“内省最大のボス戦”とも言える。
- やりたい。でも、やりたくない。
- 進みたい。でも、止まりたい。
- 返事したい。でも、寝たい。
──こういう“心の綱引き”、ありません?

脳内会議では『成長したい部』が前のめりに発言してるのに、『リスク管理部』がゴングを鳴らしまくり。
そして『過去のトラウマ部』は机を叩きながら『また傷つくぞ』と警告。どんな状況だよ。
気づけば、自分会議が全会一致で決裂。そして破滅。
そんなカオスを心理学では『認知的不協和』と呼びます。わたし的には『うるさい!でもみんな言ってること正論!』現象。
で、よくあるアドバイスはこうですよね。
- スモールステップ、できることから始めましょう
- 内なる声を聴きましょう



なんかよくわかんないし、そう簡単じゃない選択が多いでしょ。人生には『この一手で全てが変わるかも』な瞬間がある。小さく刻んでる暇もなく、腹を括るしかない場面ってある。そんなとき、どうする?どうやって決める?
このブログでは、その“葛藤のリアル”にちゃんと向き合って、『正しさ』じゃなく『誠実さ』で決める、わたし独特の方法を書いてみます。
大丈夫、心理学面、哲学面から整合性は取れてます。
今回の記事では——心理学の王道からちょっと踏み込んでみようと思います。結局は哲学も心理学もスピリチュアルも似てるって話にはなる。
- 自己一致(カール・ロジャース)
- 認知的不協和(モヤる正義感)
- そして、チクセントミハイの『フロー理論』(スポーツ界では、ゾーンとも言う)
読み終わったころには、『迷ってる自分』にちょっと優しくなれてるかもしれません。
わたし流※自己一致のやり方


カール・ロジャースはこう考えます。



人は、自分の経験を無条件に受け入れたときに、自己の構造そのものが変化する。
つまり、
- 感情(怒り・悲しみ・恥・怖れなど)を否定せず
- ジャッジせず
- 『今の自分に起きていること』として、丁寧に感じること
が、自己一致の鍵だとしました。
- 『防衛的な自己概念(べき論)』と
- 『実際に感じていること(体験)』のズレ
このズレを放置すると、自己不一致になり、葛藤や苦しみが増える。
なので、わたしは、決断に迷うとき、こうなったら嫌だなという未来も想像しつくします。
そして、それを引き受けられるか?を自分に問う。それでも、進みたいと思うか?自分が思うような結果にならなかったとしましょう、その未来ごと引き受けることができるかどうか?
- 決めないといけないときがある
- それに人が絡むこともある
- 自分の判断だけでは済ませられないこともある
そこには、プライドも、執着も、エゴも、自分の見たくない感情がたくさん住んでいる。その感情を無視せずに見尽くすんですよね。
見尽くすとは、『この感情は何のためにここにいるのか?』と問い続ける。排除せず、利用せず、ただ観察して、扱う。そんな感じ。



見てる最中は恐怖も来る。けど、その恐怖を先に味わい尽くします。これが結構エネルギー使う。どっと来る。
結論だけ聞かれると、簡単に答え出してるなって思われるだろうけれど、そうじゃなくて、ここにはとんでもない葛藤が含まれてる。
- わたしが感情を棚卸しするのは、ズレたまま選択したくないから
- そして“誠実な選択”をするために、感じ尽くしてる
ロジャース的な『自己一致』に根差した行為です。
なぜその視点が重要だと思うのか?


多くの人が陥りやすいのは、『うまくいったらラッキー』『ダメだったら傷つきたくないからやめておこう』という結果依存型の思考なんですよね。
でもわたしは、『こうなったら嫌だなという未来を見尽くして、それでも進めるか?』という問いを立てる。YESの前提でNOを見ておくということをする。こうなったら嫌だなという未来を見尽くしたら、脳がフラットの状態になるんですよ。つまるところ『凪』。
『想定外』が一番怖いじゃないですか。
だからこそ『最悪の未来』を“見ない”ようにすると、むしろ無意識ではずっとビクビクしている(=緊張状態が続く)。
逆に、『ここまで想定したんだから、もう何が起きても大丈夫』、という状態になると、“未来に対するコントロールの放棄”ができる。このとき、脳はリスクを受け入れたと判断するから、アラートを下げるんだと思う。
『もう、これでいい』と決められた瞬間に、葛藤のエネルギーが止まる。つまり、ずっと内側でうるさく動いていた会議室が、ある瞬間『全会一致』で静まるようなものに似てる。
『最悪を想定し尽くす』ことは、感情と認知の“統合”を静かに完了させる方法。
ちなみにこの状態、ロジャース的に言えば、『体験との一致が起きた状態』で、科学的には、『防衛反応が解除された』状態かとも思う。
それでも、感情は生き物だから容易じゃないこともある。



やりたくないときには、断りますよ。それは大前提。
それでも進めるか?のときには、YESしかない。
けど、結果が伴わないこともあるじゃないですか。
事象の結果にNOという結果がでても、わたしは進むYESを真剣に選択できたという肯定感が持てるんですよね。だから、結果の是非を相手に問うことがなくなる。選択に誠実だったという実感があると、結果に依存しないんですよ。
YESの選択が、自分の意志と感情の統合から出た答えであれば、たとえ現実がNO(失敗・拒絶・不成立)であっても納得できるから。
- 不確実性が『感情的な揺れ』を生む
- その不確実性の“最悪”を見尽くすことで、未知が既知に変わる
- 『対処可能なもの』として再構成された未来は、脳にとって脅威ではなくなる
つまり、これは不安のメタ認知化。恐れがあるからこそ、脳が勝手に暴れないように整える行為。理性と感情の共同作業。



感情を無理に抑え込むんじゃなくて、恐れの存在をなかったことにするんじゃなくて、先に恐れを“見尽くして”、脳の暴走を止めておく。それは『怖いからやらない』ではなくて、『怖いからこそ、自分の一部として先に手なずけておく』という選択。
なぜ『YES』しかなくなるのか?
最悪の未来を引き受ける覚悟が決まったとき、決断に対する条件が消えるんです。『うまくいくか』ではなく、『自分はそれをやると決めた』が唯一の基準になるから。
ここでのYESは、『望ましい結果を信じたから』ではなくて、『自分の意志が整ったから』出てくるYES。
つまり、『行動の結果』ではなくて『行動の意味』で選んでいるということになる。
だから、たとえ結果が望まないものであっても、



『あのときの自分は誠実だった』と言える。
そうとしか、言えないんですよ。だからする。
認知的不協和 vs 感情の棚卸し


ふつう、認知的不協和を解消しようとすると『納得できる理由探し』を始めるんだけど、わたしは納得より先に、“感情を見尽くす”という選択をする。
独自の実践でもあります。
だって、不協和を生むのは『思考』じゃなくて、『その思考に紐づく感情』だと思うから。
※だからって、フェスティンガー理論を批判してるわけではありません。あれはあれで、一理あるから。
これは、
- プライド
- 執着
- エゴ
- 恥
- 怒り
- 自己防衛
といった、“見たくない感情”を避けずに引っ張り出し、全部テーブルに並べて一緒に決断するということ。
そしてこれが、単なる『思考の統合』じゃなくて、“自己との統合”そのものだと思う。だから、その決断でどんな結果が起きようとも心は凪を保てるんです。
それで決断すると、



凪?取り乱しもしないで、結局どうでもよかったんでしょ?



そんなワケないだろ。人が関わってるのに。こう言われるのが一番嫌。対人があるときには、特に必死に考えてるから。何も伝わらないというジレンマだけは残りますけどね、それでも誠実であったと自分を誇れるんですよ。そして、思いたいように思え!こうなる。
失敗した(と思える)未来も引き受けた上で選ぶ。
単なる選択じゃなくて、行動に伴う結果と感情の責任をすべて引き受ける。失敗したとしても、そこを起点にすれば、また違う未来が開けるはずだから。



種明かしをするなら、怒りとも思えるような行動を相手が取ってきたとしても、怒りが湧かないんですよ。だって、先に味わい尽くして手放してるから。想定の範囲内になるだけの話。今更どうした?常態になりますよ。
だから、評価や反応に揺れないし、怒りに呑まれない。呑まれそうになる前に、呑んどくだけの話。これ、結構辛いんだって。だからエネルギーを使う。
世の中には、怒らない=無関心 or 鈍感と思っている人がいます。でも、わたしは違う。
味わい尽くしてるから、怒りにならないだけで、つまり、『怒る価値のある感情』をすでに自分の中で処理し終えているんです。
- 予期していた
- すでに想定していた
- そして、それが来たときに動揺しない“構え”ができている



数手先読むの。だって、傷つくの嫌だし、人を怒りたくないし、責めたくないから。見たくない未来を見ないといけない、苦痛も想像したくない。人の未来かかってるなら猶更。だけど、色々な選択があるでしょ、相手を尊重したいと思うのなら、これやらないと、尊重できないから。期待して、期待通りの結果が来ることを期待したくないんです。ただただ怖い。恐怖回避。
すべては自分のため、そして相手の意志を尊重するため。自分で立ってないといけないから。崩れるわけにはいかないから。感情ほど厄介なものはないから。感情は、見ないといけないものを見えなくさせるから、それを防がないといけない。
あと、そこで揉めると、最良の決断ができなくなるでしょ。常にフラットを保ちたいんです。
仏教でいう『空観』そのもの。空洞じゃないから。
ちゃんと熱があった。ちゃんと揺れて、悩んで、考えた。その過程を経たうえで『もう怒らない』という選択をしているだけの話。
じゃないと、自分を守れないでしょ?いちいち、感情に支配されることの無意味さよ。ただ、辛いだけ。
怒りを無批判に燃やす人は、『相手への攻撃』と『自己破壊』の両方をやってるでしょ。あれがすごく嫌で苦手なの。
わたしは、
- 自分を壊さないために、怒りに呑まれない
- 相手を壊さないために、怒りを返さない
- そのかわりに、『選んで、整えて、流す』
それをしてるだけ。



だから、私の言う『怒らない』は、諦めじゃなくて、選択の強さなんですよ。何が冷たいだ。真逆だよ。
采配にかけられることがあるんですよ。こういう私の怒らない、無関心に見える性質を見て。
- わたしに飴をあげる(与える)、わたしの反応を見る
- わたしがあげた(与えた)飴を受け取らないと拒否したときに、わたしがどういう反応をするか?を見る
②には意味がないんですよ。内省が終わってるから。
小さなステップじゃ済まない場面でどうするか?


教科書的な『スモールステップ戦略』が通用しない場面では(実際、通用しないことが多いよ)、
- 感情の洪水が起きる
- 自分の価値観を根底から試される
- 人の感情も関わってくる
こういうことが起こる。これが非常に厄介。だからうまく行かない。不協和音ありまくり。音がすごいから、感情の波に飲まれまくり。これがデフォルトだときついから。
逆に、こんなデフォで生きれるってすごいと思う。流れに乗れます?タイミング分かります?状況を冷静に見つめるために、このデフォは持ちたくないんですよ。
それをたまに『冷たい』の一言で、片付けられることがあるから、たまに辛い。
怒られることもあったから。



こんなときにどうしてそんなに冷静でいられるの!?



こんなときだからこそ、冷静なんだよ。逆に慌ててどうなるんだよ。こっちからしたら、どうしたらそんなにバタバタできんの?
無意味に小走りに走って、行った先から情報も何も掴んでこない、どこ行ってきたのか、それ、散歩かジョギングでしょ?お前が非常識だよ。こんなときに散歩して。


ぽろっと、こういうことがあったとある人に話したら、



そういうときは、演技でもバタバタした振りするのが社会人でしょ。世渡り下手すぎ。
不可思議すぎて、意味わかんない。今だったら言える。
世渡り下手でいいよ。



ここで、乱れるようじゃぁ、これが不協和解消されてない証拠になる。するとエグられる。あぁ、甘かった…内省不足となることもある。ヤラレタ、読み直し。こうなるだけです。わたしの場合は。
バタバタした振りができないから。
このときに求められるのが、『覚悟』と『誠実さ』。
そして『この感情を無視せずに見尽くす』という道を選んでいます。
だからこれは、認知的不協和の処理というより、人間としての矛盾を引き受ける作業かも。でも、これがわたしの認知的不協和の処理。フェスティンガー理論よりも、感情が主になってるから、独自性っていってる。
あんなスモールステップとか、付け焼刃のステップ論(できることから始めましょう)でどうにかできるものならいいけれど。できないことの方が多いでしょ。



納得でも合理性でもなく、『この感情とこの未来を、全部自分の一部として生きる』という選択。それを繰り返すたびに、少しずつ、自己と一致していく、そう思ってます。そうじゃないと、おかしい、とくらい思ってる。持論だろって?
うん、否めないくらい持論です。
これが『手放し』だと思ってる


わたしは『手放し』って、ネガティブ感情、ポジティブな感情どちらも自分の一部として受け入れる(認める)ことだと思っています。
よくある『引き寄せの手放し』の誤解ってこうですよね?
- 願ったら忘れろ(←脳が混乱、思考放棄だろ)
- 執着をやめたら叶う(←どこまでが執着?切実との区別は?)
- 叶うと信じて、宇宙にお任せ(←現実から浮く、つまるところシュレーディンガーのお金になる)


わたしのしている手放しは、
- 感情を最後まで丁寧に味わい尽くす
- プライドもエゴも不安も、全部テーブルに並べる
- そのうえで、『こうなるかもしれない未来も引き受ける』と決める
- 結果がどうであれ、自分に誠実だったという土台を残しておく
- だからもう、それ以上『結果』に心を揺らされない
つまり──『感じ切ったから、もう握っておく必要がない』状態。
言い換えるなら、『ちゃんと持った人だけが、本当の意味で手放せる』と思ってる。
→ プライド・恐れ・欲・過去のパターンを全部炙り出した
→ 結果をコントロールしようとせず、でも願いは手放さない
→ 結果を握らないけど、行動は止めない
わたしは、これが本当の引き寄せの法則だと思ってます。
ここに来て、これ、何かに似てませんか?
→フロー状態を生む前提(スポーツ界で言うゾーン)になりやすい
アドラーの『課題の分離』
仏教の『空観』『無所得(むしょとく)』
つまり、結果を執着せず、それでもなお自分の願望に向かって“意味のある行動”をすること。ただ、自分の行動と意志を尊重し、信じること。
これが引き寄せで言うところの『波動が整っている』状態。
ただの『感情の放棄』じゃなくて、自分の感情と願いをちゃんと見届けたうえで行動し、最終的に“委ねる”という選択。
だからこそ、現実が動く土壌になる。
スピリチュアルではよく『執着しないほうが叶う』と言いますが、それは『感じ切った後の手放し』じゃないと、効かないと思う。
“力づくじゃないけど、確かな方向を向いた引き寄せ”。
理屈じゃなく、これは『在り方』。その在り方が、現実を静かに引き寄せて行く。



この手放しをした後に、自分に問い直す。手放したけれど、願望をもう一度見つめ直す。そして願う。そして叶う。そうだと思う。
手放しとは、『諦める』ことではなくて、『願いを見直す勇気を持つこと』、そして『その願いを再び選べる自由を取り戻すこと』じゃないかと思う。
『再び願う』は、その“クリアな地点”から自分にとっての真実を選び直すこと。
そのとき、願いは、もはや執着ではなくなる。そして『波動が整った状態』になる。それが、静かな引き寄せのベースになる。合ってると思う。
手放しができたかどうか?はどこで見る?
願いを『目標』や『結果』として捉えると、まだ“手にしていない何か”になってしまうでしょ。でも、『信じる』や『進む』という行為は、“今ここで、選んでいる在り方”になる。
つまり
- 『願っている』状態は、“まだ持っていない”という前提がある
- でも『選んでいる』状態は、“すでにそこに在る”という前提になる
『手放し』とは、“何も感じなくなること”でも、“期待をゼロにすること”でもなくて、それはむしろ回避や麻痺だと思う。
↓多分、こうだと手放し成功と見ていいのでは?
- 怖れの存在を認識しながらも、それに引っ張られずに『選択』できている
- 保証を求めずに、自分の“意志”で信じようとしている
- 不確実さに揺れながらも、『いまの自分』に誠実であろうとしている
恐れがあっても。
保証がなくても。
確信が曖昧でも。
進めるという覚悟。
それでも『この道を歩む』と決めた瞬間、それはもう未来ではなく、“存在の現在形”になるから、『握ることなく、逃げることもなく、選ぶ』という姿勢であり、仏教でいう中道、心理学でいう自己一致、哲学でいう存在の肯定になるはず。
つまり、この常態が『もう叶っている』になるはず。外側の形じゃなく、内側の在り方として。
だから、これは“自分を切る”ような手放しじゃなくて、『持った上で、もう握らなくてもいい』状態。
そこに行動が加わる。
たまにネガティブが浮かんだとしても、大事なのは『浮かぶこと』じゃなく『どう扱うか』。
- 『叶わない未来』が浮かんでも──
とらわれず、ダメダメ!とジャッジせず、ただ見送れるか? - 『怖れ』が来ても──
それを否定せず、自分の中の一部として迎え入れられるか?
これができていれば、例えネガティブがちらついても、願いを握りつぶす力にはならないと思う。



じゃないかなぁという持論だから、違う見解が出来たら追記します。笑
考えると、そうなるからー。
じゃないと、整合性取れなくなーい?っていう。
わたしの実践に含まれる心理学・哲学理論の対応表


テーマ | 関連理論・思想 | 提唱者 | 概要・要点 |
---|---|---|---|
感情を否定せずに扱う | 自己一致理論 | カール・ロジャース | 体験(感情)と自己概念のズレを統合し、変容を促す。 |
感情の観察・受容 | マインドフルネス/空観 | 仏教 | 評価せず“今の感情”を観る態度。苦しみを手放す。 |
自分の全側面を受け入れる | 無条件の自己受容 | カール・ロジャース | 恥・怒り・エゴなどを排除せずに抱えることで、健全な自己感覚を持つ。 |
葛藤と矛盾に向き合う | 認知的不協和理論 | レオン・フェスティンガー | 相反する認知を同時に抱えることで不快が生じ、それを整合的に解消しようとする。 |
納得ではなく感情を先に扱う | 不協和 × 自己一致(独自統合) | ※独自のもの | 表層の合理化ではなく、感情を棚卸して深層一致へ向かうプロセス。 |
最悪の未来も抱えて決める | 実存的決断 | キルケゴール/ヤーロム など | 不確実な未来に直面しながら、意味と覚悟に基づいて選択を行う。 |
行動自体が目的になる | 自己目的的行動(オートリック体験) | ミハイ・チクセントミハイ | 行動が外的報酬ではなく、内的充足を生むものであるとき、フローが起きる。 |
他者との課題を切り分ける | 課題の分離 | アルフレッド・アドラー | 自分の責任と他人の課題を明確に区別し、境界線を引くことで自由と尊重を得る。 |
怒りを手放す姿勢 | 空観・中道思想 | 仏教 | 感情を『空』としてとらえ、巻き込まれずにありのまま見る。 |
結果をコントロールしない | 無所得/手放し | 仏教 | 見返りを求めない行動。『願いは持つが、握りしめない』姿勢。 |
願望実現の在り方 | 引き寄せの法則(実践知的側面) | 各種スピリチュアル/現代心理統合 | 執着を超え、波動(=内的整合)を整えることで現実が動き出すとされる。 |
まとめ
葛藤の正体は、『感情』と『未来』をどう扱うかということ。
わたしがしているのは、願いと怖れの両方をテーブルに並べて、その上で『最悪も想定して、なお進む』と決めること。そこが決められないときには、断るが大前提。
もっと言うと、進むことを前提に最悪を想定して、進んで行けるように調整すると言っても過言じゃないかもしれない。
それはもはや、選択というより『覚悟』に近い。
だから、どんな結果が来ても、ブレない。なぜなら——全部(ポジティブもネガティブも)、自分でちゃんと持った(感じ切った、認めた)から。
これが、わたしにとっての“手放し”。
願ったら忘れるとか、執着やめたら叶うとか、そういう都合のいい話じゃない。
『持ち切った人だけが、手放せる』わたしはそう思ってます。だって、持てる感情がわからないと、手放せないでしょう?そもそもが持ってるかどうかもわからないものを、どうやって手放せるの。
そしてそれこそが、引き寄せの法則、フロー理論、課題の分離、仏教の空観……全部に共通する『在り方』だと思うんですよね。
感情に支配されず、でも感じ切って、そのうえで『どう在るか?』を選ぶ。
その静かな在り方が、現実を自然に動かしていく。それが、わたしの“選び方”です。



持論ですよ。
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