MENU

批判をやめたい※人を批判してしまう批判癖を私がやめた方法

人批判 やめたい

仕事から帰っても、嫌だなと思う同僚のことを思い出したりして、ずっと人批判、会社批判という批判癖。

お風呂入りながら、布団の中とか、気が付けばずっと、、いつまでそんな生活続けるの?って。

いい加減やめたいなって思って人に相談すると・・

  • 人は人、自分は自分、関係ないと思うようにしよう
  • 批判して、その人のことを考える時間がもったいない
  • 暇だから、その人のことを考えられる余裕がある
  • 自分だって、完璧じゃないはず
  • 真面目過ぎ、軽く流せばいい
  • いい所を見るようにしよう

わかっちゃいる、それが出来たら苦労しない。

できないから、悩んでる。

この記事では、わたしが批判癖をやめるのに、効果のあった方法を経験談をベースにまとめてみました。参考になると、幸いです。

目次

聞いた、目にしたアドバイス※わかっちゃいる、それが出来たら苦労しない

アドバイスを受ける

悩んだときって、色んな本を読んでみたり、人にアドバイスもらったりすることあるじゃないですか。

そういうときに、よく聞くアドバイスで・・

  • 人は人、自分は自分、関係ないと思うようにしよう
  • 批判して、その人のことを考える時間がもったいない
  • 暇だから、その人のことを考えられる余裕がある
  • 自分だって、完璧じゃないはず
  • 真面目過ぎ、軽く流せばいい
  • いい所を見るようにしよう

みたいなね。うんうん、わかる、わかる。聞くとよく分かるんですよ。

たださ、そんなこと、分かっちゃいるけど、どうにもできないんですよね。できるのは、聞いている、目にしている、その一瞬だけ。すぐ元に戻る。それが出来たら苦労しないんだよなぁ・・・・てなる。

大体、いい所を見るようにすればいいって、「嫌い」っていう感性って、もうセンサーがピーンって働いちゃうので、どんなにみんなに「いい人」って言われている人でも、自分が「苦手」と思えばもう「苦手」じゃないですか。

その「苦手」っていう感情をどうにかしようとしても、どうにもならないし、妙にエネルギー消耗して、めちゃくちゃ疲れるっていうことになると思うんですよ。

ていうか、なったんですよ。

↓それで、わたしがした方法がこちらです。

批判をやめたい、わたしが実践した4つのこと

批判癖を持っていた、過去のわたしが実践した方法は4つあります。

  1. ひとりの時間を多く持って、考える時間を取った
  2. 本を読んだ
  3. 友人に相談することをやめてみた※相談は最終手段と思おう
  4. 収まらなくなったら、紙に書くかパソコンに打ち込んで気持ちの整理をした

ひとりの時間を多く持って、考える時間を取った

職場で会う人であれば、ひとりの時間を確保するのも難しい話なんですが、とにかく、できるだけひとりの時間を多く作ることに専念しました。

会社であれば、できるだけ嫌だなと思う人から距離を取るって感じですよね。とにかく、避ける、頭を休める。

自衛です。些細なことから、余計なことを思ったり、言ったりすることをしたくなかったから。

友人からのお誘いにも乗らず、引きこもりですよね。というか、この頃は、ランチするのはいいけど、そこに行って互いの職場の愚痴を言ったり、聞いたり、、、なんだこの時間・・・って無意味な時間に思えてきてたんですよ。

ランチで言う愚痴の時間

愚痴言ってランチ食べるの?お金勿体なくない?くらいの極端な思考になってましたけど、ここは今でも変わっていません。愚痴って食べるランチはクソ不味い!

プラスの関係を築けていないんじゃないかって。そういう友人との関係性は、ちょっと考え直した方が良くない?みたいな状態に陥っていました。

人との関わりを最小限にした、その替わりに、本をたくさん読んだんです。

読んだ本が癒しにもなってくれたし、新しい知識って言うんでしょうか?違った目線の知識が増える感覚で没頭するように、読んでいました。

こんな考え方があったの!?みたいな感じですよね。

読書をした

後々考えると、この時間はとても貴重な時間でした。。

今までの自分を振り返る時間にもなれたし、考えを整理することができた時間になりました。

「嫌なだな」と思う人を避けていたので、そんなことしてるから当たり前ですが、人の嫌な部分を必要以上に感じて影響を受けることが少なくなったんですよね。

今思えば、そこは元々感受性が強いことも影響していたと思います。自分を知らないと自衛もできないものですね。

自分自身を取り戻すのに?ほんとに貴重な時間だったと思います。

影響を受けるのを少なくするって大事だと思います。

これで極端に批判思考は減る。まずは、避難が先。

本を読んだ※気づきのキッカケになった本

斎藤一人(さいとうひとり)さんの書いた数々の書籍を読み漁った時期があります。

月に10冊くらい読んでたかな。

抵抗のある方には、抵抗があると思うんですが、読んだ本の中でも、気づきのキッカケになった本です。

キッカケなので、本の中に何かの答えが書いてあるワケじゃないんですよね。わたしは何か指南書みたいに答えが書いてるんじゃないか!?って読み漁ってたんですけど、そうじゃなかった。ただ、今までこういう考え方を自分に教えてくれた人っていなかったので、衝撃の出会いではあったと思っています。

この他には、ちょっとオカルト系になっちゃいますが「宇宙の法則」関係の本も読んでいました。この考え方に、のめり込むっていうよりも「こういう考え方も一理ある」という程度に知識に入れ込んでおきました。

とにかく知識の詰め込みですよ。多種に渡る本を読んでました。

分からないことについては、全部調べた。この知識と経験の集大成がこのブログです。興味があったから、世の摂理について自分なりに調べ上げました。

友人に相談することをやめてみた※相談するのは最終手段

結果、これは効果があったのでは、、と思っています。

言わないことでどうなるかって、自分で考えるしかないんですよ。

相談って、聞いてもらうだけでも大分気が楽になるって言うじゃないですか。確かにそうなんですよね。

でも、四六時中聞いてもらうのって、ちょっと違うんじゃないかと思って、だって、自分の周りって自分と似た人がいるわけですから、価値観の合うひとしかいないワケなんですよ。

相談すると、きっと良くも悪くも同調してくれる確率が高い。

すると「だよね、やっぱりそうだよね」で終わっちゃうから、それ以上の成長は無いと思ったんです。

しかも、愚痴を聞いてもらうって、わたしは友人の貴重な時間を奪っているのでは・・・なんて感覚にもなってしまいました。

※そこまで気に病む必要はなかったのかもしれませんけどもね

人の時間を奪ってまで、言う価値が果たしてあるのかな?じゃ、自分で解決・納得するまで考えてみようよって自分で思って、自分でそうしたんですよね。

すると、わたしの場合は、これが良かったんでしょうね。

本を読んで新しい知識が加わったのも相まって、自分なりに、何かに衝突したとき、自分で答えが出せるようになっていってました。

「主観的」だった考え方から、「客観的」な考え方に変わることができて、物事を「点」で見るんじゃなくて、「線」で見れるようになっていってたんです。

ちなみに今では、蜘蛛の巣のように見れます。大体いろいろ分かるようになってきた。

だからカチン!ときても、待つことも覚えたし、言うべきタイミングも間違わなくなってきた。

人へのアプローチも得意になってきた。

それでも、自分の感情のコントロールがうまくいかず、悩むときもあったワケなんですが、そんなときは遠慮なく友人に相談させてもらうことも、もちろんありました。

今では、全部自分で解決できます。

友人に聞いてもらう

その前に、やっていたことがあります。

友人に言う前に、紙に書くかパソコンに打ち込むかして、気持ち・考えを整理することをしていました。

収まらなくなったら、紙に書くかパソコンに打ち込んで気持ちの整理をした

収まりがつかなくなったら誰かに言うつもりで、紙に書きだす、誰かにメールするつもりでタイピングして打ち込むってことをしてみたんですよね。

これは、誰かに言う前提で書くので、実際に言おうが、留めようが書く・打つときのコツが2つあります。

  1. 起きた事柄に対して、これは正しい、正しくないと思う、という書き方をしない
  2. 起きた事柄と、自分はこう感じたという感情を書く※悲しかった、泣きそうになったetc

そうすると、気持ちの整理、自分が本当はどう思って考えていたのか、分かりやすくなっていきました。

ポイントは、ほんとに誰かに見せる前提で書くので、添削をしようと何度も読み返すから、そんなこと繰り返してると、これ、わざわざ言うこと?みたいにバカバカしくなって、やーめた。なんてこともありました。

「紙に書く」は、気持ちを整理する手段として、よく言われていることですが、コレはほんとに一理あると思っています。

批判は結局やめられたの?その後・・

結局、やめられました。徐々にですよ。

明日から途端にパーーーン!と言わなくなった、なんてことはないのですが、徐々に、減らせていけた、という感じです。

人と深く関わることから、しばらく遠ざかると、当たり前ですが批判とも自ずと遠ざかっていきました。

もちろん、その間に自分なりにボーーーーーーーーーーっとしていたワケでもなく、本を読んだりはしてたんですけども。

そうは言うても、イラっとさせられることに、やっぱ遭遇したりはするんですよ。

そんなときも客観的に判断できるようになっていきました。あ、深く接しすぎたな、嫌な部分が見えそうだな、ちょっと遠いこのくらいの距離が良さそうだな、、とかね。

そういう判断もできてくるようになって、徐々に、なんでもかんでも批判しまくる状態じゃなくて、自分とは価値観が違うわっで終わることができるようになって行きました。

そうは言うても、受け入れられない時期って誰にでもある

どんなことでも、本でも、受け入れられない時期ってあると思うんです。

「何言ってんの?」って。

そういう時期って、心では変わりたいって思ってるんだけど、書かれていること・言われてることって、あなたはそのままじゃダメだって言われているような気分になることがある。

わたしは、上で紹介した斎藤一人さんの本で、特にそうなりました。

もう、因果応報、いんがおーほーうるさくて。否定されているような感覚に陥るんですよね、心がたくさん、目一杯傷ついてるから。

その後、ごめんなさいだけど、この方の本、読まなくなりました。言ってることも、イマイチわかんなくて。あーんな読んだのに。仏教のはずなのに「神さまにお願い」とかあるし、「わかるよ」って言うと相手が喜ぶとかあるし、何だかわかんなくなっちゃって。

読んだ人は分かるだろうけど、ツイてないときは、ツイてないでしょ?って思ったから。受容したいんですよ、わたしは。そんな強くないから。無理にポジティブになるの疲れるんですよ。
あと、「わかるよ」なんて言われたら、わたし「お前に何がわかるんだよ」って言いたくなるんですよ(卑屈?笑 いいし、それで)。

あれね、彼だからできた方法で、わたしみたいな人には向かない本ですよ。

最初はね、斬新!と思うんですよ。けど、やっぱり段階がある人には無理で、彼は強固な信念があったから出来たことじゃないかなと思います。

いいことも沢山書いてますよ、そりゃ。

そこに、お金という成功が加わっちゃうと、皆、こうじゃないといけないんだ!と強く思っちゃいますよね。けど、万人受けじゃない。

取り入れた方がいいところは、取り入れてますけど、合う・合わないは見極めないとダメですね。

わたしには、合わない。

合わないものを取り入れたところで、それは私じゃない。てことは成功から遠のく。冗談じゃない、てことで、思い切って切りました。

で、どうなったかって・・

うるさいなー!ダメだ、ダメ、ダメだと!私は私!いっぱい悩んだんだよ!いっぱい悲しい・辛い思いもしたんだよ!涙もたくさん流した!それだけで十分じゃないの!沢山自分も責めた、もう誰からも責められたくない!自分くらいは自分を責めるのを止めよう!

色んなことを一変には受け入れられなくて当然

ちなみに、斎藤一人さんは「そのままでいい」って本の中で言ってくれてます。けど、わたしには、ダメだって言われてるような、そんな気分になったんです。責められているような気分。

ダメじゃなくて、いいんですって、そのままで。

でも、そんなこと言われると、結局変われないじゃん!ともなるし、なんだよ、そのままでいいって・・・ともなる。そのままでいいって「変わった方がいい前提」でしょ!?とかね。

で、心ない人に会ってしまうと「あなたは変わらないといけない」とか平気で言われちゃう。

そういう、お前が変われよ。

けどね、いいんですって、そのままで。 今はいいの。それでいい!

まずは、そのままでいいって自分で思うことが大事で、そこから、必ず次に繋がって行くから。結局は自己受容って大事だと思っているワケなのです。だから、 何度も言うけど、いいんですって、そのままで。

  • 一変に色々なことを受け入れられるワケない
  • 本も読もうと思わなきゃ読めない
  • だから愚痴りたいときは、愚痴っていい
  • あぁ、愚痴っちゃったな、次からは・・って少しずつ思えりゃいい
  • 愚痴る自分もいて、別にいいし、「嫌い・苦手」な人がいても別にいい
  • 自分を守りたけりゃ、苦手な人から逃げりゃいい、なんで批判ばっかしてんだ!っていうのもまた批判だから
  • 何人にも自分の気持ちを乱すことはできなくて、乱しているのは自分自身
  • 気持ちが整うまで、人と距離置くのも1手

ついでに言わせて貰うなら、このブログにたどり着いて、もがいている時点で、あなたはもう大丈夫

良い方向に変わることは確定されてるようなものだと思います。

それが縁。でしょう?

経験上ですが、気が付けば大体、悩みというものは終わります。ピタ-っと収まっていきます。

そういう思考の繰り返しで、いつの間にか愚痴らない自分になれてたりするもので、わたしは愚痴らないようになれましたよ。

だから大丈夫。

批判をやめたいと思ったのはなぜ?わたしの体験談

わたしは、学生の頃、友達が愚痴を言っていても、その輪の中に入ることはない性格でした。

なんでそんなに愚痴ってんのか意味も分らなかったし、スポーツをしていたこともあって、愚痴言う暇もなかったというのに等しいと思います。

とても楽しく充実してた。

詳しく書くと、充実してた風でした。それでも楽しかった。

揉めた後に、友人に話しを聞いて事態を把握する、そんな生活を送っている人でした。

「スポーツ」があった私は、誇れる何かがあったから、自分の持っている「影」に気付くこともなかったんじゃないかと振り返ります。

友人から「あの後大変だったんだって・・」って後から聞かされたりするだけ。女子特有の秘密共有をできてないから、疎外感こそあったけど、別に気になりもしなかったんですよ。

そんな秘密どーでもよかったし。

クラスの子が愚痴ってても「へー、そりゃ大変だったね」で終わってた私が、社会人になったら、ミイラ取りがミイラになったように愚痴るようになっていて、とっても生きていて、つまらない。

ミイラ取りがミイラになる

人だけじゃなくて、会社、環境すべてに対して不満を言ってる、考えてる。

わたしこんなだったっけ・・って思って。

つまらないし、そういう自分を好きになれない。

批判癖、そろそろやめたい。

転職もしたけど、環境変えても変わらないんですよね。何も。

いつもまでも逃げてばかりじゃな、、って思って、ちゃんと考えてみることにしたんです。

アドバイスも色々受けたり、本もたくさん読みました。

それでも、つい愚痴っちゃう方へ

わたしは内に向かう方法を試したけれど、外に向かう方法だってあると思います。手法としては。

要するに、没頭できる何かがあると一番いいと思うんですよ。ヨガでもなんでもいい。

見つけるのも難しいかもしれないんだけど、没頭できるくらい、楽しいもの。

熱中できるものを見つける

楽しめる何かを持っておくのは、やっぱり必要だと感じます。自分が一番楽に生きれていた時代って、きっとあると思うんですよ。

些細なことが気になりもしない、自分のペースで生きれてたそのとき、あなたはどんな思考で、どんな武器を持ってましたか?

そのときの自分と今の自分は何が違うのか?を考えてみるのも原因が分かっていいのかもしれない。

わたしの場合は、充実してた風な人生から、充実した人生にシフトしたくて、スポーツという武器がなくても、自分自身で輝ける自分でありたいと、内に向かう選択をしました。

輝いていた時代に「武器」を持っていて、それで輝けていたとして、それがなくても、心をフラットにして、自分と向き合いたいって思う時期も来るかもしれない。そういう時期にあるなら、わたしの試した方法も一理あるかもしれないですよ~という記事でした。

人批判 やめたい

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次