『一つの花』の意味※コスモスに込められた父の思いと描写

小学校4年生で習う『一つの花』。

以前、ごんぎつねの記事を書いたときに『一つの花』にも言及があったから(記事内にあります)気になってまとめてみました。

今回読む物語『一つの花』の主人公・ゆみ子は、実は小さなころから「一つだけ」が口癖。戦争で食べ物が不足し、お母さんは「一つだけよ」と言い聞かせながら、ゆみ子に食べ物を渡す。「一つだけ」という言葉は、我慢を強いる制限の言葉なんだけど、同時に「それでも何かを食べさせたい」というお母さんの必死な愛情の表れでもある。

やがて父が出征する日、ゆみ子は父の持っていたおにぎりをねだり続け、最後には全部食べてしまいます。困った父がゆみ子に渡したのは、プラットホームの端、まるでごみすて場のようなところに、忘れられたように咲いていた一輪のコスモスの花。

「一つだけあげよう」――そのとき「一つだけ」は、我慢を意味する言葉から、“命の唯一性”や“かけがえのなさ”を伝える言葉へと変わる。

心理学で言うと「認知の書き換え」に値するんじゃないかと思う。

今日は、この「一つだけ」という言葉が、物語の中でどう意味を変えていくのかを考えてみたいと思います。

一つの花↓置いときます。

目次

一つの花=騒いだ罰、=お金儲け

校長によれば、この物語を生徒たちに読ませ、父親が駅でコスモスを一輪あげた理由を尋ねると、次のような回答があるという。

「駅で騒いだ罰として、(ゴミ捨て場のようなところに咲く)汚い花をゆみ子に食べさせた」

「このお父さんはお金儲けのためにコスモスを盗んだ。娘にそのコスモスを庭に植えさせて売ればお金になると思ったから」

作中には、父親がコスモスを渡した時の心理描写はないが、登場人物の立場に立ち、状況や背景を踏まえれば、行間から父親の気持ちを想像できるだろう。だが、一部の生徒たちはその力がないので、父親の悪意や欲望を描いた作品だと受け取ってしまう。二〇二二年二月八日の朝日新聞朝刊でも、この物語の誤読問題が取り上げられているので、特別な例ではないのだろう。

幻冬舎plus

  • 「誤読」とは言えるのか?
  • 罰の解釈=教育習慣の投影
  • 金儲けの解釈=実利主義の投影
  • 読解力の問題ではなく「想像力の偏り」
  • 教育の慣れの果て?
  • フレーム枠を渡してあげたらいいんじゃない?構造化説明

① 「誤読」とは言えるのか?

たしかに文章としては「父は娘に花を託した=愛情や命の象徴」と読むのが作者の意図。だから、罰や金儲けという解釈は「本文に即していない」ので、国語的には「誤読」と分類される。

② 罰の解釈=教育習慣の投影

子どもが「騒いだ罰」と答えたのは、

  • 学校や家庭で「悪いことをしたら罰を与えられる」という教育を受けているから。
  • だから「大人が子どもに物を渡す=罰やしつけの延長」と自然に読んでしまった可能性。
    これは「子どもの読解力の問題」ではなくて、「社会や教育習慣が子どもの想像力を制限している」ことの表れとも読めるかもしれない。

冗談かもしれないしね。それを真に受けた可能性もある。けれど、ニュースにまでなっているところを見ると軽視もできないのかもしれない。

③ 金儲けの解釈=実利主義の投影

「コスモスを庭で増やして売る」という発想は、現代的な実利主義の反映。

  • 子どもたちの生活環境に「お金」という価値観が強く浸透している。
  • そのため「花を渡す行為」を“経済的行動”に直結させてしまう。これもまた、社会が子どもの「物語の意味づけ」を決めてしまっている例とも見える。

④ 読解力の問題ではなく「想像力の偏り」

だから私は、この現象を「誤読」よりも「想像力の偏り」と捉える方がしっくりきます。文章を正しく理解できないのではなく、読み取るレンズが“罰”や“金銭”に偏っていただけ?あと、読解力の乏しさ・想像力の欠如と説いた方も、そう見えるけどね。背景にあるのは、教育や社会が刷り込んだ価値観とも思えなくもないでしょ。

⑤ 教育の慣れの果て?

「罰で子どもを統制する」教育 → 子どもは行為の意味を「罰」と結びつける。お金 → 子どもは花でさえ金銭的価値に還元してしまう。

「国語力の低下」じゃなくて、社会の価値観が子どもの読解に浸透してしまった結果だと考える方がしっくりくるのかもしれない。

この誤読問題の記事が新聞で取り上げられてるということは、これは特別な偶然ではなく、比較的「普通に起こりうる現象」なんだろうなと思う。だって、わたしが記事にした『白いぼうし』『ごんぎつね』『セロ弾きのゴーシュ』だって、誤読されているようだし、大人だって読めていないのが現実だ。

子どもの読解や物語の意味づけは、必ずしも作者の意図通りには動かない。というか、子どもたちは自分の経験、価値観、家庭・社会での教育のバックグラウンドを持って読み解くから、それぞれの“ズレ”が生じるのは当然かなとも思える。

それを「誤読」というラベルで片づけるのではなくて、読み方の幅・社会的背景・教育のあり方を考える入り口として使う方が、むしろ建設的だと思う。

わたしからしたら、

じゃぁ、『セロ弾きのゴーシュ』、お前が説明してみろ。

こうなるだけだ。トマト云々言った時点でどうなるか….

⑥ フレーム枠を渡してあげたらいいんじゃない?構造化説明

父親がコスモスを渡した時の心理描写はないが、登場人物の立場に立ち、状況や背景を踏まえれば、行間から父親の気持ちを想像できるだろう。だが、一部の生徒たちはその力がないので、父親の悪意や欲望を描いた作品だと受け取ってしまう。

父親がコスモスを渡したときの心理描写は本文にないですよね。だけど、登場人物の立場に立って、状況や背景を踏まえれば、行間から父親の気持ちを想像することは可能ではある。

ところが、一部の生徒にはその力が十分に育っていないから、父親の行為を「悪意」や「欲望」に結びつけて解釈してしまう。

本来、ここは生徒たちに「父親の心理を想像させるべき箇所」なんだけど、戦争を知らない子どもたちにとって、ゼロから想像を膨らませるのは容易ではないでしょ。現実の人間関係であっても、他人の悲しみをその人の立場になって完全に理解することは難しいじゃないですか。

だからこそ、あらかじめ「想像のための枠組み」を渡してあげたらいいんじゃないの?とも思える。今の教材が提供しているのは――

  • 家族と離れて、戦争に行かねばならない父

これだけでしょ。これでは「父親がなぜ花を渡したのか」の想像が現実味を帯びない。

そこで、例えば以下のような事実をフレームとして与えてから考えさせれば、子どもたちはより深い想像へと進めるかも?

想像のための枠組み(当時の背景)

  • ゆみ子の「一つだけ」という願いが将来に影響しないかを父が気にかけていたこと
  • 戦争とは、国から「行け」と命じられれば選択権なく従わなければならなかったこと
  • 体が弱くても、戦えると見なされれば徴兵されたこと
  • 食べ物にも事欠き、生きるのがやっとの時代であったこと(そんな時代に「花」は買わないでしょ)
  • 父が戦地から無事に帰ってこられる保証はなく、命を落とす可能性が高かったこと

当時の価値観・空気

  • 別れ際に「万歳」と叫ばれていた。
  • それは「お国のために戦える英雄として選ばれた」という意味合いを持ち、命を落とすことさえ“美談”として描かれている。

こういう具体的背景を枠組みとして渡すことで、子どもたちは「罰」「お金」といった身近な解釈ではなくて、父親の悲しみや不安、家族への愛情に想像を広げることができると思うんですよね。

教科書にある「万歳」。この「万歳」ってさ、子どもにとってみたら謎だよね。嬉しいときにしかしない現代の意味する「万歳」が、命を落とす危険があるときに「万歳」しているんだから。「万歳」の意味説明は必要だと思う。この「万歳」が喜びを象徴しているかのような描写だから。ある意味「喜び」だけど、それは「洗脳」とも言える。

だって、あの「万歳」、戦争を知らないわたし達には、理解不能でしょ。「万歳」を現代の意味で解釈したのなら、何か楽しいところにでも行くのかな?という子どもが出ても不思議じゃないよ。なら、「罰」とか「お金」などという、安易な解釈となっても、ある意味整合性が取れるよね。

で、うちの子に聞いてみたんですよ。

「万歳」ってあったじゃん?あれ、楽しいところに行くのかな?って思った?

思った。けど、楽しいところでもないみたいだな…とも思った。

物語自体がさ、軽くならない?ふわっと。深刻さが消えない?

あー、消える。

説明あった?この描写の。

何にもない。

全部説明したら、

(洗脳)キモ‥‥

ここまで読み解くと、見えてくる根っこがある。「罰」とか「お金」と回答した子どもへの説明は足りてたの?ていうね。「戦争=ゲーム」の連想が無いとも限らないじゃない。完全にはそう思っていなくても、すぐ生き返ることができる、バトルゲームとか色々あるでしょ。感覚が軽くなるよね。案の定、説明が足りてない現実もあった。

疑問に思ったらしいけど、聞かなかった(聞けなかった)らしい。まぁ…わかるよ。だから、だとしても、言い訳にはならないよ。帰ってから、わたしに確認するくらいじゃないとダメだって注意はしたけどね。

  • 「天皇陛下万歳」 が元のかたちで、天皇や国家への忠誠を示す掛け声
  • 戦地に赴く兵士を「お国のために命を捧げる英雄」として送り出すときに唱えられ、本人にとっても家族にとっても「名誉」「誇り」として美化されていた。
  • その背景には「命を落とすことすら国のためなら喜ばしい」という価値観の強制があった。

そこから、

命がどうなるか分からないし、もう最後かもしれない。そういうときに、笑って笑顔で別れたいと思う?泣いて別れたいと思う?

そう聞くのも一手だろう。

父の心情を想像する手がかりになる。

ゆみ子が我がままを言っていると思っている生徒がいるから、「罰」という発想が出る。

笑って別れたいじゃない。最後かもしれないんだもの。子どもの笑顔、見ときたいじゃない。もう、戦地で死んじゃうかもしれない、そんなとき、泣いてる顔見たい?子どもだと想像し難いなら、じゃぁ、相手がお父さん、お母さんだったら?せめて、笑顔でって思えない?

別れ際に父親が涙を流せば、私は「父を戦地に行かせた国」を強く恨んだかもしれない。人が家族と別れ、泣きながら戦地へ向かわねばならない。それは、残された者にとっても、送り出す者にとっても、あまりに辛い現実だ。

そっから考えると、「英雄」と結びつくマインドコントロール的なものは、当時からあるだろうし。じゃないと、反乱が起こる。元々心理学は、人を操作するために生まれたものだから。現代はね、支援と自律の道具にもなってるけどさ。

  • 戦況が不利でも「勝っている」と報じる。人々の不安を抑え、士気を高める典型的なプロパガンダ。
    ただし、どの程度「虚偽」であったかは研究によって幅があるので、真実かどうかは史料のみで断定できない。
  • ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)などの戦争映画で、実際には誇張や演出を含み、「日本は強い」という物語を国民に刷り込む。
  • 欲しがりません勝つまでは」「一億玉砕」などは、群衆心理を利用して個人の欲望や不満を抑圧、「全体のために」という気分にまとめた。
    「群衆心理を利用した」という分析は社会心理学・歴史学の研究に基づくもので、史料そのものが直接そう記しているわけではない。
  • 子どもたちに「天皇陛下の赤子」としての役割を刷り込み、戦地に向かうことが“最高の名誉”だと教えた。
    ただし、「最高の名誉」との直接表現は時代の空気や教育政策全体からの分析、教科書本文に明言されているとは限らない。

こういう書き方をするとさ、私は、さぞ家族仲が良かったのかもしれないと思われるかもしれない。だから想像できるんだろうと…真逆だ。もし自分がその場にいたなら……と考えることで、父親の気持ちを想像してる。私は父親とも仲が悪かったし、良好な関係とはほど遠かった。それでも「戦地へ赴く」という事実そのものは、胸をえぐるように辛いだろうと想像できる。

補足説明すると、登場人物の発言と行動だ。そこから読み解く、それだけだ。こういう行動と発言がある人のやさしさは….こう考える。思考、発言、行動、この一致を見れば、あらかた想像できるものがある。ゆみ子の父親の言動で一番印象に残ったのは、「ひとつだけ」を気にしてるところ。そして、それを払拭する高い、高いだろうね。決まってしていた….とあるから。普通、気にしないものだから。あぁいうところに、気が付く人のやさしさは深い。

発言というものは、その人自身を表す。

自覚的であってもなくても、わたしには関係がない。見抜けるから。余裕だ。例えばだけど、自己保身なんて朝飯前だ。話の前後、ロジック見れば一発で崩壊だ。どんな言い訳も通用させない。けど、背景(弱さ)は見る、「命」に係わるときには、見ない。

そこからの、

私ならどうするだろう…..私がこの人(父親)なら…→「認知の書き換え」をする。

そう思ったから「ひとつだけ」の書き換えをしているんだろうと思った。

推理小説みたいになっちゃって、お前のせいで台無しだよっ。

って言われるかもしれないけど、それはごめんなさい。だけど、わたしの脳内だから。読み進めて、一輪のコスモスを「一つだけ」として渡す父親の秀逸さよね。フラグのすごさよ。

「国のために行くんだ!」と万歳をして見送る場面が描かれている。選ばれて戦地へ行くことを「英雄」とみなさなければ、自分たちの心が押しつぶされてしまう。そうとも考えられる。何がお国のためだ….そうした時代背景を踏まえれば、父親が娘の「一つだけ」を叶えてあげたいと願った気持ちが、より切実に感じられるかもしれない。

だから、ゆみ子の「一つだけ」を叶えているんだと思う。あの場面からは、やさしさしか感じられないから、そう考えさせる術も必要だと思うわ。本題とは関係ないけど、ぼーんやり生きると、まんまと操作されるよね。構造くらいは見抜きたいよ。情弱者は刈られるし、自覚的でないと、人生はどんどんぶれるよねぇ。

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