ニーチェの記事が長くなっちゃったから、
こちらに移動してます。
ニーチェから、
ニーチェそういうこと言ってんじゃねーよ。



て怒られるかもしれない。
それも分かってるよ、多分ね。
ごめん、逃げるの自覚的に言うけど、素人だし、専門家じゃないの。そこは許して。
けど、整合性は取れるでしょ?
「ミイラ取りがミイラになる」のを防ぐ唯一の方法は、“自分もまたミイラになりうる”と知り、それを問い続けることだと思ってる。
ミイラになってる..と思った時点があれば、そっからハンドル切り直せばいいだけ。
だから永劫回帰には、ならないんだよ。
衝動(力の意志)を否定しない
→ 欲望に気づくこと自体は悪ではない。
→ それを「自覚的に観察できる」かどうかが分岐点。
構造を読むことで選択の自由を得る
→ 無自覚に反応すれば回帰(再演)になる。
→ 読めれば、違う選択ができる(構造の中で自由になる)。
“同じ出来事”でも“同じ反応”はしない
→ これが「見抜いて、抜ける」ということ。
→ だから“永劫回帰=避けられない運命”ではなく、“永劫回帰=気づかなければ繰り返す構造”に変換。
「ミイラ取りがミイラになる」は、自覚を保つこと
→ 自分もまた奪う側・盲目的になる側になりうると知っておく。
→ そこに気づいた瞬間、同化が止まる。回帰も止まる。
ニーチェ読解が正しければだけど、
「衝動=生命の純粋なエネルギー、理性よりも、意志や本能のほうが生命を動かしている」
だと見たんだよね。
この件だけで論じるなら、そういう考え方をしていたら、操られるよ。
衝動こそ、無意識の投影であり、過去の記憶・欠乏・恐れの延長線上にあるでしょ。
「外界に向かって何かをしたい」
と思った瞬間、
それは何かに反応しているということで、
つまり、他者(対象)が成立しているのよね。
その時点で、もう因果の輪の中。=縁起の中での運動。
衝動こそ読んで自覚すべきで、それが投影の構造でもあるから。肯定して、構造を読んで、どう動くか考えたらいいだけの話だと、そう見るよ。色々な見解はあるだろうけどね、ニーチェのパラダイムで見たら、わたしの読解は誤りになるから。わたしは、そう思うよってだけの話。一理だ。



どうにも、ニーチェは幼少の頃から、何かしら欠乏があったんだろうと想像する。
そこで、他者が存在しなくても自己の確立を説いたのではないのかな。辛かったんだと思う。
とても。
わたしの想像にすぎないけどね。
ほんと、ただの想像。
言ってること、合ってることもあるものね。
ナポレオン・ヒル(1883年10月26日 – 1970年11月8日)も過るから。
ヒルも欠乏はあったんだろうけど、わたし、ヒルは理解できるけど、やっぱりニーチェは辛い。
個人の感想だから、ニーチェファン、気にしないで。
ヒルは希望(再構築)に見えるけど、ニーチェは孤独の防衛に感じる。この差は説明できない、ごめんね。
雑感で言うなら、成功を掴むまでは気にせず邁進しろ!
というヒルに対して、一生他人なんてどうでもいい!
って叫んでるニーチェに見える。
わたしだけ?
深層は闇だけどね。
自己啓発で語るなら、これを混同したらヤバイよね(語彙力)。
ヒルは哲学者ではないから扱えないのかな。
自己実現を説くならこちらが正解だと思う、素人判断。
ニーチェを扱うなら、技量がめちゃくちゃ必要だと思うわ。
「投影」を説いたフロイト(1856年5月6日 – 1939年9月23日)とニーチェ両者のテーマが、無意識層の影響だよね。
詳しくは知らないけど。
フロイトがニーチェの影響を受けたかどうかも不明。
個人的には、影響受けてる可能性高いんじゃない?
とは思うけど。
ニーチェ(1844年10月15日 – 1900年8月25日)がロジャース(1902年1月8日 – 1987年2月4日)に出会えていたら、彼は「狂気」ではなく「統合」にたどり着けたのかもしれない。
まぁ、不可能だけど。
何度も言ってるけど、持論だからね。
ニーチェのように、「永劫回帰」と「すべては解釈にすぎない」これに自ら気づいてしまうと、自分の輪郭がなくなるんだよね。
「永劫回帰=逃げられない」
「すべては解釈にすぎない=意味が無い」
この“意味が無い”とは、外部に与えられた意味が無い、ということ。
だからこそ、
「どんな意味を生み出すか」
「どんな世界を描くか」
という問いがあれば、輪郭は消えない。意味はある。
恐らくこの2つが晩年のニーチェの引き金じゃないかと思う。
説は色々あるけど、多分ね。
わたしも、一時そうなったから。
あれだけ博識な方だもの。
乖離がすごかったと想像する。
一般の「桁」とは違うのではないのかな。
数値で表すなら、一般のわたしは一桁(5未満)だとしたら、億くらいはいきそう。
そこから、構造否定派でしょ、感情(思考)の暴走も恐らく凄いと思う。
現代心理で言うなら、ニーチェは「投影」への気づきが浅く、価値観の違いに気づいたのではないか。
人の存在は投影によって意味を持つ。
投影によって、意味は「無い」にもなるし、「在る」にもなる。
だから、何を「在る」とさせたいか。
ここまでを意識的に理解していれば、あの乖離は起きずにすんだ可能性が高い。
価値観の違いをどこで気づいたか?
あの「トリノの広場で鞭打たれる馬に出会うと、駆け寄り、その首をかき抱いて涙した。
そのまま精神は崩壊し、彼は最期の10年間を看取られて穏やかに過ごした」というところから、個人のブログで想像しみてると、鞭で打たれる馬を見て「それが普通になっている馬」と見えた可能性。
わたしの気づきは「上司」。
社長から理不尽なことを言われても何も言わずに仕事に付く上司。
いつも滑稽に見えていたのよ。
現に仕事はできなかったし、人任せで。
そんな彼に「父親という構造」が見えたときに、彼の正しさは?
こう思ったら、滑稽が、もしかして「耐えて、そこで生き延びる」だとしたら?
から色々崩れていった。
正否は別にしてね。
価値観の違いは理解できていたんだけれど、立場が欠乏していたんだよね。
だとしたら、真実は複数になる。
そこからの「永劫回帰」の気づきと、「空」の気づき、今までの「意味」がなくなった瞬間。
もう、花火の導火線に火がついたみたいに、次々にいろいろな出来事を壊していくみたいな。
多分、構造理解が先になって、感情が追い付かない、そんな感じかと思う。
お昼間で、涙があふれてきたのを覚えてる。



価値観の違いは分かっていたんだけれど、ひとつの真実があると思い込んでいた。
それでも、いまの私に見える真実として、ここに書き残しておきたいから、想像の上で、持論として書いておくだけ。
ちなみに今は、相対的な価値観(人それぞれ)を認める。
しかし、すべての価値観が“調和できる”、秩序に沿った、ひとつの理(真実)があると思っている。
通ったら崩れる構造が分かるって話。
そこまでは進化できた。
これも持論だけど、合ってると思ってる。
『7つの習慣』で描かれる「20歳の女性と80歳の老婆」の錯視図。
ニーチェも、見え方の違い、つまり「認知レベルの差異」までは理解していたのだと思う。
ただ、それを現実レベルにまで落とし込み、体感として統合するには至らなかった可能性。
- 「価値」=人の意味づけ
- 「力への意志」=世界を動かす原理
この二層を混ぜると、「真実=ひとつ/複数」の葛藤が生じる。
彼は価値の相対性を認めつつ、なお“ひとつの原理”を必要とした。
その矛盾が体感の崩壊として露呈したのでは?



価値観人それぞれということをわかってはいても「真実=ひとつ」だとしたうえでの理解と、「真実=複数」の理解が痛点になる。
「生の意志=力への意志」はどう説明がつくんだ?
ってなる。
ヘーゲル哲学の存在も認めることになる、この構造よね。
何度も言うけどただの持論。
「馬はそれを普通としている、目指すは支配でも闘争でもなく、順応と生存」
「自分は馬を苦痛と見る、目指すは超克・上昇・創造」
「馬は順応することで、生存を確保している」
「自分は力への意志で、生存しようとしている」
——これを直視したとき、“善悪”や“正義”といった価値の根幹が、個の主観による「解釈」にすぎないと見抜いてしまった可能性。
理解するのと、体感として落とすのは違うから。
仏教の「空」のような世界から、意味を出そうとして「力への意志」を説いてはいたんだけど、馬を見たときに、そのロジックが崩壊したのかもしれない。
この馬の立場には、善悪も正義もないからね。
「力への意志」の向き方を問うた。
内と外。
馬は、
- 正義を主張していない
- 不正を告発していない
- 善くあろうともしていない
ただ、順応し、生き延びている。
この事実だけがある。
立場の違い。
だとしたら、
「自分は同情めいた感情があるのに対し、馬にはそれは普通である」
もしくは、
「馬は支配のようにも見えるけれど、生存することへの力の意志が順応である可能性」
というところからの派生がすごそう…
自分の普通と他者の普通の違いに気づいたのであれば、じゃぁ、ヘーゲル批判は…とかに連鎖して行くと規模が大きすぎるよね。
という想像をしてみた。
億単位の衝撃じゃない?
想像だよ。
今まで自分がしていたものは何なんだ?
となると、崩壊の規模が。
だけど、その幻想たるものを幻想だと認めることが辛いんだよね。
幻想を幻想だと引き受けた後に、幻想こそが必要だった、幻想により自分を守り必死に生きていたという証まで、たどり着けなかった可能性。
幻想の規模よ….という個人の想像ね。
「役割」とか「立場」って、エアーポケットみたいになるのかもね。
気づいたとき、嘘でしょ?っていう衝撃。
この辺りを認めると、ヘーゲルの弁証法を認める構造になる。
テーゼ(過去)・アンチテーゼ(今)・ジンテーゼ(未来)、どの道、崩壊になるんだよ。
結局、ニーチェの「超人」というものは、最終的には世界全体を再構成する視点に行きつくはずだと思う。
価値を創造する主体=世界を再構築する者。
それは、ヘーゲルで言う「個々の絶対精神」と類似する構造に見える。
(路線はもちろん異なるし、ヘーゲルは歴史で説いてるから)
ただ、ニーチェはそれを「闇」から創り出す。
だからこそ、それは防衛の形をした創造に見える。
防衛から超人を作る、一生防衛で終わったらどうなるんだろう。
防衛しつくした先に見える世界があるとしたら、「超人」にもなれるのかもしれないけどね。
たどり着いたときに、見える景色はどうだろうね。
「超人」に行きつくまでに、他者を意識してるでしょ。
自覚的だったかどうか知らないけれど、防衛に見えるよ。
他者がいるよ。
だから、自己の確立というのが必要になる。
見え方が違うことが分かれば、自分がどう思い、どう感じ、何を大切にしているのか?
これが分かってないといけないからね。
人の見え方は聞く程度でいいんじゃない?
あぁ、そう見えてるんだ、ていう程度。
理解が必要になれば、そこには話し合いもできるし、色々なコミュニケーション術もある。
哲学的に言えば「自己同一性」、心理学的に言えば「自己一致」かな。
深淵(しんえん)を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ





深淵(しんえん)をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
ミイラ取りがミイラに…と同じ意味と言われている二ーチェの言葉。
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
人という生き物は弱いからね。
慢心せず、問えば大丈夫なんだろうけど。



けどさ、ミイラ取りがミイラになるという、いつの間にか感もそうなんだけど、これは、自分というものを見ようとすると、見たこともないような自分に気が付く。そっちもあると思うんだよね。
怪物ってのは、知らない自分ってことだよ。
そっちの可能性。
ずっと考えてたんだけど、そっちが近い気がしてきたわ。
ミイラ取りがミイラはね、よくあることだ。
ミイラになってるーって
いなくなってから気付くとかも同等の意味だよね。
これを知ってるとさ、スケープゴートとかの捉え方も変わるのよ。
だから、
「ダルイけど、ある意味感謝、けどそこに囚われてはダメ」
とか色々なパラダイムができない?
わたしだけ?
ニーチェついでに….真理を理解した人ができること
「言いたいヤツには言わせておけ」
「愛があるから怒る」
「どうでもいいヤツには何も言わないって」
「あなたのために…」
こういう言葉はさ、真理を理解した人ができるヤツだよ。



分かってねーヤツが知ったふりして使いやがる。
理解してない人は、綺麗ごとの正当化で終わるよ。
だから言われたら言い返すし、憎悪から怒るでしょ。
子どものころずっと疑問だったよ。
この言葉の違和感たるやよ。
愛?どこが?憎悪しか見えねー。
愛情から叱ってるヤツなんて見たことねーよ。
どうでもいい癖にガチャガチャ絡んで来やがって、誰もかれも感情(投影)が絡んで怒鳴りやがる。
子どものころ見てた大人全員これ。
滝に打たれろ。
けど、ここまで来ると、今の教育ってニーチェ寄りだとは思うよね。
衝動こそ、生きる力だ!
そして感情理解に徹するの巻。
個人的な見解だからね。



ついでに言っとくとさ、あんまニーチェ掘ると、頭の後ろと背中がゾワっとして、不安障害一歩手前みたいになるのよね。
止め方まで覚えてきたんだけど、だから、やっぱ、ニーチェは、どうだろうね。
と思うわ。
掘らない方がいいと思うよ。



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