だって、995人と、5、6人の普通の感性って差異がある。その異質さに995人側はすぐ気づくわけよ。995人側の親子見て、どう思ってるか知らないけど、995人側からは、うわぁーー..(痛)見てらんない。の世界だからね。
そのパラダイムが995人側に存在することを覚えておくといいよ。
見え方、分かりにくいかもしれないから、一応絵を使って表してみるよ。995人からどういう風に映っているか。
絵で表すとね、↓こういう感じだよ。子どもに責はないけど、応じてる子どもごと冷ややかな目で見られてるからね。





犬も食わないって。
そういう母親だけど、例えば話すじゃない?息子を語るときに、すごく異質だよ。接し方も異質。呼び方、声のトーン、密着度、目線、周りの子どもへの対応(特に女児)、どれだけ私にヒントを渡す気か知らないけど、ババ抜きしてたら、



わたしジョーカー持ってます!しかも、ここにあります!
持ってるカードは『 12』『 』『 13』『 』!
情報がすごいのよ。こっちから見たら、母子ごと滑稽で仕方ない。それに尽きる。言い方きつくてごめんなさいね。
これが普通でしょ?って思ってる?まぁ、そう思うなら、それはそれでいいんじゃない?どこの街道歩こうが勝手といえば勝手だし。踊りたきゃ、踊ってりゃいい話だものね。
けど、誰か言わないとさ、5~6人の世界をさ、自分たちが995人側だと思ってないか修正しとかないとと思って、一応書いとくよ。
わかってるかな?ダサいって。
母親の背景を背負うべきは母親自身


だって、母親の背景を背負うべきは母親自身でしょ?子どもにその背負う役割はない。
するかどうかは、自由だけどね。



私はとても辛かった。分かってほしい!



まずはお前が、“子ども”という立場を理解しろ。
それから、“母親”という役割を理解しろよ。
それを放棄して子どもに理解を求めるなんて、本末転倒だろうが。
自分の理解は、自分でやれ。
子どもを肩代わりさせるな。
母親としてではなく、人として痛々しい。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』、その第5の習慣『まず理解に徹し、そして理解される』は、人との信頼関係や対話の基本を説いたものだよ。自分を理解してもらいたいなら、まず相手を理解しようと努める──すごく当たり前だけど、実は一番忘れがちな視点。


読んでみたら?
『わかってほしい』って叫ぶ前に、『じゃあ、母親のあなたは子どものこと、どれだけわかろうとしたの?』。
しかも、子どもなのにねぇ。
こう言うとさ、子ども側が『母親を理解しなくては…』って背負っちゃうことがあるんだって。こういう環境下では、どういうワケか、母親よりも子どもの精神性が発達するから。
『親役化/役割逆転』の現象でしょ。そうなるように育てた、育てられたと言っても過言じゃない。
規定路線でしょ?将棋で言えば定跡。
コレ、ご存じ?セオリーだって。
はい、ここから来る行動もありますからね。長いですよ、歴史は。割愛しますけど、波及がすごいんだから。



勝手にしたらいいけど、一応言うよ。考え方だけ。
違うんだよ。パラダイム──見方や立ち位置を変えてみなよ。まず、主張すべき子どもの立場はどうなってるの? あなたは“育てられる側”であって、“支える側”じゃないはずでしょう?
徹底的に守られる側が、何支えちゃってんの?ちなみに、守られてない人が支えられると思う?人生そんな甘くないよ。
守られた経験がない者が、支え方なんて分かるワケがないだろう。必然だ。
でもせめてさ、それが親なら、守られていない子どもの経験があるのなら、分かるだろうと思うんだって。先に生きてんだからさ。
何を見てきた?何を見てる?何のために、先に生きたんだ?
お前の過去を、未来の誰かのために使わずして、何のための痛みだったんだ?痛みをただ抱えて終わらせたら、何も変わらない。それを使って、次の誰かを守ることができたなら、少なくとも、過去は無駄じゃなくなるんだよ。
まだ、抱えて終わらせるならいいよ。子どもに背負わせるよりマシ。
こういうパラダイムの存在を忘れてない?親も子もさ。
子ども側もさ、その主張も忘れてりゃ、人生路頭に迷うはずだよ。主張すべきときに、主張はできない人生になる。
当然だよね。主張しなくても、まずは“自分が主張する権利を持っていた”と、そう信じられなきゃ、前に進めないんだって。
まず、どこに立ってんの?
わたしは、守られていなかった。子どもの権利を奪われた。でも、その事実に気づいていなかった。



この自覚のないまま、どうやって自分の人生を守れる?どうやって、誰かを守れるの?守る人、守られる人、守り方、支え方、そのタイミング、この辺りの知識は更地だろうが。火事で、消火訓練も受けてないのにリーダー任される感じじゃない?
ここからまた嚙み砕く説明になってしまう。キリがない。
けど言うよ、子どもが理解しないといけないのは、守られなかった自分の理解だよ。守れなかった母親の理解じゃなくて。自己理解ができないものが、他者理解できるわけがないだろう。ここも必然。
他人にやさしくする余裕があるふりして、自分の中は空っぽってこと、よくある。
これはもう、避けようのない“順番”なんだよ。自己理解が先。
守られなかった自分を理解しない限り、守れなかった母を無理に理解する意味がない。それ、逆順だし、潰れるだけなんだって。
わかるかな?
与えよ、さらば与えられんの2つの意味


……誰だって、自分が傷ついたことを知ってほしい。守られなかった痛みを分かってほしい。
だけどさ、
与えよ、さらば与えられん。
理解も同じ。誰かに理解されたいなら、まず相手の理解が先。人のことを考えられない人に、何かが渡されることはない──断言する。
でもその前に必要なのは、『まず自分を理解すること』。子どもも、母親も、誰だって。
自分に与えることができなければ、誰にも何も与えることなんてできない。
だから私は娘にも言ってる。



泥船に、人を乗せてもすぐ沈む。まずは自分の船をちゃんと作れ。
その順番を間違えたら、すべてが崩れる。
『与えよ、さらば与えられん』
自分に与えよ、そうでなければ他者に与えることはできない(東洋)。
他者に与えよ、そうすれば自分にも与えらえる(西洋)。



わたしは、2つの意味があると思ってます。持論ですけどね。
西洋では、自分に与えよなんて説えなかっただろうけど。社会構造が過酷で危険すぎる。だから聖書は、他者に与えよ…こちらの意味しか含んでない。
現代は2つ必要でしょ。
自分がどこに立っているのか、何を感じてきたのか、何を求めていたのか。
それを置き去りにして、『わかってほしい』って他人に手を伸ばしても、それはもう“対話”じゃない。ただの依存になる。
依存のままじゃ、どんな理解も、どんな関係も、長くはもたないよ。必然だ。



自分を守れてはじめて、他人と向き合える。支えられる。これは順番の話。絶対に逆にしちゃいけないんだよ。逆にしてしまえば、土台のない家と同じで、すぐに崩れてしまう。そんなことするから、他人軸が出来上がる。だから、絶対に逆にしちゃいけない。
咀嚼すると、自分の痛みを知って初めて、他人に優しくできるんだって。当然だろ。
痛みを知らないものが、痛みを知ろうともしないものが、人の痛みを分かるワケがない。そして、人の優しさにも気づけない。これも必然だ。
もっと咀嚼すると、自分の痛みをも引き受けられない者が、他人の痛みを引き受けられるワケがないんだよ。それこそ、チープな紙芝居だよ。



かわいそうに。



うん、ありがとう。



何だこれ。
引き受けられないってことは、人の痛みだから、他人事で聞けるんだよね。
他人事の痛みは痛くない。自分の痛みは痛いもの。そんな関係性に、何の意味があるの?
お互いに他人事。だから依存ってとても便利。
互いに自分を見ようともしない、相手も見ようともしない、どこを見てるか不明。
チープな紙芝居を永遠と繰り返す人生。
そして、人の役に立てた。謎の自己防衛、謎の承認欲求、自分の不安を埋めたいだけの関係性。
そうなりたくないなら、互いに自己理解がないとダメなんだって。ここに両者がたどり着く確率は、1%あるか、ないかくらいだと思う。片方だけでもダメなのよ。両者がたどり着かないといけない。
気付いたとして、できるかどうか。だって、自己理解には、自分の傷を引き受ける覚悟が必要だから。自分自身が扱い切れてないんだよね。自己中心ならまだしも、自己未満。だから、他人軸になる。今いくつ?
要するにさ…
母性でも愛でもない。そこにあるのは、孤独や未処理の感情の代償行為。
気づかない子ども側を見るのも、悲痛。



この子だけは裏切らない♪
私を愛してくれる唯一の存在♪



母さん、大丈夫、ずっと支えるよ。



それを本気で言えるのか。せいぜい気をつけろ。
ご苦労なこった。
真っ先に裏切られていることに気づきもせず。
あれを“愛情”だと錯覚させる、ある意味敏腕だよな。
どのレベルだよ。
まんまと餌食になるのはごめんだ。
それは、子どもから『人としての自由』を奪う行為だ。



――餌食にはなりたくない。



そう思えるようにならないものかね?
とも思うよ、気づけよ。
その超簡単なロジックに──。
草も生えない。
色々気付いてて支えるなら、いいんじゃない?
このブログ読んで、ハッとしてるようじゃ、どうかと思う。知らなすぎだって。
無知は怖いよ。
だけど、わたしは他人。
餌食としての権限を奪う理由も権利もない。
もちろん、裁くつもりもない。ただ、こうやって『言うこと』が私の自由。言及する人がいないじゃない?勝手にしたらいい世界の話なんだろうけど、わたしはさ、子どもの人権を無視するのが嫌いなだけなのよ。



わたしにも息子がいるけれど、執着なんて一切ない。むしろ、どうやったらそんな執着を持てるのか、まったく意味がわからない。
『わたしも辛かった』?
ならなおさら、子どもを理解しようとするのが先じゃないのか?
わたしにとっての“普通”はただひとつ。子どもにだけは、同じ思いをさせたくない。それが、親としての出発点であり、最低ラインだよ。
早く素敵な彼女を見つけてほしい。まだ6歳だけどさ。
娘にも同じ。
子どもは“私の人生の代わり”じゃない。それぞれが、自分の人生を自由に選べる存在であってほしい。
それが、わたしの願いだ。
わたしの、デフォルト。



この辺りの理解がな……….
と思うけど、それでも理解が追い付かないことはあると思う。
だから、気の済むようにしたらいんじゃないかなと思う。
ロジック説明したところで、胸につかえる何かがあれば、それがあなたの答えだもの。それ(自分)に従う以外ないのよ。認める、それが自己理解。
認めてから行動を選ばなくてはならない。選ばない選択も選択だ。
いずれにしても、認めるが先なんだよ。『嫌だ』『嫌だ』、本当にそう?
これは羅針盤のようなもの。
こういう見解、パラダイムが存在することを、明記する。
皆、知らなすぎるから。
この羅針盤を元に、母親をフォローでもすればいいんじゃないのか。
どんな生き方を子どもに示してる?


『子ども依存』とか言われても、正直わかりたくもないのよ。だって、子どもは子ども、わたしはわたし。愛情を履き違えたくないし、自己正当化に逃げるような生き方だけはしたくないから。
で、あなたは?
──どんな生き方を子どもに示してるの?
もしかして──自分はこんなに不幸だっていう“悲運さ”を、子どもに示してる?必死で話してるの?(笑笑)
してるとしたら、自覚はあるの?
その波紋が、自分と子どもにどう影響していくか、数十年先の未来まで想像したことある?
ないでしょうね。だから、平気でできる、親子で千日手。怖いもの知らず、それとも、知らぬが仏?
知った後は、時代か誰かのせいにする?



それは分かったわ。で、あなたは子どもを道具にする件について、どう感じる?
時代が、誰かが、



子ども、道具化OK。
そう言って、だから大丈夫♪ってなるあなたのレベルの低さを問うてるの。



親には感謝しなくちゃ!感謝すべきよ!誰のおかげで大きくなれたと思ってるの?誰がどんな思いでご飯食べさせたと思ってるの!
で、あなたは誰のおかげで大きくなれたの?誰にご飯を食べさせてもらったの?そこに感謝はあるのかしら?
あなたに無ければ子どもにも無いんじゃない?笑
何、自分に無いものを人に求めてんの?またどっかの浅知恵?
どんな思いで?ご飯食べさせるのは親の義務だけどご存知?日本の法律でも子育ての義務、明記されてるけど知らないの?
やりたくないことをやってきたの?それをやると決めたのは誰?あなたでしょ?何急に子どもとか周りの責任にしてるの?例え強要させられたとしても、最後にそれをやるって決めたのは自分でしょ?他の誰のせいでもない、自分の責任よ。
わたしの中じゃぁ、これくらい常識だけどね。常識じゃなかったらアドラー読め。あと、仏教を理解しろ。
感謝の強要と自分の義務を叫ぶ親の図。



こんな図、仏教に無いから。あったら持って来てくれる?ちょっと見てみたい。
だから、滑稽だって言ってるんだけどね。



愛し方、愛情表現が違うだけだって!わたしなりに愛はあるし!



おぉっと、残念ながら、愛情表現は愛情があってこそ成立するものでね。何を表現してるか自覚がないのかな?さっきから言ってる滑稽さだよ。承認欲求と執着。そして、基本的にね、構造自体は変わらないんだよ。愛情も成功の法則も大昔から普遍なんだよ。
愛情を知らなくても、かけようと試行錯誤するくらいはできるだろ。その試行錯誤が伝われば、そこから愛情が伝わるだろ。かけてもないモノを貰おうだなんて、ムシが良すぎなんだって。
自分が受けた愛情が正しいものだとしたら、あなたは今幸せなはずなのよ。そして子どものころから幸せに過ごしてきたはず。指針にしたらどう?そしたら、その幸せは子どもに分けたらいいだけよ。簡単ね。
再現可能な体験だもの。



幸せじゃなかったけど、わたしもそうやって育てられたから。
今は息子がいてくれるし、それでわたしは幸せ♪
このレベルの低さよ。近辺にいたら挨拶も勘弁。
それって、ただの傲慢でしょ?



え?傲慢じゃない?じゃ、説明してあげる。
母親が自分の人生で満たされなかった承認欲求や愛情欲求を、パートナーではなく“子ども”に求める、子どもが精神的なパートナーの代替になるのよね。
母親が自分の人生で満たされなかった承認欲求・愛情欲求を、“子ども”という存在で代理充足しようとする、そして恋人と同じ枠組みで扱うという、哀れで滑稽な図ね。



息子が一番わかってくれる。
あの子がいないと生きていけない!
こういう言葉が出るとき、すでに対象が“子”ではなく“拠り所”になってるのよね、ゾッとする。



息子はわたしの分身、理想通りに育てたい。
今までの人生で得られなかったものを得るチャンス!
息子はわたしを満たす存在。
これが出てくるとね、こうなるのよ。
子どもを一個の人格として尊重していない。つまり、自分の一部として息子を見る、それが強くなると、他の女性に対して敵意を抱く=所有物を奪われるような感覚になるんだって。
恋愛的な嫉妬に近い行動が出てくる。あらあら….ほらほら….


わたしは所有物を奪われるという感覚に陥ったことがないから、分からないけれど、プライドは無いの?と思う。よくもそんな滑稽さを露呈できるよね。
何の宗教だよ。



まるで、神殿を建てて、自分だけが祭壇に立てると思ってる神職者。
息子の愛情は神聖なものであり、自分以外が触れることは冒涜とみなす。寄ってくる他の女性は皆『異教徒』。そして追い払う。
こんな感じでしょ。



お前はわたしの幸せを担う存在。
担うべき、わたしが苦労して育てたんだから、わたしの幸せを担って当然。お前だけが幸せなんて許せない!わたしが産んだんだから一蓮托生でしょ。わたしの権利。
わたしは息子がいないと、幸せになれないから。
あんな目にあったんだもの、わたしだけが何で辛い目に合わないといけないの?わたしのために生きるべき。神様がわたしにくれたプレゼントよ。
今度こそ、わたしは(息子を使って)幸せになってやる!
あらあら…..まぁまぁ…..都合のいいサンタさん(神様)登場。


クリスマスでもねーのに呼んで、意味の分からねー呪文唱えてんじゃねーよ。サンタもビックリ、休暇中だし読解不能だよ。
わたしは子どもは、神様からの預かりものだと思ってるよ。



母さんの幸せを、自分が叶えないといけない。
こういう罪悪感を子どもに植え付けるっていうね。子どもは親の機嫌を取ることがアイデンティティになるじゃない。



親の七掛け幸福論?
え?知らないの?
幸せになることを怖がり、幸せを避けてしまう現象、子ども本人にその自覚はないのよ。親から自分の幸せを嫉妬されながら育つことで、親の嫉妬を避けて生きるようになる現象が起こるの。
親の7割くらいの幸せでっていうね。
親が不幸せだったとして、子どもはどれくらいかしらね?
問わなくても分かるとおもうけど、不幸せなら、まずマイナスの符号がついてることは、確かよ。どんくらいになった?-13~の数値は間違いなくて、それくらいじゃないと親も満足しないのよ。
知識って大事よね。
幸せを分けられないのだとしたら、ロジック崩壊じゃない?じゃぁ、あなたが受けたものは何だったのかしらね。子どもの頃から幸せ、充足を感じてないのに、それに問いもしなかったの?これが、考える力、知るってことなのよ。あらあら、千日手成立。笑
もしかして、このロジックすらも知らなかったの?つくづく思うけど、問えないってほんっと、愚かよね。



息子に恋愛感情?ダメ育児書に載ってたか知らないけど、それって、恋愛感情の仮面を被った依存・支配・代替の感情でしょ。問えないと、無知が際立つなぁ。持ってる自覚ができた時点で、自分を問わないとね。
普通と思ってるそのものを疑う知能って持ってないの?
1局目:戦型『依存・支配・代替』、
先手:母、後手:息子※先後入替自由、
持ち時間:無制限。
千日手指し直し局:戦型『依存・支配・代替』
先手:母、後手:息子※先後入替自由
持ち時間:無制限。
今何千日手目くらいなの?
どの角度から見ても、道具なのよ。違うって言っても、道具なの。まず、せめて、それに気づけ。こっからの波及もあるけど、割愛するよ。
あえて見ない選択をする”防衛本能”も分かるんだって。だからって、人を粗末にしていい免罪符にはならないのよ。
都合のいい代名詞登場。言い訳の世界から逃がさないって、絶対に。『でも』『だって』、これ、ぜーったい言わせないから。歩なんて打たない、常に飛車切って、詰ましにいってやる。
無知をさらけ出し、愚かさと滑稽さのアピ―ルをまーだ続けたいかしら?



おい、母親、千日手になったらどうしよう?一度でも問うたことあるか?
ひどい虐待受けてる子どものニュースを見ることあるじゃない?児相に保護されてるのに、家に帰りたがったりさ。そんな母親の側にいるなよ!こっちがどんなに思っても、母親という人の見え方が違うんだろうね。そのニュース見て思う訳よ、どんな母親でも親は親なんだろうなって。その子にとっての普通が、他の子の普通と違うんだなって。一度だけもらえた飴、それは、他の子には当たり前なのに、虐待を受けてる子にはとてつもない優しさに思える。異質な環境下で貰える飴はとても甘いから。それを優しさだと勘違いし、その一度だけ貰えた飴を一生求めるのかもしれない、という子ども側のわずかだけど大きな期待。
そう、考えたことある?
子ども側の母を思う気持ち、それを思うと、母親批判ってできないのよ、どんなに劣悪だとわたしが思っても、そこにイコールが成り立たないから。けど、そのわたしがここまで言う。
ニュース見て、母親という肩書の重さを何度も問うのよ。飴を求めるように、育てないように。
あなたは?
私は、違う、千日手なんか誰がするか。
だから数十年先の見方を学んだ、このロジックも、独学で全部学んだのよ。そういう私だって、理想の母親・父親像を知らない。自分が我が子に愛情をかけられているか、悩むこともある。
ほとんど教育者だと思う。母親じゃないかもしれない、あと、人形劇とか遊ぶのが好きなお友達。そういう形しか体現できないけれど、それが私の身勝手な愛情のかけ方でもある。



けどさ、その身勝手な愛情をさ、子どもが愛情だと受けてくれるかどうかは分からないじゃない。だから、わたしは親としてできることをするまで。子どもから愛情を貰いたいとは思わないよ。
千日手にだけはさせない。
まとめ
あと、これを読んでる子ども側の人がいたら、告ぐ。
これは“あなたの母親”を断罪するためじゃない。構造を、見えるようにするために書いたものだ。
スッキリしただろうか?これが全貌だ。
ここが分からないと、迷うんだよ。そして自責にもなる。母親には母親の人生があり、子ども側のあなたに責任は何もない。
もっと言うなら、こうも言える。そうなりたくてなってるんだよ。表面で何を言おうが、潜在意識にひっぱられる。
分からないだろう?そうしたくてしてるんだ、なぜか?それが母親にとって楽だからだよ。他責にし、子どもに依存し、生きることが。
え?あれが?とも思える状況だったとしても、相手から語られる現実は幻想だ。過酷な環境に見えても、本人がそうしたいんだ。それに気づくまい。物事の本質を見るって、表面だけ(見えてるものだけ)見たところで、何も見えないのよ。そこに翻弄されるんだよね、無知は。そして、その現実を変えようと躍起になる。幻想だとも知らずにね。複雑だよな。分かるかな。見えてるものは、潜在意識。だけど本人は顕在意識を語るから、翻弄される。



救おうとするほど、幻想に巻き込まれる。だからこそ『騙されない目』としての知識が必要になる。変えられないんだよ。外からは。言っても変わらないのはそのせいだ。そしてその、潜在意識の意図にわたしはもう、騙されないけどさ。そのために付けた知識だ。
けど、その楽さ(自分の本質)に気づいてなくて、それを正当化してるだけの話だよ。多くはね。
その楽さを、どう理解するかは、個人個人違うんじゃない?楽に生きたいのなら、楽に生きればいいとも思うから。その楽さに、あなたが一蓮托生するかどうかも、あなた次第なんじゃないの?



怪我、するじゃない。
怪我を治癒したところで、また怪我したと言い出す。



なんで怪我するような遊びばかりするの!
なんで注意しないの!



あそこに危険な遊具があったのよ!あれのせいなの!



あそこの危険な遊具をどかせばいいんだね!?



今度はここを怪我したのよー



何?また怪我?今度はどこでしたんだ!



今度はあの人がわたしを押して転んだの!



注意してやる!



今度はここが痛いんだってー



どこ!?またどっかで怪我したの?



そうなのー。今度はね手を捻ってー



どっちも困ったちゃんだよね。
怪我してる本人はさ、怪我して困りたいんだって。
怪我すればどうなってるかわかるかな?このロジックよ。笑笑
無知って怖いよな。そして、もっと怖いのは互いに無自覚。ここよ。
気づいてたらいいんじゃない?
怪我みたいなもんならいいけど、これがなかなかの過酷な状況下だったりする。それも、好んでそうしてる。わかるかな?
心配されたいが根底にある以上、状況は変わらないんだよ。で、多分、心配してくれる対象は誰でもいいと思うよ。
だって『心配されたい』だから、人は問わないでしょ。問えてれば、状況はもっと軽いよ。持論だけど多分合ってると思う。
で、その『心配されたい』から来る行動、フローチャートどれくらいに分かれると思う?想像してみなよ。無数の枝分かれの問題たち。どんだけあるかな。
大体、恋愛対象の人に心配されたいと思わないでしょ?おかしいんだって。幸せを分かち合う存在のはずが、なぜそうなる?ロジックがおかしい。穴があるからだ。埋める作業。そんなもの、パテでいいだろ?
心配してくれてうれしい、くらいなら分かるよ。
相手のこと思うなら、頼れない、甘えすぎたくないって感覚が自然に出てくるんじゃない?それを互いがどうするかは置いといて。
まぁ、自己防衛は批判しない。したけりゃすればいんじゃない?けど、それを免罪符にして人を傷つけるのはおかしいでしょ。これが大前提なんだって。だから、自分の船をしっかり作れって言ってる。自己防衛が過ぎるから、それに傷つけられるだろう、それが全貌だよ。
まぁ、思いっきり心配して、飛び込むのも一手。相手の『心配されたい』は満たされるよね。で、ずっとそれが続くのは一目瞭然ではある。



これが、知識。だから、何手先も読めるんだよ。巻き込まれない選択ができるんだ。問題の本質を見る力があるかどうか?
さぁ、説明はした。今度は自分側に、巻き込まれたいがあるかどうか?
問われるな。色々分岐が多いんだよ。
ここなんだよね。サラっと説明したけれど、現実はもっと複雑だったりするよ。
その自己防衛に巻き込まれてんじゃねーよ。読め、問え、嗅ぎ取れ、そして行動しろ、そうも思うが、そうもできない状況もあるかもしれないし、自己防衛を嗅ぎ取れる術があるかどうか。
自分にも、相手にもだ。
あなたにも楽があるなら、その楽と向き合う必要もあるしね。だから私は自己理解、自己一致を目指した。まぁ、険しい道だったよ。
だけど、それはわたしの話。
その辺りは、わたしには助言する立場がない。
まとめ
- 『子ども』は加害も被害も超えた“巻き込まれ”の存在
- 『楽でいること』が無自覚な暴力になりうる
- 『気づいた子ども』は二重にしんどい
- それでも問え。『誰かを責める』ではなく『自分の航路を決める』ために。
① 『子ども』は加害も被害も超えた“巻き込まれ”の存在
- 子どもは、自分の選択なしに“母親の構造”に入れられる。
- それなのに、なぜか『私が悪いのかも』という感覚を背負わされる。
- それに気づけない限り、一生かけて“説明不能な違和感”を抱えることになる。
② 『楽でいること』が無自覚な暴力になりうる
- 親の側は、本人にとって“楽”だからその構造に居続ける。
- しかもそれを、『正しい愛情』『母親らしさ』として偽装してしまう。
- 無意識に正当化されるその構造が、子どもの自己形成に決定的な歪みを与える。
③ 『気づいた子ども』は二重にしんどい
- 知ってしまったことで、自分の母を“裏切るような痛み”を感じる。
- でも知らなければ、ずっと自分の中に“なぜ?”を飼い続ける。
- そのしんどさを抜けるには、『知ること』と『選ぶこと』が必要になる。それができないと選びさえできない。
だから、ここに書いた。あとは、選ぶだけだ。選ばないもまた、選ぶことだ。
④ それでも問え。『誰かを責める』ではなく『自分の航路を決める』ために。
- 親も“構造の犠牲者”である可能性はある。でも、それは免罪符にはならない。
- 子ども側のあなたは、『同じループ』に巻き込まれない権利がある。
- 自分が“道具”として扱われていた構造に気づいたら、そこから離れる自由を持て。しかし、そこからの行動もまた自由。
迷わず、自分の航路をつくれ。そして、巻き込まれたなら出ろ。しかし、出るも出ないもあなたの自由。
こんな感じだよね。これをずっと言ってるんだよ。
伝わらないのよ。
しっかし長くなったわ。これで終わりかな。
学生になって、学び続ける者であれ
教師になって、人を導く者であれ
社会を動かす責任を、背負える者であれ
信念を語り、生き方を示せる者であれ希望や理想を信じる者であれ
率先して周囲を動かす者であれ
宇宙飛行士にだってなれる
チャンピオンにだってなれる
真実を求め続ける者であれ
Hall of Fame ザ・スクリプト (The Script ft. will.i.am) 和訳
母親の影響を受け続けると、生きにくくなるのよ。
受けるも受けないも、自由だけどさ。
自己防衛に巻き込まれる可能性があれば、回避した方がいい、なぜなら知識がないからだ。知識を付けようとすれば、痛みを知ることにもなる。知識が増えると、自分や親を直視しなきゃいけなくなる。それが痛い、だから、安易に言えない。
けど、これも縁起かもしれない。
どの道、ある意味素直すぎると鵜呑みにしすぎるから、苦言がいる。軸がないとブレる。だから軸を授けるつもりで書いた。
前知識もある。迷うより、全貌が分かった方が楽だと思った。
羅針盤程度には、なるだろう。
羅針盤になるということは、わたしが頭で換算して、20年程度は得できたんじゃないかな。得でも、痛みを考えたら言えないこともあるのよ。
結局、書いたけどね。
正解じゃないと思えば、それがあなたの答えだもの。
自己防衛に翻弄されなくなったのなら、フォローも可能なんじゃない?どの道、わたしには助言する立場はない。
これが正解とは言い切らないが、得できたことに違いはない。
これは言い切るよ。
20年彷徨ってみろよ、いくつだ?
だけど、書いてあることすら、疑え。
羅針盤って、そういうものだから。大体の方向が分かるもの。
そうやって、自分の思考で選ぶといいよ。
それでいい。
それが“自分の人生”だ。
歩けるようになったら、歩くといい。


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