構造化教育には、はっきりした利点があるけど、
利点だけを語るのは誠実じゃないし。
リスクを想定しないことこそ、いちばんのリスク。
問題は、思想そのものではなくて、運用と環境との摩擦だと思う。
そして先に言っておくと、
摩擦はゼロにはならない。
なぜなら、
摩擦は副作用ではなく、
成熟の証拠でもあるから。
ただし、放置はしない。
制御はできる。
その話を、少しだけしてみようと思います。
構造化教育による摩擦の制御|教育編

摩擦は起きる。
でも原因は「思想」ではなくて、
設計と運用。
- 抽象に住ませない設計
- 到達点を明確にする
- 教師の展開技術を育てる
- 批判だけに留まらせない
① 抽象に住ませない設計
抽象だけで止めなければ、
相対主義化は防げるはず。
必ず具体に戻す。
行為に戻す。
場面に戻す。
本文に戻す。
批判だけに留まらせない。
「前提を疑う」ことと
「何も信じない」ことは違う。

ごんは伝えたらよかった。
伝えられたのに、伝えないのが悪いよね。
これを、行為に戻す。
ごんは悪戯をしている。
実際、言葉を使っている描写はある。
でも、人間のように話せるかどうかは本文には書かれていない。
という事実。
言葉を使っているから、
話せたのかもしれない。
でも断定はできない。
さらに戻す。



兵十から見たごんは?
悪戯ばかりする狐。
その視点に立てば、
「伝えなかったのが悪い」
と単純には言えなくなる。
抽象を振りかざさない。
具体に戻す。
視点を動かす。
事実と推測を分ける。
それだけ。
こういうこと。



前単元の「アップとルーズ」に戻って説明するのも1手だよね。
アップは主観、ルーズは客観でしょ。
より分かりやすいよ。
アップで感情を読む
↓
ルーズで事実に戻す
↓
またアップで意味を考える
この往復。
アップだけだと物語は感情に飲まれる。
ルーズだけだと物語は死ぬ。
往復できると、構造が見える。
これ、めちゃくちゃ綺麗。
自画自賛ね。
② 教師の展開技術を育てる
難しく感じるのはここだと思う。
主観と事実を分ける作業。
「やさしい」は主観。
「栗やマツタケを届けた」は事実。
この分離に慣れていないだけ。
高度だから難しいのではなくて、未訓練なだけ。
ただし注意。
構造化が
「先生の因果を当てる授業」
になった瞬間、終わる。
構造は“答え”ではない。
整理の枠。
導入初期に起こるのは、
- 因果を一段で止める
- 視点が動かない
- 抽象で浮く
- 発言を構造に接続できない
これは思想の問題ではないから。
展開技術の問題。
慣れないとできないところかもしれない。
慣れればできるところでもある。
必要なのは三つの問い。
- 一段深める問い
- 視点を動かす問い
- 本文に戻す問い
これを共有すれば、摩擦は減るはず。
舵取りは必須。
③ 到達点を明確にする
レベル5を全員に求めない。
レベル1が土台。
レベル3が標準。
レベル4以上は成熟段階。
個人差はあっても大丈夫。
目的は、
- 構造があることを知る
- 解釈が人によって違うことを知る
- 解釈が違えば考え方や行動に乖離が出ることを知る
これにある。
事実と逸脱するときには、
問いかけが重要になる。
それが自由とフリーダムを分けることになる。
抽象に住ませない設計|教師の技術展開


構造で読む力がつくと、
- 権威を絶対視しない
- 道徳を固定しない
- 前提を疑う
という思考が育つ。
これは健全。
だけど、芯が育つ前に相対化だけ進むと、
「正解はない」
「絶対はない」
で止まる。
そこで終わると、空虚になるし、
自由とフリーダムの混同みたいになっていく。
だから設計が必要。
たとえば、
「ごんはやさしい」と発言した生徒がいたとする。
この感想は間違いではない。
否定しない。
だけど、国語としてはここで止めない。



どの場面からそう感じた?
- ごんは「やさしい」
- 危険な分岐
- 国語での問い
① ごんは「やさしい」



独りになった兵十を気遣って、
栗やマツタケを届けているところ。



あぁ、そこにやさしさを感じたんだね。
ここで一段戻す。



視点を動かす。



じゃあ、兵十はどう感じていた?



神様の恵みだと思っていた。



そうだったね。
じゃあ、ごんはどうしてた?



割に合わないと言ってた。



なぜ割に合わないと思ったんだろうね。



気づいてほしかったから。



混合感情に触れる。
ここで問う。



ごんの感情は「やさしさ」だけかな?



気づいてほしい気持ちも混ざっている。
ここまで来ると、
「やさしい/やさしくない」の二項対立から抜ける。
抽象に住まず、
具体から抽象へ行き、また具体に戻る。
こういうこと。
② 危険な分岐
ここで雑にいくとこうなるのよね。



やさしさじゃなくて、
かまってほしいだけでしょ。
これは逆の単純化。
やさしさを否定し、
動機を暴いて終わる。
だけど、人ってそんなに単純じゃないから。
この単語で語れるほど、単純じゃないのよ。
そういう構造があるってだけの話だから。



わたしもよく陥るところ。
気を付けないといけない。
けど、わたしのはもっと複雑怪奇なのよ。
行為の層
→ 栗を届けた
動機の層
→ 罪悪感 / 共感 / 承認欲求
/ 自己防衛なんかをバリバリに噛み砕く
けど「悪」とはしないよ
評価の層
→ やさしい
この三層を混ぜると崩れるから。
それが嫌いなだけ。
けど、ここまで明確に分ける必要はないと思う。
三層はわたしの頭の中の整理であって、
子どもに三層理論を渡す必要はないと思うから。


ここを掘ると、とんでもない芋づる式になるから割愛。
アダルトチルドレン構造とかなっちゃう、分岐まみれの図しかない。



やさしいと思う気持ちの中に「気づいて欲しい」あったかもしれないね。
やさしさの中に「気づいて欲しい」もあったかもしれないね。
これでいいんだと思う。
相対化は、何も信じないことではない。
感情を否定することでもない。
行為と結果と視点を往復できること。
すると、見えてくるものがあるでしょ。
- 罪悪感
- 気づいてほしい気持ち
- 孤独
- 承認欲求
つまり、混合。
ここは飛躍しやすい。
本文からどこまで言えるか。
例えば
- いたずらをして反省している描写 → 罪悪感は言える
- 兵十を見ている描写 → 共感・孤独は推測できる
- 承認欲求(わりに合わない) → これは高度(本文根拠は弱くも見えるけど、恐らく該当)
ここを曖昧にすると
「主観の暴走」になるから。
主観はあってもいいけど、
構造とは切り話す。
慣れると簡単になると思う。
承認欲求は、娘に確認してみたのね。
小4に高度なのかどうか分からなくて。



まず、ショーニンヨッキューって何?
その言葉は分からないけど、
気づいてほしいって思ってるのは分かるよ。
分からないとヤバくない?



て言ってた。
高度でもないかもしれない。
言葉って難しい…
言い方変えたら簡単に伝わるのね。
③ 国語での問い
戻し方はこう。
視点移動の確認としての問い。



兵十は、届け物をしてたのがごんだって気づいてたかな?
ここで相対化は止まるから。
具体に戻る。
ごんの行動に対して、
- 動機が混ざっていることを理解できる
- 行動と結果を分けて考えられる
- 視点によって解釈が変わることを言語化できる
ここまで行けば十分かと思う。
到達点:レベル1~5


構造化は能力を隠さない。
- 抽象移動できる子
- 因果を言語化できる子
- 視点を往復できる子
そうでない子との差が見える。
格差を生むのではなくて、
可視化するだけの話。
そして、誰でも鍛えられるところ。
レベルで区分けするなら、
こんな感じかと思う。
レベル1:事実を言える
例えば、
- ごんは、兵十の家に栗や松茸を置いた。
- 兵十は、それを神さまの恵みだと思った。
- ごんは、わりに合わないと思った。
- 兵十は、ごんを撃った。
ここが「土台」。
出来事を2つ以上言える。
誰が何をしたか言える。
レベル2:行為と結びつけられる



栗を届けたからやさしいと思った。
どの行為からそう思ったか言える。
ここはまだ「因果」ではない。
評価の根拠提示。
大事なのはここ。



どのシーンからそう思った?
これを言わせること。
本文のどのシーン?
それを見てどう判断した?
まだ心情推理ではない。
あくまで「根拠の明示」。
レベル3:因果にできる



兵十が独りになって、
自分と同じだと思って、
栗やマツタケを届けようと思った。
〜だから〜になる。
構造が見え始める。
ただし注意。
「かわいそうと思ったから届けた」は、
本文にないなら推測。
だから、
- 本文の描写
- 前後の行動
- 状況
からつないでいるかが重要。
ここを曖昧にすると
感想授業に戻る。
レベル4:混合感情を扱える



やさしさもあるけど、
気づいてほしい気持ちもあったんだと思う。
単純な善悪を越えている。
ここで初めて
「人間理解」に入る。
ここまで行ける子は
読めていると言っていい。
レベル5:視点差まで言語化できる



ごんは何かしら、自分だと気づいて欲しいのかもしれないけれど、兵十は神様の恵みだと思っている。



ごんの気持ちは、兵十にはわからなかった。
だから、ずっとすれちがったままだった。



なぜわからなかったのかな。



ごんは、名乗らずに届け物だけしてたから。



ごんは伝えなかったのか、伝えられなかったのかもわからない。
最後にキツネだと思ってすぐに撃たれてるのには何か理由があったのかな?
兵十に見えたのは何だったんだろうね?
いたずら狐?孤独なキツネのごん?
どちらだったんだろうね。
ここまで来ると構造読解。
同じ出来事を、別の視点で読む。
- 感情同調ではない
- 物語のズレを読めている
こんな感じかと思う。
構造化教育による摩擦の制御|社会・家庭編


因果で話す。
視点を動かす。
構造で整理する。
こうした力が早期に育つと、
家庭内の会話にズレが生まれる可能性はあると思う。
因果を読む力が育つと、
- 非合理に敏感になる
- 感情だけの議論に違和感を持つ
- 前提のズレに気づく
これは強み。
でも社会は、
必ずしも常に論理優位で動いているわけではないから。
むしろ感情優位だったりする。
抽象は武器ではない。
往復できて初めて機能する。
子どもはこう言うかもしれない。



それはお母さんの意見でしょ。
自分はこう思う。
一方で大人は、



普通はこうでしょ。
それじゃダメよ。
と返す。
ここで摩擦は起きる。



これで何度揉めたことかよ。
子ども同士だと揉めにくいのよ。
子どもは割と「ふぅん、そっか。」って聞いてくれる、ふんわりした構造があると思う。
けど、対大人は絶対視になるんだよね。
固定感が強く出やすい。
だから、それが「圧」となって伝わるんだと思う。
つまり、
- 長年積み上げた前提がある
- その前提が自己同一性と結びついている
- 正しさ=自分の正当性になっている
だから問いを向けられると、
議論ではなく、防衛になる構造があるのよ。
固定化した前提が揺れると、
揺れるのは思想ではなく「自分」になるでしょ。
それが圧になるんだって。



で、全員、強制・矯正される図でしょ。
抵抗しまくったのがわたし。
けど、その構造理解の甘さに崩壊したのよ。
分岐が多くなっていって、視点が足されて、言い訳が利かなくなった。周りから促されて、そういう見え方もあるんだって気づくのと、自分で急に見え方が変わるのじゃ違うと思う。
構造思考が前提の子どもにとって、
「普通」という言葉は根拠が薄く感じられるのよ。
だから説明も求めたしね。
一方で、
長年その枠組みで生きてきた大人にとっては、
それが安心の基準でしょ。
だから、大人になれば分かるから。
あとは、人は人、自分は自分。
そうなる。
それは分かるから、意味をくれよってなるんだよね。
ズレは自然に生まれる。
ものすごく自然に。
主体性を掲げた教育改革は進んだ。
でも、構造が分からないままでは問いは立たない。
問いを育てるなら、
問いを受け止める土壌も同時に必要になる。
社会側のリスクもある。
批判的に考える子は、
既存秩序からは「扱いづらい」と見えることもある。
短期的には摩擦が増える構造は、家庭でも社会でもある。
でも、国が求めているのは
「自分の意見を持てる人材」
なのでしょう?
ならば同時に、
意見を受け止める側の訓練も必要になるよね。
それか、時代の違いとか、
考え方の違いをどこかで促した方がいいのでは。
わたしは、子どもに促してるよ。
育てて、潰す。
そんな構図が生まれてはいけない。



ごんぎつねの「死体処理」の問いと同じよ。
問うて、応えて、それはダメ。
これは批判ではなく、
構造の話。
前提を疑う思考を育てる。
しかし制度がそれを吸収できない。
そのとき起きやすいのは、
- 孤立
- 排除
- 同調圧力
- 時代への嘆きという勘違い
これは思想の問題ではない。
更新速度の非対称性の問題だよ。
このカオスを説明しても、
それ自体がカオスになる可能性もある。
リスクだけとも言えない。
相殺が起きる可能性もある。
構造教育そのものの設計リスクは制御できる。
でも、家庭や社会(すでに教育を終えた層)との摩擦までは、実装してみないと分からない。
未知はある。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。



教育が違う可能性は?
この問いを持てるかどうか。
わたしは持ったよ。
自画自賛。
まとめ|構造化教育の弊害
起こり得るのは、
構造化教育導入によるリスクというよりも、
- 抽象の扱い方
- 到達点の設定
- 運用の誤り
- 段階設計の不足
- 熟度の差
による副作用と思う。
その副作用とは、
- 早熟化
- 相対主義化
- 摩擦の増加
- 思考格差の顕在化
- 冷たく見られる可能性
これらは「悪」ではないけど、
運用を間違えたら、
構造化教育過程で起こり得る摩擦に該当すると思う。
教育に関する部分は、制御可能と見てます。
本記事に書いた指導法で、
回避はできる。
ここまで来て、アクティブラーニングの縁起を見てみると、
構造を読めないと生きにくい時代、
社会側が構造型思考を必要とし始めた段階とも読める。
ここが15年前との最大の差なのかもしれない。
急進的な更新は摩擦が大きいでしょ。
未成熟な土壌に高度思考を入れると、
「批判だけが増える」状態になる危険がある。
もしくは、フリーダム化。
何でもあり。
自分の解釈が絶対。
答えがない問いに自由に発想するのはいいよ。
構造なき自由が危険でしょ。
構造がないままの解釈は、
ただの暴走。
問いを立てる力だけあって、
問いを扱う枠組みがないと、
思考は拡散する。
ヘルメネウティクス(解釈学)も、
土台がなければ自由ではなく混乱になる。
自由とフリーダムは違うしね。
構造があって初めて、
解釈は責任を持つから。
けど、ある意味、設計通りではないのか。
思考力・枠なしフリーダム。
まんまの現状じゃない?
意見は色々あっていい。
皆平等=皆を平均に。
おいおい…..
設計なしで使った結果が今の可能性もあるよ。
思考教育はしてたんだろうけど、
できてないから皆無になるものな。
教わってるのは、
正解なんてありません。
自由に考えてください。
これだけ?
型なし自由は、ただの放任だよ。
社会は複雑。
経済
技術
情報
世代
すべてが絡み合ってる。
今は「構造が読めないと回らない社会」
に入りつつあると思うよね。
現状見るによ。
15年前とは条件が違う。
だから構造教育は、
適応の可能性がある。
リスクはあるよ。
何かしらの。
でも導入しないことにもリスクはあるのが現状。
どちらを選ぶかの問題。
体感としては、選ばないリスクの方が怖い。
わたしはね。
特にあの
「人はそのままでいい」
「どんどん褒めて伸ばす」
これこそ、フリーダムの見本かもね。
方法も教えない
負荷も与えない
構造も示さない
状態での「そのままでいい」は、
ただの放置だし。
「どんどん褒めて伸ばす」
褒めるのは悪くないよ。
でも、
努力の構造を示さずに
結果だけ褒めるなら、
それは危険だしね。
ご飯を全部食べるでも、
行動:全部食べた
目的:健康?挑戦?我慢?
評価:えらいね!
この“目的”を曖昧にしたまま評価すると、
努力の方向がぼやけるし、危険だよ。
我慢が美徳となることもある。
視点の欠如の波紋はすごいよね。
問題は、運用と解釈の浅さだって。
「そのままでいい」は土台の承認。
「そのままで終わっていい」わけじゃない。
無構造な肯定は、優しさではなく放任になる図だよ。
放浪者がたくさんいるんじゃないのか。



コメント