『意味なんて、最初から世界に備わってない。』
この言葉がすとんと腑に落ちたとき、わたしの中の世界の輪郭が、音もなく崩れていきました。
前記事。
泣いている人がいたら『不幸だ』と思うし、傷ついている人がいたら『助けなきゃ』と思うじゃない?
人の行動の背景にあるものの見方を学んでから、そうじゃないと気付いた。
目の前にある出来事に意味を与えていたのは、わたし自身。
完全に踊らされていた。
現実には『出来事』しか存在していない。
悲しみも、苦しみも、感動も、すべては意味づけの産物。
つまりは、幻想。

これが仏教でいう『空(くう)』?
そんな馬鹿な…..今まで歩いてきた人生は?
誰の舞台で踊らされてたんだ….色々な人の舞台で踊って、自分で脚本すら書けていない現実を目の当たりにする。
でもそれをただの思想として理解するのと、生きる現場で自分の身に起こることとして飲み込むのとでは、深度がまるで違う。
意味のない世界に、立たされていた、人の舞台に。
そして、それがわかったとき、どう生きていくのが正解かを問わずにはいられなかったんです。
意味がない世界に、私たちはどう立つか?


世の中って、思った以上に『意味づけ大会』なんですよね。
それもけっこう雑なやつ。
たとえば
- 挨拶してくれない=無視された。
- LINEが既読にならない=嫌われてる。
- 話してる途中でスマホ見た=失礼。
- 相談される=頼ってくれてる。
全部こっちの脳内劇場でしょ。背景も関係性も見ずに。
- “意味”は与えられるものではなく、自分がつけている
- 仏教の『空』が伝える“世界の構造”とは?
① “意味”は与えられるものではなく、自分がつけている
世界が何かを語りかけてくることって、実はあんまりなくて。
しゃべってるのは、いつだって自分の頭の中のナレーション。
しかもナレーターがめちゃくちゃクセ強い。



また無視された。
きっとバカにされた。
わたし嫌われてる。
現実ってのは、本来“ただの出来事”なんだけど、そうやって受け取る。
もっと言うなら、そうやって受け取りたい。
なぜなら、前記事で説明するなら、心配されたいからくる行動とか、そんな感じ。
他にも色々あるけどね。


自己理解が足りていないと、自分の行動すら理解できない。
そしてその相談に乗ってしまう、巻き込まれる人も存在している。
その上に『これは悲しい』『これは裏切りだ』『それは酷い』と、私たちが勝手に感情と意味をつける。
つけないと生きていけない部分もあるけど、それを“真実”として信じちゃうと、人生まるごと持ってかれる。相談してる側も乗ってる側もね。
人の舞台で踊る自分。どちらもだ。
② 仏教の『空』が伝える“世界の構造”とは?
仏教では、『すべては空(くう)』って言うんですよ。
聞いた瞬間、『え?じゃあ、私のこの苦しみも空?』って思いますよね。
そうだよ、空(くう)。
つまり、『実体がない』。
『固定された意味なんて、どこにもない』。
あなたが“そう見てるだけ”。
たとえば、あなたの目の前で泣いてる人がいたとするじゃない。
『かわいそう』って思って終わるか、『どうしたの?』って聞くか、理由は聞かずにハンカチを差し出す行動に出るかは、あなた次第。
状況と関係性によっては、泣いてる人の側にずっといる選択肢も出てくると思う。
好きなだけ泣けばっていうね。
こういうの好きですけどね。
理由も聞かずにただ、側にいてくれる感覚ね。
けど、この行動もさ、相手によっては、



理由聞かないってどういうことよ!!愛情が足りない!
普通聞くよね!?冷たい!!!!
こういう女子もいますよね。
苦手なタイプ。



言いたきゃ、言えよ。
せめて、どうして理由を聞いてくれなかったの?って聞く余地もねーの?
※一応書きますけど、わたしは女子です。
こうなるだけ。
けど、彼女にとってみたら、理由を聞いてくれて構ってくれる感じで愛情を確認するワケでしょう?
多分よ、想像の世界だから分からないけど、一生懸命寄り沿って考えてみたらそうなるんだって。
けど、わたしからしたら、こちらの立場を尊重してくれて、ただ、泣き終わるまで側にいてくれるその感じが優しさにしか思えないんですよ。
多分、こういうタイプは、言えば聞いてくれる人、そう思うから。
だから、立場が逆なら、わたしもそうするんですよね。
そして、男女逆になると、こうもなりえるでしょ。



わたしに言えないって何!?



言いたくないこともあるんだよ。
消化不良って知らねーの?
(もう、オカルトでしょ)
同じ出来事でも、意味づけが変われば、世界の見え方はまるで違う。
世界どころか、人もよ?
- かわいそう=泣くくらいの出来事があったんだ
- どうしたの?=わたしで良ければ話を聞くから言ってみて
- ハンカチを差し出す=何があったかは知らないけれど、聞かないから涙だけでも拭いたら?
- 理由を聞かない=冷たい人!理由すら聞いてくれない!ただ居るだけ!
仏教って、意外とシンプルで冷静。
『全部幻想だから、好きに意味つけていいよ。でもそれ、幻想だよ?』って。
だから、前記事でも書いたけど、泣いてるから不幸とは限らないし、怪我してるから助けが必要とも限らない。
けど、相手は不幸と訴えてくるし、助けが必要と訴えてくる。
優しさがあると、そこに付け込まれる、そして見切ろうとすると叫ばれる。
抉られる、それでもそこから抜け出そうと思えるかどうか?そういう境地も存在する。
けど、そこを抜けない限り自分の人生が歩けない。
それ、ただの“かまってスクリプト”かもしれないという事実。
大事なのは、そのことに自覚的であること。
つまり、泣いてたらハンカチを差し出す。
怪我してたら絆創膏を差し出す、それ以外のことをしないという選択ができる。
わたしはさ、付き合ってらんないのよ、つんまらない、自己正当化の愚痴に。
付き合える人は、そうれでいいと思う。
愚痴るなとは言わないよ。
自覚持てって言ってるだけの話で、自覚持ってる人の愚痴なら聞ける。
『真実』って、いったい何?


それらしく見えてるものの中に、『ほんとのこと』なんてどれくらいあるんだろうと思わない?
感情に飲まれてると、目の前の出来事が“絶対的な現実”に見える。
- その感情はどこから来るの?
- その現実はどうして引き起こされてるの?
- 何度目?いつも同じじゃないの?
でもね、それって見たいように見て、感じたいように感じてるだけ。
というか、見たいように見れるように、感じたいように感じるように行動してるだけ。
潜在意識というものに乗っ取られて。
問題はそれを、真実だと信じてしまう構造が、私たちの中にある。
“認知の歪み × 潜在意識のドライブ”による現実操作ね。
でも無自覚だから、本人は『それが現実』としか思ってないっていう現実。
ややこしい。つまり、そうしたくてしてるという現実に自覚的でないってこと。
- 感情が『真実』に見えてしまう構造
- 一生、舞台の上で生きる人もいるという現実
- わたしが“本当に自分の脚本”を書けているか?
① 感情が『真実』に見えてしまう構造
怒ってるとき、悲しんでるとき、泣いてるとき。
その瞬間、人はそれを『これが現実だ』と思う。
実際に涙も出るし、感情も動いてる。“体感”としてのリアルはある。
でも、そこには“もうひとつの構造”がある。
たとえば、潜在意識の中に『心配されたい』があると、そのための行動が、本人も気づかない形で現れる。
そこから波及する人間関係や様々な問題たち群。
- 無意識に弱さを見せる、それが周りに伝わる
- 小さなトラブルを大きく語る
- 『相談という名の愚痴』を撒く
これ、誰かから安心を得るための行動だったりする。
本人自覚なし。そしてそこら辺りで、共鳴という人間関係が作られて行く。
そして、その反応を見て、



よかった。
私は愛されてる。
と処理する。
この構造が“自動ルーティン”として組まれてる人は、悩みすら“心配されるための装置”になってるという現実。
そして、それを“真剣な相談”として他人にぶつける。
でも、そもそも解決する気がない。
なぜなら、構われること自体が目的だからね。
で、構われて安心して、



ありがとう、スッキリしたー!
と言って、また同じ行動へ戻る。
これがループ構造。
解決されない悩みは、幻想の上で展開され続ける。
でも本人は『これは現実だ』と信じてる。ある意味現実なんだけどね。
自分が求めている潜在意識から作られた現実、こうだね。
けど、本人は嫌だ嫌だ!と愚痴る。



求めてるの自分だってば….
そして相談を受ける側も、『その幻想にリアルなラベル』を貼って会話を続ける。



この会話に意味ある?
この問題、解決する気ある?
それって、誰の真実?
で、この幻想に付き合う時間は?
……っていう感覚にわたしがなってしまうのも、ある意味当然でね。
そして、こっちは気づいてても、



それは違うと思うよ。
なんて言える立場にない。
幻想を語る人が悪いわけじゃなくて、ただ、幻想に乗らない選択肢もあるってことに、誰も気づかないまま話が進んでるよね。
② 一生、舞台の上で生きる人もいるという現実
この構造に気づかないまま生きてると、一生、自分以外が書いた脚本の舞台に立たされる。
『可哀想、不幸でいなきゃかまってもらえない、かまってちゃん』
『がんばらなきゃ価値がない、無価値ちゃん』
『いつもいい子でいないと捨てられる、仮面ちゃん』
『存在確認をする、確認ちゃん』
たとえば、人の相談に乗って『解決できた気』になることで、“誰かの役に立った”という安心(自己重要感)を自分に与える。
それがいけないわけじゃない。
でも、もしそれが“役”であったとしたら、その演技は、いつまで続けるの?
気づかないうちは、観客のつもりで客席にいるのに、ふと気づいたら、舞台のど真ん中でセリフを言わされてるんですよね。
しかもアドリブ。しかもエンドレス。
これが、現代の“生きづらさ”の正体だったりする。
③ わたしが“本当に自分の脚本”を書けているか?
じゃあ、どうしたら舞台から降りられるのか?
演出を見抜く力と、自分の足場(=自己一致)をしっかり持つしか手立てはない。
じゃないと、他人のシナリオに余裕で人生持ってかれる。
そう考えるとさ、一体どれくらいのパラダイム数が存在するんだろうって思えてきたのよ。
さらに、じゃぁ、正解って誰が知ってるの?とも思ってきたんだって。
正解はひとつじゃないじゃないか….じゃぁ、何のために会話が存在しているんだ?



この目の前の人が話してる相談という名前がついた物語は、何なの?
意味ある?この人生に、この今の会話に。
そこまでなった。幻想に生きる人生だよ。
けどさ、よく考えてみて、幻想を見続けたい人だっているわけで、いくつかのパターンが存在することにも気づく。
他者に答えを求められないという孤独


- きっと分かってくれるはず
- わたしの気持ち、察してくれるはず
- こんなに頑張ってるんだから、報われるはず
……この問いは、一度は誰もが抱える。相談する側も、される側もだよ。
でも、その問いの正体は、期待だよね。
——でも、その“はず”が裏切られるたびに、心に無念さが積もっていく。
そこから、人には“届かない領域”があると気づかないといけない。
どれだけ願っても、どれだけ分かち合おうとしても、他者は『わたし』にはなれない。
その瞬間からはじまるのが、“孤独のフェーズ”にもなる。別記事では次元で説明してるけどね。全部串刺し。
- 『気づけない人』『気づいてるつもりの人』『気づきたくない人』
- 正解を持っていても、他人に渡すことはできない
① 『気づけない人』『気づいてるつもりの人』『気づきたくない人』
人には段階がある。
だけど、その段階を外からは見分けられない。
- 気づけない人は、『それが普通』だと思って生きてる。
- 気づいてる“つもり”の人は、『あの本に書いてあった』と語る。
- 気づきたくない人は、『分かってるけど、でも』と言い訳で固める。
それでも、みんな『わたしはわかってる側』だと思ってる。
そして地味に怖いのが、自分もその中にいたという事実。
だからわかる。
自分がいかに見えてなかったか、後になってやっと分かる。
② 正解を持っていても、他人に軽く渡すことができない
わたしは、自分なりに『たぶんこれが正解だな』と思えるものを、もう持っている。
けどそれは、簡単には渡せない。
というか、受け取れないと思うのよ。
なぜなら、人には“受け取る段階”というものがあるから。
気づきたくない人。
気づけない人。
気づいてる“つもり”の人。
それぞれに、その人なりの『正解』がある。
そしてそれを認めることも、わたしは他者を尊重するということだと思ってる。
どれだけ本質を伝えても、その人が立っている場所によって、正解の形は変わってしまう。
だから、わたしはそれを“羅針盤”としてブログに残している。
このブログは、『正解はひとつじゃない』と知ってる人のための羅針盤。
ひとつだけだと思ってると、平気で逆走しちゃうから。
そして、“空”を知らないまま生きてしまう人への置き手紙でもある。
“空”を知らずに生きると、人生に正解が『たった1つ』か『せいぜい2~3個』しかないように感じてしまう。
だから、人はあれは違う、これは正しい…と、永遠にジャッジしながら生きていく。
けど、本当はそうならないように、知識という土台が必要。
でもね、まわりにその知識を持っている人がいない限り、そんな思考の転換なんて、最初から無理ゲーなのよ。
だからせめて、『見たい人だけが見に来ればいい』という形で、わたしはブログを書いている。
……だけどね。
この考え方を持っていると、どうしても孤独が付きまとう。



言っても無理かもね….
そう思えてしまった時点で、もう“まともな会話”って成り立たなくなる。
雑談に逃げる?
わたしには、それすら億劫に感じてしまうんだよね。



気づけば?
って思ってしまうから。
——だからなのか、受容があるようで、実はそんなに無いのかもしれない。
でも、それも分かってる。
自分も、弱くて何も見えてなかった時期があったから。



理解しろよ、お前も通ってきただろ。
別のわたしが、そう言い聞かせることもある。
けど、まだ線引きがうまくできない。
わたしは多分、強くなったわけじゃない。
ただ、分かるようになっただけ。
だからこそ、まだ、しんどいときもある。
③ だから、答えがない世界で、わたしは立ち続けるしかない
わたしは、わたしの見解が『多分合ってる』と思ってる。
でも、それが正解かどうかなんて、誰にも証明できない。
- 絶対はない
- 他人を変えることもできない
- 正しさを押し付けた瞬間に、ズレる
だからこそ、わたしはこう思う。
『もう好きに生きたらいいじゃん』って。
ただし、これは他人に放り投げるための“好きにすれば”じゃない。
わたし自身が、『誰の脚本も生きない』と決めたうえでの“好きに生きる”という宣言。
それでも時々、ゲームにのらないわたしに、ゲームのルールで敵意が飛んでくる。
『なんで空気読まないの?』
『それは冷たいんじゃない?』
『そんなの自己中でしょ?』
たぶんもう、世界の見方が根本的に違ってしまったんだと思う。
だからわたしは、答えのないこの場所で、ただ立ち続ける。
誰にも合わせず、誰の脚本にも戻らず。
そして、静かに問う。
『あなたは誰の人生を生きてるの?』と。
『成功の法則』が“意味の設計図”になる


『意味なんてないんだ』と気づいたとき、多くの人は、空っぽになる。
虚無感。虚脱感。
何のために生きるのか分からなくなる。
でも——じゃあ、生きないんですか?ってことになる。
幻想だとわかっても、どうせ生きるなら、“自分の意味で生きたほうがマシ”だと、思ったから、再構築になった。
それが、構造だけは真実なのだから、それに沿って生きるしかないという現実。
- 何も信じられなくなったあとに残った『構造』だけが真実だった
- 『意味を作る力』が、人生を取り戻す鍵になる
- それでも、他人の物語からは降りていい
① 何も信じられなくなったあとに残った『構造』だけが真実だった
世界に意味がないなら、何を信じて生きるのか?
わたしが最後に残したのは、『構造』だった。
- 投影がどう起こるか
- 自我はどう作られるか
- 行動は何に駆動されてるか
- 意識と無意識のつながり
- 引き寄せや成功の法則といった人生の基盤にもなる構造たち
心理学・哲学・宗教・脳科学……いろいろ学んだ結果、『あ、これは全部“設計”なんだな』と思ったの。
言うても独学だから。
法則がある。
パターンがある。
ループがある。
そして、この設計のどこかに自分を置き直せば、人生は動く。
だからわたしは、この“設計”の中に、自分の居場所を見つけようとした。
そのとき軸にしたのが、“成功の法則”。
② 『意味を作る力』が、人生を取り戻す鍵になる
幻想でもいい。
ただの意味づけでもいい。
でも、それを“自分で作れるかどうか”が、生きるか死ぬかを分ける。
誰かが与えた価値じゃなくて、誰かに喜ばれるための目標でもなくて、『これは私にとって、意味がある』って言い切れるかどうか。
それが、自分の人生を取り戻す鍵。
- 他人の期待に応えるためでもなく、
- 世間の評価を満たすためでもなく、
- 自分という一人の人間が、『意味を作っている』と自覚できること。
それが“空”の世界で立つということだと思ってる。
③ それでも、他人の物語からは降りていい
『ここにいなきゃ愛されない』
『役に立たなきゃ価値がない』
『いい人でいないと人間関係が壊れる』
こういう“誰かが作った物語”は、しれっと人生を乗っ取ってくる。
でもね、降りていいんだよ。
もう、その物語に出なくていい。
『私はこのシナリオには出演しません』って断っていい。
それが冷たいと言われてもいい。
優しくないと思われてもいい。
共感できない人とは、共演しなければいい。
だってそれ、あなたの脚本じゃないでしょ?
最後に※誰の脚本を生きていますか?
意味のない世界に意味を与えるのは、自分しかいない。
でもその意味が、他人の投影や期待で塗り固められたものだったら?
わたしは、もうそこに付き合わないと決めたのよ。
面倒だから。
けど、理解はするんだって。
幻想を現実だと思い込んで生きていた自分に、別れを告げたのよ。



さよーなら。
いま、わたしが立っている場所が正しいかどうかなんて、分からないのだけれど、感覚的には、



こうじゃないと、おかしくない?
そんな感じ。
独学だけど、あらゆる知識を学んで見て思ったのよ。
世の中の9割以上の人は、多分、“真実を知らないまま”生きてる。
でも、そんな人たちも楽しそうだったりする。
笑って、遊んで、悩んでるフリして、なんとなく“人生をやっている”。
それが悪いとは思わない。
むしろ、そういう人たちの方が生きやすいのかもしれない。
だって、9割だから、価値観の共有は余裕でしょ?
でも、こっちはこっちで、自分が見てきたもの、感じてきたもの、“この世界の真実”だと信じてるものが、ある。
だけど、それを誰かに伝えたときに返ってくるのは…..



なにそれ?
え、そんなことで悩むの?
めんどくさい!
……まぁ、だいたいこの程度だ。



ごちゃごちゃ、こっちに絡んで、愚痴ってるお前の方がめんどくせーよ。
『楽』の定義がそもそも違う。
こちらが見ている“真実”に、あちら側はそもそも興味がない。
それなのに、なぜか文句や愚痴は言ってくるし、そういう生き方をしている。
まぁ、自分が『善』なんだよな。
そんなとき、心の中でこう叫びたくなる。



それ、お前が選んだ“楽”だろうが!
じゃあ、ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ!
——でもね、世間で叫ぶ機会は、ない。
なぜか私は、いつもトラブルの“外側”に配置される。
そういう人生になっていた。



あなた、その場にいたらヤバい人だから、配置させません。
『核心』を言うから。無理です。
他者理解、足りてません。
もっと段階的に発言できるように、修行してください。
私は、人に合わせない。迎合しない。
空気は読む。でも流されない。
昔はそれを『器量がない』って思ってた。
だって、



あなたには、理解が足りない。
そんな言葉!よく人に言えるよね!
わたしには、言えない!



どこが酷いと感じるのかすら分からない。
言えない?わたしの言ってる言葉は、誹謗中傷じゃなくて、真実よ。それが誹謗中傷になるの?
だけどそれが、相手にとっては“酷い”と感じられる。
どこが?って思っても、伝わらない。
『言えない』っていうあなたに、『言ってはいけない』を押しつけられた気がした。
背景を見るたびに、まだ、うんざりする。
そう、わたしはずっと背景を見てる。
正直、確かに足りなかったと思う。
でもね、足りなかったのは『理解』もかもしれないけれど、視点の方だったよ。
わたしはずっと、あなたから見た“他者の理解”をしようとしていた。
あなたの世界に、溶け込もうとしてた。
そこに『正しさ』があると思ってた。
あなたを『善』とする世界の中で、融合できない私は“劣悪”なのだと信じ込んでた。
でも、違った。
足りなかったのは、わたしが“あなた側”の視点を持っていなかったこと。
あなたの世界と、わたしの世界。
見てる景色そのものが違うという理解が、なかった。
善とか悪とか、器量があるとかないとか、そういう話ですらなかった。
ふたを開けたら….



あなたにも、理解が足りてなかったよ。私は理解した。
あなたという人を。
そして、あなたが見ていた世界の構造も。
……でも、その世界は一部だった。
あなたが見ているそれ、全体じゃないって知ってる?
今なら、いろんなことを言える。だけど、言わない。
その選択が、今の私にはできるから。
ちょっと都合よく解釈してみる。
その人の“状態”に関係なく、その人の“核心”を突く、そういう人間だったから、私は“場から外された”んだと思う。ある意味、守られてたのかもしれない。



世間で怨み買わないように、『場』から外れるようにしといてやる。
もし、この価値観を共有できる人がいたら、こちら側にも『楽』が訪れるはずなんだって。
でも、いかんせん、人数は少ない。笑
こういう面でも、わたしみたいな生き方には覚悟が伴う。
だからと言って、知らないフリして生きる、そんな勇気は持ち合わせていない。
どの道迷うのが目に見えるから。
だから、多分、わたしの見え方を知る必要はないんだろうけれど、そういう考え方ができるようになっていればいいんだと思って。
不毛な愚痴をこぼす前に『どこをどう見てるのか』を問えるように育ててるつもり。
子どもはね。
全体を見れる視点を最初からつけとけばいいでしょ。
そしたら『苦』ではなくなるはず。
自分の見え方だけを『善』として育てると、反対側が『悪』になってしまうから。
知らないまま生きてる人たちと、この世界に存在して、世界を共有するじゃない。
だから、知らない側の考え方も教えておく。
どっちが正解、どっちが不正解じゃなくて、そのときの真実の見方ができるようにね。
普通を変える、馴染みすぎないように、だけど排他的にならないように、そういう人たちもいるんだよって。結構難しいよ。
まだ違うのか?と思わされることもある。



あなたに似てきてる。
気を付けた方がいい。
かわいくない。
折られる。
いや、もっと正確に言うなら、何かをしようとするたびに、静かに止められるような感覚。
わたしの中にある、“見えないブレーキ”が作動するような感じ。
あぁ、この感じだよ、って思う。昔から、ずっと。笑



あなたが片方の世界観だけを語って、それは違うと言い張るから、小さなうちの子は、それに違和感を覚えて自由を訴えるんだよ。
だから、子ども側に説明をすることを選んだよ。
何が何でも守ってやる。このジレンマよ。
核を持ってると、ふとした言動が起爆になるから、難しんだよね。
接し方が。だから距離を置いた方がいいってなる。
何気ない言葉だったと思うんだって。
こちら側からしたら普通のさ。
子どもっぽくないと言われたけれど、その子どもに理解求めてんじゃねーよ。
あなたの『子どもらしい』に付き合ってらんないのよ。
わたしはわたしだ。ブレーキなんてもうしないよ。
誰から、どんな風に思われようが、わたしのわたしに対する評価は変わらない。
誰に何と言われようと、自分を信じる。自分が選んだものを、自分が見たものを、聞いたものを。
そして、わたしは語られる言葉よりも行動を見る。
思考が変わらなければ行動が変わらないからだ。
相手の思考を自分で想像するなんてもってのほかだったりする。
これほど無駄なことがあるだろうか?
それはわたしの思考じゃなくて、あなたの思考だ。
そんな時間を割いている暇があるなら、聞いた方がましだ。
けれど、そういうのが怖くなくなったのは、ある程度迷わなくなれたのは、自分の脚本を自分で書く覚悟ができたから。
他者の意見を聞かないワケじゃない、ちゃんと聞くよ。それが会話だ。
だから、あなたにも問いかけたい。
——あなたは、誰の脚本を生きている?
そして、それを自分で選んでいると言える?
色々書いたけど、まとまってないような、まとまってるような……結局さ、自分が生きたい世界を生きたらいいと思う。成功の法則だとか、あぁいう基盤があると、こういう考え方になるよって記事だもの。
ただ、それだけだよ。
けど、やっぱりひとりで生きるのは難しいよね。それも分かってる。だから、わたしも含めだけど、舵取りだけはちゃんしないと。タイタニックになっちゃうでしょ。
こういう世界は、『知っておくだけの価値』があると思う。
心理学ってすごいのよ。
何がすごいって、仏教と驚くほどリンクしてる。
『煩悩』『無知』『執着』『投影』『認知の歪み』…言葉こそ違うけれど、人間がハマる構造は、実は同じだったりする。
そう思うと、心理学を深めることって、仏教を“頭で理解する”入り口にもなると思う。
逆に言えば、仏教が難しいと感じる人ほど、心理学から入るとわかりやすくなるんじゃない?
だって、八正道ってほぼ認知行動療法(CBT)でしょ?思考・行動・意図を整えることで、苦しみを減らすっていう実践論。けど、わたしは、整え方、合ってるの?とは思うけど。
いや、やっぱり感情に着目しないと…と思うから。
長くなるな….ここはマインドフルネスになってくるんだけどね。
けど、マインドフルネスも感情の原因構造までは掘らないよね?



お前何ブツブツ言ってんの?
ってなってくる。
わたし的見解になると、感情に触れずに整えても、それは“都合のいい再構築”で終わるから、大事なのは、感情に向き合い、構造を知り、自分で意味を選ぶこと。
そして、それができる状態こそが、自己一致✕自己選択の境地だと思ってるんだけど、正しいかどうかは分からないのよ。何せ持論だから。



持論かよ!



そう、持論だよ。それだけは強く言っとく。
持論だ。
自己一致に該当するのは、正見=物事の本質を見誤らない、無我=『こうあるべき私』という幻想を手放す、如実知見=現実をあるがままに観る智慧、こんな感じかなぁ…?



また持論?



や、これは合ってる…と思うよ?わたしも完璧に理解してるわけじゃないからね。
重要、主要と思われるところを、抜いて理解してるだけだからー。
けどさ、そういうところを抜いて読むとさ、まぁ、類似してて面白い。だから、合ってるんじゃない?



……(じゃない?)。
その程度なんだけどね、心理学を知れば、仏教が腑に落ちてくる。
『現代版の悟りの道』かもしれないとも思う。
↓直訳すると、俺は選ばれし者、お前は俺のやり方で行くのか?だけど、本質はきっと、俺はもう目覚めて、この道を行く。お前はどうする?っていう問いかけの方じゃないのかなぁっていう妄想。多分そうだと思う。
↓“自分を許し、間違いを恐れず、自分らしくあれ”というメッセージが詰まってる曲。20歳でこれだもんな。
↓この曲、一見エロい歌に見える(実際、そういう要素は強い)けれど、裏テーマは『心の所有=誰が自分をコントロールしてるのか?』という自己の境界への問いっぽい。マネスキンの醍醐味。



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